今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1160 笛吹(山梨県)絶景を身体いっぱい吸い込んで

2024-04-14 20:25:08 | 静岡・山梨
私はこの日、笛吹市東端の丘に立ち、遥か西方を塞ぐ南アルプスの銀嶺と向き合っている。陽光に温もる甲府盆地は、ところどころ桃色の布団に埋もれて眠っているような静けさである。「この日」を選んだのは「花々が晴天のもとに咲き揃う日」を慎重に選んだ結果であって、4月10日が市が定める「桃源郷の日」なのだとは知らなかった。元日から100日目の「百=もも」に当たるから、桃の作付け日本一の街として10年前に制定したのだとか。



陶淵明が『桃花源記』で描いた桃源郷は、もっと人間の根源を探る意味合いを秘めているらしいのだが、桃と桜の饗宴に身を置く凡庸な私としては、そんなことはどうでもよくなって、ただただ自然と人の営みが産み出した絶景に見とれている。笛吹市は山梨県のほぼ中央、甲府盆地の東寄りに広がる人口65000人ほどの街だ。石和町など6町村が合併して発足、20年になる。新しい市名はそれら町村の水を集めて流れる笛吹川に因んで選ばれた。



私はその笛吹市に、数歩立ち入って全域を見晴らしている。「数歩だけ立ち入った」というのは大袈裟な表現ではない。私がやって来た「釈迦堂遺跡博物館」は笛吹市と甲州市の境界に建ち、両市が組合を作って共同運営している博物館だ。崖下に開設された中央自動車道の工事に伴う事前調査で発掘された、縄文時代などの遺物を収蔵している。甲州市民バスでやって来た私は、甲州市側から入り、笛吹市側の本館に数歩、立ち入ったわけである。



盆地周縁の扇状地に数千年にわたって営まれた釈迦堂遺跡は、発掘された土偶の数の多さが特筆される縄文時代中期を中心とした遺跡群の一つだ。土偶だけで1116点も確認されたというから、ただならない太古の生活痕である。しかも土偶のことごとくが破損されている。釈迦堂縄文人たちは、何を想って人型を作り、何のために壊し埋めたのか。千切られた頭部を見ていると、何か語りたがっている気がするけれど、その言葉を聞き取る術がない。



博物館の2階ロビーに、北西の方向を示す表示があって、「和田峠まで75.84キロ、108342歩」と書いてある。貴重な利器となる黒曜石を求め、数千年にわたって釈迦堂人が八ヶ岳を回り込み、諏訪湖の湖畔を辿った方角である。その途上には、茅野・尖石の集落遺跡や、国宝の土偶が2体見つかった遺構もある。列島に桃はまだ到来していないものの、桜は咲いていたかもしれないこの時代、一帯は列島で最も人口密度が濃かったのであろう。



笛吹界隈をいつか歩きたいと下調べをした際、『小島の春』の著者・小川正子医師が旧春日井村の出身だと知った。ハンセン病患者救済に尽力したその生涯を、土地の人々が記念館で守っていることに、笛吹はゆかしい土地だと感じたものだ。ようやくやって来られたけれど、記念館に立ち寄る余裕がなかったので、やはり旧石和町出身の深沢七郎を読み返してみた。『笛吹川』で深沢は、滅亡する武田家と、したたかに生き抜く農民たちを描いている。



『笛吹川』には、貧しい農民が庭先の葡萄や桃を齧る場面が何度か出てくる。未だ作物ではなくとも、信玄跋扈の時代から、この地にはブドウやモモが多かったのだろうか。それにしても土偶の眼は、なぜ極端に釣り上がっているのだろう。尖石の「縄文のビーナス」も釈迦堂出土の土偶たちも、異様な吊り目なのである。ただ釈迦堂の博物館で出会った幼児を写した小さな土偶は、現代の子供にも通じる愛らしい眼差しでホッとさせられる。(2024.4.10)



(茅野市尖石遺跡近くで出土した国宝「縄文のビーナス」)













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