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昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

993 白河関(福島県)一人来て白河の関冬構え

2021-11-26 22:53:53 | 山形・福島
パンデミックで空港などの水際対策の重要性が再認識されたが、これは現代の「関」の強化ということだ。古代、この列島で初めて誕生した国家権力である大和朝廷は、外敵からの侵入を防ぎ、国境の防備を固めるために「関」を設けた。飛鳥時代から奈良時代にかけて鈴鹿・不破・愛発の「三関」が営まれた。つまりはこのラインが当時の大和政権の国境だったわけだ。平安時代になるとそのラインは、勿来・白河・念珠の「奥羽三関」へと拡大する。



ヤマトから見れば、鈴鹿関以東の非支配地「関東」を、白河以北の「河北」へと押しやったことになる。ヤマトの北進はさらに続き、多賀城や秋田城を設置するに至って奥羽三関は不要となったのだろう、関跡は放置され、草木に埋もれて忘れられて行った。その存在は歴史文書にだけ残り、実際の所在地はわからなくなってしまった。ただ都人にとって「秋風ぞ吹く」白河関は、遥か「みちのく」を想う歌枕として、歌心の中で生き続けたのだろう。



しかし白河藩の知性派藩主・松平定信は、この歌枕を「所在地不明」のまま放置するのは忍び難かったのだろう、文献を精査し、おそらく実況見分にも出向いたのではなかろうか。そして白河城下から旧東山道を3里近く南の山地へ登り、下野との国境近くに建つ白河神社を関跡と断じたのである。1800年のことだ。定信の検証を基に戦後、本格的な発掘調査が行われて遺構を確認、関跡であると認定されて国の史跡に指定され、今がある。



芭蕉が曽良を供に関を越えたのは、定信が「古関蹟」の碑を建てるより百年ほど前のことだ。「白河関まで来て旅心定まりぬ」と記した芭蕉は、果たしてどこで感慨に耽ったのか。曽良は「卯の花をかざしに関の晴着かな」と詠んだ。関跡の丘には今も、卯の花がカタクリなどとともに咲くようだ。隣接して市の公園が整備されている。枯葉を踏んでちびっこ達が歓声を上げているが、花の季節にはサクラやアジサイ、ツツジなどで華やかになるのだろう。



海岸沿いの崖上に築かれた勿来関に比べたら、白河関はなだらかな丘陵が囲む小盆地のような穏やさである。かつての東山道は「栃木・福島県道伊王野白河線」になってきれいに舗装され、傍に「史跡 白河関跡」の石柱が建つ。「旗宿」という里だから、宿場で賑わう時代があったのかもしれない。私は神社の石段を登り、空壕の雑木林に立って一句詠んだ。「一人来て白河の関初時雨」。本当は良く晴れているのだが、関跡の丘は暗く湿って翳っている。



相変わらず徒歩とバス・鉄道だけの私の旅だから、関跡まで行くのは断念しそうになった。路線バスは通じているものの、早朝と夕方のみ。これでは日没の関に佇むしかない。しかし晴天を選んで勤労感謝の日に出かけることにしたので、休日は日中に往復していることを発見した。白河駅前で私を拾った大型バスは、30分ほど私一人を乗せ終点まで走った。運転手さんは「これは高校生の通学用路線で、観光客は滅多に乗りません」と私を見る。



関跡を充分に見物して帰りのバスを待つと、来た時と同じ運転手さんだ。帰りの時刻まで1時間ほど、待機しているのだとか。往路同様一人だけの客の私は一番前の席に陣取り、運転手さんに白河ガイドの続きをお願いする。「白河は小さい街だけれど、かといって不便ではないから暮らしやすい」「郡山、いわき、会津と、どこに行くにも道が通じている。東京へだって新幹線がある」「白河ラーメンは、行列ができている店がやはりうまいですよ」(2021.11.23)















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