マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

初めての卒業小学校クラス会。 そして 『わたしはある』という者。

2018-03-20 22:09:09 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。
今日は3月20日。火曜日。

私は関東生まれ。父の転勤で私は神戸の小学校に入学。 小学校卒業後に再び父の転勤で東京に戻る。結婚まで東京住まい。
私は、結婚後も転勤族で、今まで、小学校の同窓会等に出たことはない。 案内状を頂いたこともない。

突然に舞い込んだ・・・   『小学校クラス会案内状』
 
   『家族も増えて…クラス会』     出席することにしました。

卒業後初めて、小学校の同級生と再会する。 同級生のお一人の名前も顔も思い出さない。覚えていない。
初めての会に参加するような気持ちで、出席してみることにした。
どんな感じがするのだろう?  私を覚えていてくださる方はいるだろうか?  私は皆様を思いだすだろうか?
とても興味深い。楽しみです。


そして。

今日は四旬節第五火曜日。

『今日の福音 イエスの御言葉』

『イエスはファリサイ派の人々に言われた。

『わたしはある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
さらに、
イエスは言われた。

   「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、
  
    『わたしはある』ということが分かるだろう。

わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにはしておかない。
わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」』

     ヨハネ福音書 8章21-30節


   『わたしはある』
  誰のことでしょう? ファリサイ派の人は信じない方のようです。



その昔。
旧約時代。


『神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われた。』 出エジプト記3-14

それは、『わたしは始めであり終わりである者』 『存在の初めからある者』 『いつまでもおられる方』 『神』 ということです。


時が過ぎ。
新約時代。


イエスは、『わたしは神から遣わされた者』:『わたしはある』であると信じないないのか? と話します。
       しかし。 ファリサイ派の人々はそれを信じません。


そこで。

イエスは、『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、
  イエスは『わたしはある』ということ。神であること。
  イエスが、自分勝手には何もせず、ただ、御父に教えられたとおりに話していること。

以上の二つが分かるだろう。』ヨハネ8-28 とファリサイの人々に、再び言われたのです。

更に。

  イエスを『わたしはある』であるということを信じないならば、
それは罪である。 その人はその罪のうち死ぬことになる。
 とイエスは言います。

でも。

 『十字架につけられたイエスを仰ぎ見る人は救われます。』 とも言われます。
  それは、
イエスは、『神の御心=万人の救い』を行うために、神に遣わされた方=神の独り子である。
      ・・・・と信じる時
  生きることができる。 永遠の命に入ることができる。 ということなのです。


『神の御心=人類の赦し』 が 『十字架上の磔刑』 によって成就した。 ということなのです。   

   
『今日の拝領唱』

『イエスは群衆に言われた。「わたしは地上からあげられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。」』
                      マタイ福音書 12章32節

皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
何十年ぶりに遭う同窓生。そして 見ないで信じる神。  私には、同様に、心の中に生き続ける大事な人たちです。
   明日もお元気で!