今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

206 不破(岐阜県)・・・消え失せて風が吹くだけ不破の関

2009-04-18 22:36:44 | 岐阜・愛知・三重

中世以降ではなく、古代に惹かれるというのが私の性癖なので、JR東海道線の関ケ原駅で下車したのは古戦場に関心があったからではない。不破関の跡に立ってみたかったのだ。しかしそこは見事に滅んでいて、どこに立つべきか見当がつかない。東山道の分岐点あたりで「余りにも遥かになりぬ不破関越えにしあの日吾の名は何」と、思わず歌が口を衝いて出た。1300年ほどの昔、関を通過した私の祖先がいたように思えたのである。

古代に思いを馳せる時、私はよく考える。ようやく国の形が整って来た飛鳥時代といっても、自分の直系の先祖を辿るとせいぜい50人前後の人物が連なる程度であろう。特筆できる血筋ではないから、数代遡ればどんな人物がいたかは霧の中なのだが、千年超といってもこの程度の歴代数なのかと,そのシンプルさに驚く。

ただ両親のそのまた両親と数えて行くと、何人が関わって現在の存在があるのか、数字に弱い私には見当もつかない。いずれにせよ大変な数になるわけで、その内の一人くらいは不破関を通過していても不思議は無い。多分、私の血筋は東国であるから、畿内の外界の住民として、調を納めに都へとぼとぼ向かったのではなかろうか。

壬申の乱を勝ち抜いた大海人皇子は、翌673年に即位(天武天皇)して不破(美濃)、鈴鹿(伊勢)、愛発(越前)の三関を置く。つまりはその内側が畿内であり、外は東国、外界、異境であったわけだ。ただ大海人軍が大友軍に勝つことができたのは、美濃の勢力を味方に付けたからというのが定説であり、「美濃を制する者は天下を制す」という言葉が生まれた。なぜ「美濃」なのか。

岐阜―大垣―関ケ原と、列車が西に進むにつれ、平野はしだいに狭くなり、左右の山が迫って来る。不破関跡まで来れば、周囲はもはや野とも原とも言い難く、峠から下ってくる河川が河岸段丘を作り、人の通行を塞き止める格好の地勢となる。そのことを確認したくてやって来たのだから、これで満足なのではあるが、何かしら古代が漂っていないかと、あたりを彷徨ってみる。

所々で町教委の解説板が関跡、関守館跡、城門跡などを教えてくれるが、いまは茶畑や民家の一角で、あるいはY字路に姿を変えたりしていてイメージが湧いてこない。町営グランドの一角に寒々と立つ資料館で、発掘復元模型を眺めてようやくその全体像が分かった。出女入り鉄砲を見張る江戸期の関所とは違い、東国の異邦人が乱入することを防ぐ軍隊の駐屯基地と考えた方がいい。

つまり東国には、政権基盤を脅かすだけの人的資源があり、それらの衆を味方につけることが対抗勢力を圧倒することになる。文化では劣っても、東国のエネルギーは逞しかったのである。私の先祖たちは、そうした東国の野を元気に駆け回っていたということにしておこう。

旧街道を歩くことがリタイア世代に人気らしく、私の知人にもそうしたグループ旅行を楽しんでいる人がいる。東海道を踏破して中山道に取り組んでいるというから、このあたりもきっと歩かれたことだろう。東西を往還するには、地形上、どうしてもここを通過しなければならない。関とは、支配者がまさにそうした地の利を使って自らを守った場所なのである。関が消えて、社会は少し近代化したのだろう。(2009.2.19)
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