今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1066 三島(福島県)踏ん張って豪雪と過疎アーチ橋

2022-11-14 10:26:58 | 山形・福島

只見線の車窓を楽しむことが目的の旅だけれど、せっかくの「奥会津」だから山の中で1泊しようと考えた。駅に近い宿泊施設を探すと、会津宮下駅の近くに旅館が見つかった。そんな消極的な理由ではあったものの、おかげで初めて知る三島町で、通過するだけでは知り得ない山里の暮らしをわずかながらも垣間見ることができた。700世帯1420人が暮らす町の中心部は、只見川沿いの東西1キロ、南北200メートルほどの平坦地である。

そのわずかな地域に町の機能が集約している。役場を中心に郵便局、駐在所、消防出張所、県立病院、信用金庫が点在し、食堂、床屋、美容室、クリーニング店、コンビニなどの店が一通り揃っている。西側には保育園、小学校、中学校が置かれ、東は墓地で街は終わる。なにやら人生がこの1キロで完結できそうだ。北の川沿いには大きな老人福祉施設や温泉施設が整備され、南の山際を只見線が延びて寺と三島神社の参道を横切る。町名由来の神社だ。

<strong><span style="font-size:10px;">(斎藤清「会津の冬」)</span>
</strong>
町の面積は福島県の0.7%を占めるものの、人口や耕地面積は0.1%に過ぎない。林野面積率は87%と、全国平均を大きく上回り、福島県の中でも高い比率だ。つまりほとんどが山林で、主要産業は林業ということになる。特に「会津桐」の産地として知られる。冬は2メートル近い積雪になるそうで、隣接する柳津町出身の版画家・斎藤清が描いた『会津の冬』のような風景が見られるのかもしれない。雪の中で編まれる蔓などの組細工が地場産品だ。

只見川のダム整備が完了すると、三島町の人口は急減した。減少率が福島県1になった年もあったという。危機意識を強めた町民は、1970年代から「ふるさと運動」を展開する。都市と農村の交流に着目した先駆的事業だった。火の見櫓が建つメインストリートの民家の軒々に、何やら見慣れない標識が突き出している。「丸に〆」「カギに文」「ヤマに石」など様々だ。聞けばそれぞれの家の「屋号」なのだという。これも地域おこしの一環なのだろう。

 

「屋号サインプロジェクト」は2012年度のグッドデザイン賞を受賞している。駅前には中学生による「雨ニモ負ケズ」の「壁画プロジェクト」が飾られている。背景の只見川風景画は校長先生の作だ。そして地域1のビューポイント「みやしたアーチ3兄(橋)弟」を見に行くと、渓谷に架かる鉄橋と道路橋の絶景である。「三つのアーチ橋が一つのファインダーに重なって見ることができる視点場は国内でここだけです」と誇らしげに書いてある。

活気ある街にしたいと、地域おこしの熱風が勢いよく燃え上がった時期があったのだろう。しかし難しいのは継続である。閑散とした通りを行くと、その炎はいささか下火になっているのではないかと心配になる。夜、地元テレビが町議会の中継録画を流している。議員が「この公債費率では、間もなく町財政は行き詰まる」と執行部を責めている。確かに過疎山村の経営は難しいと考えているうちに眠ってしまい、満天の星空を見逃してしまった。
  

翌朝、三島大橋が架かる只見川に行くと、橋の竣工記念碑が祠のように鎮座している。書は田中角栄。竣工は1975年だから退陣直後の筆か、肩書きはない。三島を通る道は、六十里越の峠を過ぎれば角栄氏の新潟3区だ。三島の街を歩いて感じるのは、陶芸に通った群馬県の旧六合村の佇まいだ。山の暮らしは自ずと似てくるのかもしれない。ともに「日本で最も美しい村連合」のメンバーだそうで、路傍を彩る花叢が多い。(2022.10.31-11.1)

 

 

 

 

 

 

 

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