暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

大山(雨降山)と豆腐

2011年07月22日 | ハイキング・ぶらり散歩
                      ( 雨降山大山寺の国宝・不動尊 )   
七月連休の或る日、大山へ出かけ、豆腐料理に舌鼓をうちました。

大山は神奈川県丹沢山地の南東に位置し、標高1245m。
円錐形の美しい山容は相模平野へ突出して存在感があり、
富士山とともに幼いころより親しんできた山です。
別名、雨降山(あふりさん)(または阿夫利山)と言われ、
豊作、豊漁の守護神として古代より信仰対象の山です。

この山に雲や霧がかかり見えなくなると、必ず雨が降ると言い伝えられ、
日照りが続くと今でも雨乞いの神事が行われています。

私たちがお参りしたせいではないのですが、台風6号により
高知県馬路村では17日から3日間の総雨量が1000ミリを超すという
記録的な大雨になりました(日本の年間降雨量は約1600ミリ)。

                   

                              
                          ( 大山 阿夫利神社下社 )
大山といえば、名物に大山豆腐があります。
江戸から昭和初期まで大山詣での講が盛んになり、
講の人々は農産物を持参し、神仏へ奉納し、宿坊の宿代にしました。
中でも大豆は、名水と相まって大山豆腐として有名になったのです。

参道には大山講の宿坊(旅館)がたくさん立ち並んでいます。
その一軒、ねぎし旅館へ草鞋を脱ぎ、昼食に豆腐会席をいただきました。
ご飯とみそ汁のほかに豆腐料理が七品、
胡麻豆腐、卯の花、湯葉の煮物椀、豆腐入り茶碗蒸、冷奴、
ワインゼリー寄せ、デザートでした。

胡麻豆腐と、上品な味付けの卯の花が絶品でした。
帰りに女将さんへお尋ねしました。
「胡麻豆腐がまろやかでこくがあって、とても美味しかったです。
 お土産にしたいのですが・・・」

「ありがとうございます。
 胡麻豆腐はお客様の評判が良いので嬉しいですが、
 自家製でして料理にお出しする分しか作っていないのです。
 東京や鎌倉の有名店の胡麻豆腐を食べ比べたり、
 苦労してやっとここまでになりました・・・」

既製品を買うことしか考えていなかった胡麻豆腐ですが、
お話しを伺って自分で作ってみたくなりました。

ケーブルカーで阿夫利神社と大山寺へ上り、お参りしました。
いつも通過してしまうので途中下車し、初めて雨降山大山寺へ詣でました。
大山寺は四国八十八箇所の雰囲気が漂う、弘法大師ゆかりの霊場です。
国宝・不動明王の御開帳の日にあたり、拝観が叶いました。

帰りに良弁坂にある老舗の小出商店で「大山豆腐」を買いました。
湧水を張った水槽に豆腐が並んで沈んでいます。
長い豆腐を浮かせて木のまな板にのせ、
そのまま水中で大きな包丁で均等に切り分けて、
二丁をプラの容器へ入れてくれました(昔、むか~しの懐かしい光景でした)。

                    

夕食に冷奴にして食べました。
豆腐そのものがとても美味しく、お勧めです。

                                


春を訪ねて・・・停電中

2011年03月19日 | ハイキング・ぶらり散歩
計画停電で3月15日から毎日3時間の停電が続いています。
初日の15日は19時から22時までだったので、
夕食は膳燭の灯りの元で食べました。
暖房は無しでしたが、ガスと水道が使えるので助かります。

17日は13時から16時まで停電だったので
春を訪ねて・・・約2時間の散歩へ出かけました。
目指す処は、矢指谷戸(やさしやと)(横浜市旭区)です。

途中で、金ヶ谷広町公園に寄ってみました。
ここの白梅は今がびっしり満開です。
梅と一緒に白やピンクの花モモが咲き始めていました。

公園に隣接した家に山茱萸(サンシュユ)の見事な大木があって
一面黄色い花に覆われていました。
この花を見ると「春が来た!」といつも嬉しくなります。
刈り込まれた土佐水木も黄色い花をつけ始めていました。

                
                

矢指谷戸の入り口にある「一里山の湧水」へ寄ってみました。
湧水と言っても井戸からポンプアップしているので、
湧水の流れは止まっていました。
一番近い湧水で、茶会などによく汲ませてもらっています。
お目当ては野菜直売所のフキノトウです。
売り切れていたので、近くの土手でフキノトウを5個摘んできました。

矢指谷戸は一部、横浜市・矢指追分市民の森になっています。
谷戸の田んぼにはホトケノザ、オオイヌノフグリ、カラスノエンドウが
小さな花をつけていました。
菜の花が満開でした。
むせ返るような濃密な花の香りがあたり一面に漂っています。

「菜の花を使うのは2月28日の利休居士の命日を過ぎてから」
と先輩から伺ったことを思い出したり、
こんなに香りが強い花を利休さんは好んだのかしら?
と思ったりしました。

                

梅や菜の花が咲いている谷戸ではジョギングしている人、絵を描いている人・・・
ここだけ見ると大震災やただ今停電中が嘘のようです。
お花もですが、ここは大好きな木五倍子(キブシ)の宝庫なのです。
山間なので遅めですが、花芽がだいぶ膨らんでいて
1週間くらいで黄色い花房が見られそうです。

たくさんの春に逢えて、好かった!
                          

