今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

393 狼煙(石川県)漆黒の海に烽火が命なり

2011-10-25 13:40:45 | 富山・石川・福井
狼煙(のろし)とは、日本書紀にも「烽(とぶひ)」の表記がある古代からの情報伝達手段だが、能登半島の先端には明治の初めまで「狼煙村」があった。現在は珠洲市に含まれるものの、なお同市狼煙町としてその名を留めている。ここは海の難所だということで、夜ごと火が焚かれた土地なのだろう。いまその役割りは禄剛崎灯台に引き継がれている。能登半島はこの北端の岬を境にして外洋側を外浦、富山湾側を内浦と呼ぶ。

車を置いて急坂をしばらく登ると、広々とした台地に出る。その先端に白い可愛い禄剛崎灯台が建っていて、その先は断崖だ。「ひぐらしが鳴く奥能登のゆきどまり」と山口誓子の句碑も建つ。どうでもいい句だ。「海から昇る朝日」と「海に沈む夕日」が同じ場所から眺めることができるので有名だと説明板にある。それもどうでもいいように思うけれど、日本列島を思い描くと、なるほどそうした地点はさほど多くはないのかもしれない。

内浦から立山連峰がよく見えるというから、能登半島の海への突き出し具合は大した距離ではないと思っていたのだが、禄剛崎から立山はほぼ真南にあたり、東は佐渡と新潟の越佐海峡の方角になる。佐渡と能登は朱鷺が行き来していたらしいから、こちらも陸地まではさほどの距離とは思えないけれど、地球の球形は視界から新潟の街を隠し、朝日は海から昇ることになるのだろう。

        

灯台の傍らに「東京302km」「上海1598km」「釜山783km」「ウラジオストック772km」と書かれた標識が、それぞれの街の方向を向いて立っている。私は岬に立つと、なぜかいつも感情の高ぶりを覚えるのだが、それは岬が「行き止まり」であることから来る寂しさと、「海を越えれば異郷」なのだというトキメキが混ざり合って襲って来るかららしい。そのことから言えば、禄剛崎はまことに岬らしい風情に満ちた岬で、私は高ぶった。

万葉集を編纂した大伴家持が越中の国司に赴任したのが天平18年(746年)。能登も彼の管轄であったから、2年後、能登4郡の巡察に出た。海路・陸路をたどりながら、旅は難渋したであろう。禄剛・金剛の岬あたりをどう通過したか、判然としないようだが、帰路に詠った「珠洲の海に朝びらきして漕ぎ来れば長浜の湾に月照りにけり」には、旅の終わりの安堵の響きがある。

万葉学者の犬養孝氏はその足跡をたどり、戦後間もないころだろうか、このあたりを「こんにちの日本では稀に見るひなびたわびしい漁村風景が点々と見られる。海ぎわの、いまにもくずれそうな船の苫屋のわきに、人影もなく小網が干しかけてあるようなところだ」と書いている。さすがにいまは道路も舗装され、家並もしっかりしていて「鄙びた侘しい」風景ではないけれど、人影の薄い静けさはさほど変わっていないかもしれない。

        

岬近くにそこそこの平坦部があって、畦道で案山子コンクールが行われていた。狼煙の末裔は岬暮らしを楽しんでいるようである。「ご出身は?」「狼煙村です」とは何とも剛毅な響きではないか。狼煙の歴史を知ろうとお世話になったネットのページは、江戸時代に先祖がこの地から北海道に渡った一族の、ルーツ探しの苦労の作であった。能登は北海道と、対馬暖流で結ばれている。

金剛崎から海沿いの道に降りると、潮風に洗われた鳥居の須須神社があった。鄙びた村社のような風情は、かえって土地の暮らしとの近さを感じさせた。(2011.10.1)







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