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1186 安東河回(韓国)朝鮮時代の両班の村に迷い込む

2024-10-06 08:57:07 | 海外
石を練り込んだ築地や風雪にさらされた土塀が延びている。築地塀の内は瓦屋根の両班(ヤンバン)のお屋敷、藁を拭いた「草の家」は常人以下の庶民の家だ。「建陽多慶 立春大吉」などと大書された紙が貼られた門からは、黒い帽子の「カッ」を被り、チョゴリにパジの韓服(ハンボク)姿の両班が、お供を連れて出て来そうである。一方、草の家に帰って来たのは、1日の労働を終えて疲れた農夫であろうか。私は李氏朝鮮時代の村に迷い込んでいる。



韓国一の大河・洛東江(ナクトンガン)は、太白山脈に発して安東市を横断、大邱、釜山と南下して日本海に注ぐ。上流部ではダムが湖を造って陶山書院の眺望に潤いを与え、市の中心部へ下って西に向きを変えた流れは、20キロほど先で大きく蛇行し、小さな村を包み込む。そこが安東市豊川面河回里で、李氏朝鮮時代の16世紀から営まれてきた同族集落(氏族村・両班村)が奇跡のように維持されている、世界遺産の「河回(ハフェ)村」である。



韓国時代劇のセットのような村の中を、私は中心通りから路地に入り込み、公開されている屋敷に入り込んだりして、この半島で長く営まれて来た暮らしを感じ取ろうとしている。600年ほど昔、豊山柳氏(プンサンリュシ)という一族が村を興し、以来、同族のみが暮らす集落として続いてきた。現在は120世帯250人ほどが暮らし、その多くが同族だという。河回とともに慶州の良洞も、典型的な「集姓村」として世界遺産登録されている。



河回は両班文化が最も栄えた韓半島東南部に位置し、宗家、住居、精舎、書院などが、周辺景観とともに完全に残っている。韓国国家遺産庁のページには「氏族は苗字と本願をともにする父系血縁集団、すなわち先祖を同じくする同姓同本の人たちと、他の血縁集団から配偶者として入って来た女性たちから構成される社会集団だ」とある。14世紀末からの朝鮮時代初期に形成され始め、朝鮮後期には全体の村の8割がそうした形態だったという。



河回は伝統的な風水の原則を守り、川辺立地に営まれている。川が塞いでいない東側は豊かな水田が広がり、暮らしの豊かさが偲ばれる。村の中を歩いて意外だったのは、瓦屋根のお屋敷と草の家がごく隣接していることだ。使用人の住居だとすれば、両班と庶民の暮らしは案外、混在していたのだろうか。ところどころに解説版があるものの、ハングルだからさっぱりわからない。特産だというリンゴを試食させてもらう。小ぶりだが、味はよかった。



村は建造物だけでなく、古文書や伝統的行事をよく伝えている。今日は限られた日にしか催されない「伝統花火」の日で、エリザベス女王が訪問した際の「Royal way」だという道は、見物する人波が途切れることなく続いている。妻が「韓国中の人たちが来ているのかしら」と驚くほどだ。疲れた私は見物を断念したが、皆さん「川に渡した綱に仕込まれた花火が川面を走り、両班が遊ぶ船に火の塊が落ちる。不思議な趣だった」などと興奮している。



村には「河回別神クッ」と呼ばれる仮面劇が伝わっている。尊大な両班を揶揄って、庶民が日ごろの鬱憤を晴らす内容だといい、国の重要無形文化財に指定されている。村内の売店に飾ってある面の額を何気なく写真に撮って来たのだが、ハングルに混じって121という数字が書いてある。どうやらそこに並ぶ11面は国宝「第121号」を模したものであるらしい。42年前の韓国行で買って帰った1面が、今もわが家の壁に掛かっている。(2024.9.28)

























(韓国国家遺産庁のホームページより)












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