   写真は上から、「サンシュユの大木と梅  金ケ谷広町公園」
             「ホトケノザ」 (季節の花300提供)
             「カラスノエンドウ」 (季節の花300提供)
             「菜の花畑」 (季節の花300提供)           

箱根 金時山へ

2010年10月26日 | ハイキング・ぶらり散歩
10月24日、大学時代の友人たちと箱根・金時山へ登りました。

金時山は箱根の外輪山の一つで、標高は1212m。
遠くからでも一目でわかる特徴的な山容を持ち、
山の形からかつて猪鼻嶽(いのはなだけ)と呼ばれていました。

坂田公時(さかたのきんとき、幼名金太郎)がこの山で山姥に
育てられたという伝説から、金時山と呼ばれています。
2時間くらいで登れ、富士山や山頂からの眺望が素晴らしいので、
箱根でも人気の高い山です。
 
                 
                 
                
「ご一緒に金時山へ登りませんか?
 ゆっくり登りましょう。
 最少催行人数5名で、暁庵が同行いたします」

同窓会のアトラクションの一つとして幹事の呼びかけに
7名が申し込んでくれました。8月のことです。
10月に入って友人たちも所用が重なったりで、5名になりました。
加藤さん、寺尾さん、岩崎さん、河村さん、そして私です。

実は、2週間前から右足全体の痺れや痛みがひどく、私自身が
「登れるかしら?」と案じていました。
マッサージや湿布薬のおかげで何とか痛みが無くなったので、
やっと最終打ち合わせの電話をかけたのは二日前でした。

コースは4つありますが、明神ヶ岳登山の折、
下山道で通った「矢倉沢コース」を登り、
帰りは「公任(きんとき)神社コース」で下りました。

                 
                 

仙石の金時山登山口を10時20分頃から歩き出し、頂上へ着いたのが12時20分。
途中、リンドウ、秋の田村草、ホトトギスなど秋の花がいっぱい咲いていました。
河村さんと私は花の写真を撮りながら、ゆっくりマイペースで登ったので、
他の3人には大分頂上で待たせてしまいました・・・ゴメンナサイ!

それでも、同窓の5名で金時山頂上に立てたのはとても嬉しく、
加藤さんがマサカリを持った、記念写真を撮りました。
「ばんざぁーい!」

天気の崩れが早く、時折、小雨がぱらつく天気でしたが、
大湧谷、仙石原、箱根の山々が見渡せて、これで富士山が
見えればいうことなし・・・でした。
金時娘の茶屋へ寄り、ボリュームのある名物味噌汁とコーヒーを
頂きながら、旧交と身体を温めました。

大学を卒業してから何十年も立ち、それぞれ仕事をやり遂げて
今こうして会ってみると、
元気に会えること、一緒に愉しく行動できることの
シアワセをつくづく感じました。

また、一緒に登りたいと思いますが、
みんなの足を引っ張らないように
もう少し、身体と足を鍛えなければ・・・です。

                           後から 

  写真は上から、「金時山」
           「金太郎と山姥 歌麿画」
           「山麓の金時蹴落石」
           「ガマズミの実」
           「松虫草」
 

箱根仙石原  ススキと埋蔵金

2010年10月14日 | ハイキング・ぶらり散歩
ススキ(薄)は秋の七草の一つで、別名を尾花、茅(かや)とも言います。
10月11日にススキで有名な箱根・仙石原を訪ねました。

夏の暑さが異常だったせいで、ススキの穂が出るのが
例年より1週間から10日遅いそうです。
同窓会の頃に、銀の穂波が一番美しいといいなぁ~。

仙石原高原でススキの散歩道を往復2キロくらい歩きました。
緩やかな登りの一直線の道で、そこ以外は入れないように保護されています。
ススキを愛でる人たちの列が延々と続いていました。

               

ススキの穂はヒトでいうと十三歳くらいでしょうか。
一斉に穂を出した様子なので、1週間後が見ごろです。
十一月上旬には早や枯れ尾花になっているのでしょうか?

