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私は「街」を訪ね歩くことが好きだが、だからと言って「自然」に興味がないというわけではない。海や山の美しく雄大な景観には心惹かれるし、何よりも澄んだ空気を胸いっぱい吸い込むと、この惑星が愛おしくなる。ただ「山」は登らねばならないから困るのである。登り坂が苦手なのだ。だから山への旅は少なくなるのだけれど、今回は珍しく、その代表格として立山にやって来た。標高2450メートルの室堂平で、超高峰の威容を眺めている。
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軟弱な私がこんな高地に登って来られるわけがない。バスに乗ってやって来たのだ。富山地方鉄道の立山駅からケーブルカーで美女平に運ばれる。標高はすでに977メートルだ。大型バスに乗り継ぎ室堂に向う。「立山に来た」と友人たちにメールすると、「富山出身の母が女学生だったころ、立山登山が楽しかったと話していたことを懐かしく思い出しました」という返信が届く。少女らが健気に登った山をバスで行く。それがいささか後ろめたい。
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後ろめたいけれど冷房が効き、杉の植林地がブナの自然林に入れ替わり、それも植物限界を超えて草原へと遷って行く車窓は快適で飽きない。初夏には両側が雪の大谷となる道路だ。富山市街だろうか、遠く麓に街が広がり、富山湾から能登半島まで一望される。この自動車道が通じたのは1964年。さらに地中の道路を行く電動バスやロープウエーを乗り継いで、長野県大町に至る立山黒部アルペンルートが全通したのは1971年になってだ。
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おかげで私のような年寄りも、こんな大自然に近づくことができるわけだが、立山がこれほどの大観光地であるとは予想していなかった。私以上の年配者も散見されるし、様々な外国語が飛び交っている。頭の上まで飛び出す大きなリュックを担いで、これから登山に出発しようとしている中年グループがいる。女性もいて入念なストレッチを繰り返している。私の祖父や叔父も立山に登ったと言っていたが、装備は格段に進歩しているのだろう。
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山ではよくあることだが、立山も立山という山はない。眼前にどっしりとあぐらをかいている雄山(3003m)、大汝山(3015m)、富士ノ折立(2999m)の、南から北へ続く三峯を総称して立山と呼ぶのだそうだ。メールを送った友人の一人は「縦走したころが懐かしい」と返信を寄こした。山好きには不可避のコースなのだろう。広々とした室堂平の真ん中に、遭難者の慰霊塔が立っている。美しい山は危険地帯でもある。しかし山があるから登る。
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立山は富士山、白山とともに日本の三霊山なのだそうだ。大宝元年(701年)、越中国司の長男で16歳になる佐伯有頼は、逃げた白鷹を追って山に分け入り、熊に導かれて高原の窟にたどり着く。そこに如来が待っていて「この山を開き、衆生済度の霊山とせよ」と告げられた。これを聞いた文武天皇は立山を霊域と定め、有頼は出家して開山に尽力したという。だから「古来、越中男子は立山登拝がしきたりであった」と、室堂駅に書いてある。
陶芸に「蹲(うずくまる)」という壺のスタイルがある。人が膝を立てて蹲っているような、愛嬌のある形で私は好きだ。立山連山と向き合って、巨大な「蹲」を思い浮かべる。大伴家持が「立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし」と万葉集に詠んだのは、越中国司時代の天平19年(744年)のことだ。国庁があった伏木あたりから富山湾越しに望む立山連峰は、それは美しく神々しい。「蹲」などと言ったら叱られそうだ。(2023.8.25)
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軟弱な私がこんな高地に登って来られるわけがない。バスに乗ってやって来たのだ。富山地方鉄道の立山駅からケーブルカーで美女平に運ばれる。標高はすでに977メートルだ。大型バスに乗り継ぎ室堂に向う。「立山に来た」と友人たちにメールすると、「富山出身の母が女学生だったころ、立山登山が楽しかったと話していたことを懐かしく思い出しました」という返信が届く。少女らが健気に登った山をバスで行く。それがいささか後ろめたい。
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後ろめたいけれど冷房が効き、杉の植林地がブナの自然林に入れ替わり、それも植物限界を超えて草原へと遷って行く車窓は快適で飽きない。初夏には両側が雪の大谷となる道路だ。富山市街だろうか、遠く麓に街が広がり、富山湾から能登半島まで一望される。この自動車道が通じたのは1964年。さらに地中の道路を行く電動バスやロープウエーを乗り継いで、長野県大町に至る立山黒部アルペンルートが全通したのは1971年になってだ。
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おかげで私のような年寄りも、こんな大自然に近づくことができるわけだが、立山がこれほどの大観光地であるとは予想していなかった。私以上の年配者も散見されるし、様々な外国語が飛び交っている。頭の上まで飛び出す大きなリュックを担いで、これから登山に出発しようとしている中年グループがいる。女性もいて入念なストレッチを繰り返している。私の祖父や叔父も立山に登ったと言っていたが、装備は格段に進歩しているのだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/27/af13cc7ceebef8df3e4ca320d1763120.jpg)
山ではよくあることだが、立山も立山という山はない。眼前にどっしりとあぐらをかいている雄山(3003m)、大汝山(3015m)、富士ノ折立(2999m)の、南から北へ続く三峯を総称して立山と呼ぶのだそうだ。メールを送った友人の一人は「縦走したころが懐かしい」と返信を寄こした。山好きには不可避のコースなのだろう。広々とした室堂平の真ん中に、遭難者の慰霊塔が立っている。美しい山は危険地帯でもある。しかし山があるから登る。
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立山は富士山、白山とともに日本の三霊山なのだそうだ。大宝元年(701年)、越中国司の長男で16歳になる佐伯有頼は、逃げた白鷹を追って山に分け入り、熊に導かれて高原の窟にたどり着く。そこに如来が待っていて「この山を開き、衆生済度の霊山とせよ」と告げられた。これを聞いた文武天皇は立山を霊域と定め、有頼は出家して開山に尽力したという。だから「古来、越中男子は立山登拝がしきたりであった」と、室堂駅に書いてある。
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陶芸に「蹲(うずくまる)」という壺のスタイルがある。人が膝を立てて蹲っているような、愛嬌のある形で私は好きだ。立山連山と向き合って、巨大な「蹲」を思い浮かべる。大伴家持が「立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし」と万葉集に詠んだのは、越中国司時代の天平19年(744年)のことだ。国庁があった伏木あたりから富山湾越しに望む立山連峰は、それは美しく神々しい。「蹲」などと言ったら叱られそうだ。(2023.8.25)
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