今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1067 会津若松(福島県)赤ベコの街に紅葉が彩を添え

2022-11-15 13:44:11 | 山形・福島

鶴ヶ城を訪ねると、遠足の小学生たちが賑にやって来る。65年前、小学6年生の私は新潟からの遠足児童としてここにいた。そして18年前にも妻と訪れ、こんなことを書き残している。「その街のニオイを嗅ぎ取るには、宿泊してみる必要がある。夜、暗く沈んだ裏通りで地酒を酌み、土地の言葉を聴く。明けて朝靄の街路を歩いて駅に行く。そこでせわしく通勤・通学する人たちを観察していると、その土地がほんの少し分かったような気分になる」

つまりこの街を訪ねるのは3回目になる。しかし今回も、宿泊はしなかった。老いたからだろう、ホテルに投宿することが億劫になってきたのだ。遅くなっても帰宅して、妻が沸かしておいてくれる風呂に飛び込み、自分の布団に潜り込む、その瞬間が至福なのである。体力が落ちるとともに、知らない街を歩く好奇心は減衰するものなのかもしれない。その結果、今回も「分かったような気分」になれず、「私の会津若松」は薄く靄がかかったままだ。

只見線の旅を、終着の一つ手前の七日町駅で終わりにし、市内循環バスを待って鶴ヶ城に行く。この城も3回目になるのだが、前回、妻と来た際に撮った写真がどうも気に入らず、今回は天守を中心に城の写真を撮り直すことが目的である。出会った小学生たちに遥か昔の自分を重ね、ひとしきり感傷に浸って街に戻る。巡回バスが「会津若松市は福島県で一番早く市になった街です」と繰り返すものだから、バスの中から市役所をカメラに収める。

明治半ばの市政施行当時は3万人、それが114687人になっている。福島県ではいわき市、郡山市、福島市に次ぐ4番目の人口規模だが、40万石を領した松平家の会津藩だから、当時は一番だったのだろう。市のページには、古事記は「相津」と記しており、西から越後の大毘古命が、東から常陸の建沼河別命がやって来て出会った土地だから「相津」なのだ、と由来が紹介されている。日本海と太平洋の真ん中になる会津の位置を、うまく伝えている。

アーケード街を行くと、古い市役所の跡地だという広い駐車場に、「会津の先人たち」として「松江豊寿」を紹介する看板が立っている。旧会津藩士の息子に生まれた豊寿は、陸軍士官学校を出て日清・日露戦争に出征、第1次大戦時に徳島の俘虜収容所長になった。俘虜のドイツ人たちに人道的に接し、陸軍省の意を超えた「武士の情け」をかけた。俘虜たちは松江の人柄に深く感銘し、鳴門市で国内初の「第九」を演奏するなど、市民と交流した。

 

このエピソードは私も知っていたけれど、その所長が後に若松市長を務めたとは知らなかった。写真の豊寿は立派な髭を生やした陸軍少将で、近寄りがたい厳しさだが、よほどの人徳者だったのだろう。その人格は「敗者・会津の悲哀」に育まれたというのが定説のようだ。街は野口英世青春通りを整備するなどこの医学者をヒーローに押し上げているが、歴史のある街とは羨ましいもので、豊寿のような人生を沈潜させ、静かに日々を送っている。

JRの磐越線は磐城と越後を結び、郡山で東線と西線に分かれる。会津若松で分岐させれば「相津」の故事に従うことになっただろうに、旧国鉄にそのゆかしさはなかった。磐越西線の乗り残している区間を楽しんでいると、磐梯山をずいぶん近くに眺めることになった。会津盆地は寒々として、既に晩秋の気配である。小学校の遠足土産に買った赤ベコは紛失してしまったのだが、書斎の棚に2頭目の赤ベコが加わって首を振っている。(2022.11.1)

 

 

 

 

 

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