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392 時国(石川県)奥能登は海の止まり木財を成し

2011-10-18 19:48:19 | 富山・石川・福井
私を能登に誘った1冊に網野善彦著『日本社会再考』がある。副題に「海民と列島文化」とあり、農業単色経済であるとされがちな近世以前の日本社会が、実は「海」という自然資産を活用した、もっと多彩で豊かな社会であったことを論証しようとする内容だ。その具体例として奥能登を取り上げ、時国家について考察を深めている。半島のさいはて、シベリアからの季節風が容赦なく吹き付ける地で豊かな交易? 行ってみねばなるまい。

「百姓は農民、頭振=水呑は貧農という思い込みが、支配者の定めた制度、あるいはその見方に左右された誤りであることを認識した上で、改めて奥能登を見直してみると、田畑が少なく、貧しい遅れた奥能登というこれまでの通念は全く逆転する。そこは、起業家ともいうべき時国家にもみられるように、(中略)豊かな迴船人・商人が集住した多くの都市、あるいは都市的な集落に支えられた先進的で富裕な地域だった」(同書より)

御陣乗太鼓の地・名舟をさらに海岸に沿って行くと、「時国」という地名が現れる。町野川が日本海に注ぐあたりで、外浦では珍しく平地が広がっている。その平野の喉仏のような位置に、上と下の時国家が広壮な館を構えている。確かに「こんな辺境に」と驚かされるが、網野氏によれば「石高中心の史観に慣らされてしまった眼だから驚く」ということになる。日本海交易が栄えたころは、ここは最良の地の利を有していたのだから。

        

所有田畑の面積でいえば、時国家は眼前の平坦部をすべて領していたとしても、越後の大庄屋などに比べたらものの数ではない。しかし平家の末裔である時国家は、貴種を尊ぶ時代にあって配流先の能登で勢力を固め、日本海の止まり木のような能登の地の利を最大限に生かし、「交易の最先端として、松前にも至る広域的な活動に従事」(同書)したのだろう。自らも廻船を保有し、現代流にいえば総合商社として巨利を上げたと思われる。

時国家は別格としても、能登には黒島の角海家など、財を成した「百姓」は多い。しかし士農工商の世にあっては、公文書上はそうした交易に携わる多くの人々は「頭振=水呑」の扱いを受けるから、一般的に奥能登は「貧しい遅れた」地という歪んだ通念に陥ってしまう。それが同書の指摘するところで、私は網野氏の主張に強い説得力を覚える。奥能登を旅することによって豪壮な舘や漆塗りの文化を目にし、その思いを強くしたのだった。

日本海交易の北への主要な「輸出産品」は、米と塩であったろう。それらの産品が昆布や毛皮、干物といった北の産物と交換され、無事廻船して帰れば巨万の富を手にすることができた。「起業家」が各寄港地に支店を構えた能登では、本来の農民は千枚田で米を作り、貧農の扱いを受けたかもしれない人々が揚げ浜式製塩で塩を産み出した。その暮らしは豊かであったに違いない。それらは今、世界農業遺産に登録され、奥能登の財産だ。

        

それにしても観光とは軽いものだ。大型バスで「白米の千枚田」の展望公園に着くと、「写真はどこがいい?」と走り回ってシャッターを押している。過疎化の中、山腹から海辺まで棚田を維持する苦労はいかばかりか、想像力は働かない。塩田では職人の講釈に付き合った後、試食用の塩を舐めて眼をくりくりさせている。かくいう私もその中の一人なのだから何をか言わんやだが、観光客とはかくも軽い集団をいうのである。(2011.10.1)






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