ススキの散歩道の途中で
「ここは黒澤明監督が姿三四郎の決闘シーンを撮影したところだ!
 間違いない・・!」
と、主人が興奮気味に言い出しました。

「柔道の決闘中、敵に締め上げられて遠のく意識の中で
 蓮の花が開くのを夢見て、突如意識が戻り、
 一気に敵を投げ飛ばした」・・・シーンだそうです。

映画「姿三四郎」を見ていませんが、確かにロケに使いたくなる景色です。

風が少し出てきて、ススキが揺れ始めました。
もっともっと風が吹いて、薄ケ原が一斉に唸り出すような
風の強い日にまた来てみたい・・・そんなことを話し合いました。

               

仙石原近くの福風(ふくふう)という、好い風の名前の店で
昼食を食べました。
なんと、そこのメニューに埋蔵金のことが書かれていたのです。
仙石原に埋蔵金が隠されているという話は初めてなので、
お宝に興味をそそられ、調べてみました。

  徳川家康配下の大久保長安は、佐渡、岩見、伊豆で
  金山や銀山奉行を勤めました。
  この間に莫大な財宝を着服したとして、
  死後の慶長十八年に死骸が磔となり、
  一族もことごとく切腹させられました。

  長安磔刑の後に、家康は残った者たちを尋問し、
  着服金の一部にあたる七十万両が家宅で発見されましたが、
  残りの大部分は仙石原の箱根山中に埋まっている
  ・・・と言い伝えられています。

 その場所は
 「箱根仙石原から南に数町行った富士山のよく見える場所、
  黒い花の咲くつつじの木の根元」・・だとか。

ススキよりもロマンを感じますよねぇ~。
「ち、血が騒ぐっ・・」
                                

箱根湯本 早雲寺

2010年10月12日 | ハイキング・ぶらり散歩
10月11日、同級会の打ち合わせで箱根へ出かけました
三連休の最後の日は、雲ひとつない快晴で、
富士山、大山、丹沢、箱根の山々がくっきりと聳え、
手招きしているようでした。

箱根湯本でホテル近くにある早雲寺(そううんじ)へ寄りました。
早雲寺は、大永元年(1521)、北条早雲の遺言で二代・北条氏綱が
京都大徳寺第83世以天宗清を招いて創建した寺院です。
小田原北条氏の菩提寺で、北条五代の墓があります。

大徳寺を模した七堂伽藍の威容を誇っていた早雲寺ですが、
天正18年(1590)4月5日、豊臣秀吉は小田原城に立て籠もる
北条氏を滅亡せんと、箱根山を越え、早雲寺に本陣を構えました。
しかし、6月中旬に石垣山一夜城が完成すると
早雲寺とその一帯を焼き払ったそうです。

小田原戦役の折、早雲寺山内でもう一つの悲劇がおこりました。
千利休の高弟・山上宗二が秀吉の怒りに触れて惨殺されたのです。
境内に「山上宗二追善碑」が建てられています。

               

天正10年(1582)11月、天下人となった秀吉は
山崎の妙喜庵で茶会を催しています。
この時、今井宗久、千利休、津田宗及と共に、山上宗二も招いており、
秀吉は茶人として宗二を厚遇しています。
しかしその後、はっきり意見を述べる激しい気性の宗二は
口が災いして秀吉の怒りを蒙り、追放されました。

畿内にいられなくなった宗二は各地を転々とし、
天正16年(1588)頃、茶の湯が盛んだった小田原へ
北条氏規(伊豆韮山城主)を頼ってやってきたようです。

小田原へ下った宗二は、利休が早雲寺にいることを知り、
密かに利休を訪ね、再会します。
利休のとりなしで一度は秀吉の勘気が解かれましたが、
茶会の席で再び秀吉へ暴言を吐き、即日、耳鼻をそがれ、
惨殺されたのです。天正18年1590)4月11日のことでした。

その1年足らずの天正19年(1591)2月28日、
利休は秀吉から死を賜り、切腹して果てました。
いったい何が、秀吉と宗二、秀吉と利休の間にあったのでしょうか?
・・・これは永遠の謎であり、関心事です。

                

                                
早雲寺とお茶に関係することで、忘れてはならないのが
「早雲寺文台裂(ぶんだいぎれ)」と呼ばれる名物裂の存在です。

「早雲寺文台及び硯箱」に張られていた裂(布)で、
文台と硯は室町時代から江戸時代初めにかけて盛んだった
連歌の会席に用いられたものです。
当時の文台の装飾は蒔絵が多く、裂が張られたものは
早雲寺文台だけという貴重品です。

「早雲寺文台裂」は、銀糸を縦糸に、萌黄・海老茶・薄紅の横糸を使って、
ナデシコやキキョウのような草花紋を蔓紋でつなぎ合わせて
織られた銀襴です。
絢爛豪華ですが、上品な落ち着きがあってお気に入りの名物裂です。

先生が仕覆(龍村複製)を持っていらして
「仕覆の裂地は?」
「早雲寺文台裂でございます」
と、時々稽古や問答に登場するのですが、
今、本歌は東京国立博物館に収蔵されています。

                                

    写真は上から、「早雲寺本堂」
             「山上宗二追善碑」
             「境内の苔庭と木漏れ日」
             「早雲寺文台裂(龍村複製)」