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利根川が上越国境の谷を駆け下り、関東平野を潤い始めるあたりの赤城山西麓に、《三原田》という地域がある。かつては群馬県勢多郡赤城村といったが、現在は合併して渋川市に含まれる。林野と畑地が混在する台地が崖となって利根川に落ちる三原田の段丘上に、閑静な住宅地が広がっている。市街地から遠く利便性に欠けるけれど眺望は抜群である。そこは5000年前にも住宅団地が広がっていた。暮らしていたのは三原田縄文人である。
(三原田遺跡上空から榛名山を望む。麓の街は渋川市。その手前が利根川=三原田遺跡調査報告書より)
あのころ、というのは縄文時代ではなく昭和40年代後半、日本経済は成長に成長を続けていた。賃金は物価に先立って上昇し、人々はマイカーの次のマイホームに夢を膨らませていた。地方でも、県が自ら住宅団地を整備する時代であった。群馬県企業局が、赤城山麓の段丘上になぜ着目したのか知らないが、眺望と風当たり抜群の桑畑に250余戸の宅地を造成すると決めた。しかし着手後すぐに、そこが遺跡地であることが判明した。
(住居跡=同)
(土器出土状況=同)
(炉跡=同)
そのころ私は榛名山麓の渋川市に住んでいたので、しばしば現場を見に行った。初めて見る遺跡発掘は珍しく、数千年前の住居や土壙、土器などが掘り出されることに興趣をそそられた。三原田縄文人は直径4mほどの円形竪穴を掘り、中央に石組みの炉を切って家とした。そうした住居跡が330余も発掘された。20戸ほどのムラが幾世代にも亘って営みを続けた遺構と分かり、「日本だけでなく世界的に重要な先史集落遺跡だ」と注目された。
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膨大な炉跡を見て、調査後にどうするのかと訊ねると、すべて記録するがとても保存しきれないから捨てるという。それならわが家の庭に譲り受けたいと申し出ると、所在を届けてくれたら持って行って構わないということになった。私は保存状態のいい炉を選び、忠実に復元できるよう炉を構成している10数個の石にチョークで番号を振り、写真に撮った。石は重くて、1戸分の炉を運ぶのに知人の軽トラックを頼むほどだった。
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庭に復元すると、野性味豊かな炉が再生した。石の内側は黒ずんだり赤茶色に変色していて、縄文人の生活痕がリアルである。さっそく縄文パーティー開催を宣言した。好き者はいるもので、知っている人知らない人が榛名山で獲った雉、利根川の上流で釣った鮎などを抱えて集まってきた。雉はアルミホイルで包み、オリーブオイルに浸して蒸し焼きにした。鮎はもちろん塩焼きである。蘇った炉は十分に機能し、宴は深更に及んだ。
(三原田団地の住宅案内図)
(縄文時代の住居跡分布図=同)
40年ぶりに訪れて、現代的な住宅街に様変わりした台地を見回した。大きな案内図が掲げてあって、それを眺めているうちに「三原田遺跡調査報告書」の竪穴住居分布図を思い出した。5000年の時を隔てて、人はこの台地上にそっくりの光景を造り出したことになる。整然と区画された高度成長の夢の地は、庭木がすっかり土地に馴染んで落ち着いた街区になっている。人口減少社会に転じた今、公営団地そのものが史跡のようなものだ。
台地への登り口は「樽」だ。樽式という、弥生時代の標識土器の出土地である。渋川市では近年、鎧をつけた古墳時代の武人が発掘され話題になった。三原田遺跡が保存されていたら、縄文・弥生・古墳時代と立体的な歴史ゾーンが整備される可能性があった。団地の一角に小さな公園があって、敷石住居を模したらしいモニュメントに「千古の地今ここに甦る」と書かれている。せめて記憶の中に、千古の姿を手探りしてみる。(2014.9.26)
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あのころ、というのは縄文時代ではなく昭和40年代後半、日本経済は成長に成長を続けていた。賃金は物価に先立って上昇し、人々はマイカーの次のマイホームに夢を膨らませていた。地方でも、県が自ら住宅団地を整備する時代であった。群馬県企業局が、赤城山麓の段丘上になぜ着目したのか知らないが、眺望と風当たり抜群の桑畑に250余戸の宅地を造成すると決めた。しかし着手後すぐに、そこが遺跡地であることが判明した。
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そのころ私は榛名山麓の渋川市に住んでいたので、しばしば現場を見に行った。初めて見る遺跡発掘は珍しく、数千年前の住居や土壙、土器などが掘り出されることに興趣をそそられた。三原田縄文人は直径4mほどの円形竪穴を掘り、中央に石組みの炉を切って家とした。そうした住居跡が330余も発掘された。20戸ほどのムラが幾世代にも亘って営みを続けた遺構と分かり、「日本だけでなく世界的に重要な先史集落遺跡だ」と注目された。
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膨大な炉跡を見て、調査後にどうするのかと訊ねると、すべて記録するがとても保存しきれないから捨てるという。それならわが家の庭に譲り受けたいと申し出ると、所在を届けてくれたら持って行って構わないということになった。私は保存状態のいい炉を選び、忠実に復元できるよう炉を構成している10数個の石にチョークで番号を振り、写真に撮った。石は重くて、1戸分の炉を運ぶのに知人の軽トラックを頼むほどだった。
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庭に復元すると、野性味豊かな炉が再生した。石の内側は黒ずんだり赤茶色に変色していて、縄文人の生活痕がリアルである。さっそく縄文パーティー開催を宣言した。好き者はいるもので、知っている人知らない人が榛名山で獲った雉、利根川の上流で釣った鮎などを抱えて集まってきた。雉はアルミホイルで包み、オリーブオイルに浸して蒸し焼きにした。鮎はもちろん塩焼きである。蘇った炉は十分に機能し、宴は深更に及んだ。
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40年ぶりに訪れて、現代的な住宅街に様変わりした台地を見回した。大きな案内図が掲げてあって、それを眺めているうちに「三原田遺跡調査報告書」の竪穴住居分布図を思い出した。5000年の時を隔てて、人はこの台地上にそっくりの光景を造り出したことになる。整然と区画された高度成長の夢の地は、庭木がすっかり土地に馴染んで落ち着いた街区になっている。人口減少社会に転じた今、公営団地そのものが史跡のようなものだ。
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台地への登り口は「樽」だ。樽式という、弥生時代の標識土器の出土地である。渋川市では近年、鎧をつけた古墳時代の武人が発掘され話題になった。三原田遺跡が保存されていたら、縄文・弥生・古墳時代と立体的な歴史ゾーンが整備される可能性があった。団地の一角に小さな公園があって、敷石住居を模したらしいモニュメントに「千古の地今ここに甦る」と書かれている。せめて記憶の中に、千古の姿を手探りしてみる。(2014.9.26)
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