今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1154 名護(沖縄県)市庁舎の日陰に入り海風当たる

2024-02-22 17:08:03 | 沖縄
名護市部瀬名の万国津梁館などを会場にして、九州・沖縄サミットが開催されたのは2000年7月だった。私はその直前、ブセナのホテルに滞在して周辺を見て回った。名護市役所では市長さんに会い、米軍普天間基地の移設先として国が求める辺野古沖について、賛否が割れる市民の様子を訊いた。そのあと辺野古岬を望む展望ポイントに案内され、ジュゴンの海の対岸に広がるキャンプ・シュワブを確認した。それが私の「初めての沖縄」だった。



自分が沖縄の置かれた基地負担にいかに無知・無関心であったかは、以前、恥ずかしながら正直に書いたことがある。だがもう一つ告白しなければならないのは、基地問題という深刻なテーマを前にして、私が最も記憶に刻んだのは、名護市役所の庁舎が「暑さを避けるため、日照角度や風向などを入念に調査して設計された」という話だった。私の興味は今も昔も、国防より一個の建築にあるのだろう、だから四半世紀ぶりに名護市庁舎に再会する。



43歳になる庁舎は、記憶より幾分くすんだ感じで建っていた。その分いっそう大地と一体化したような雰囲気である。白とエンジのブロックを交互に積み上げた柱は、イスラム建築を思い出させる最も特徴的なデザインだ。海からの風を導き、日照を遮るファサードが組み合わされた正面は、ブーゲンビリアの赤い花が溢れんばかりだ。南の壁面には県内の陶工たちが腕を揮ったシーサーが飾られていたはずだが、劣化し撤去されたのは惜しまれる。



名護市は沖縄本島北部の街で、人口は64500人と沖縄県ではさほど大きな街とは言えない。1970年に名護町など5町村が「合体」して名護市が誕生、大きな街が他にない北部にあっては中心的な存在になった。面積は本島の市町村で最も広く、その10%を米軍基地が占める。新市誕生で市庁舎建設の協議が始まり、設計は全国に公募すると決めた。公共建築の設計はコンペで決するべきだとする建築界にとって、画期的な選択だったらしい。



さらに「地域特性を体現し、沖縄における建築とは何かを体現化する案を広く求める」としたコンペ趣意書が全国の建築家を奮い立たせたのだろう、308案の応募があったという。採用されたのは建築家・吉坂隆正の弟子グループで、竣工した1981年の日本建築学会賞に選ばれている。設計グループの師から師をたどっていくと、ル・コルビジェに行き着くということも楽しい。「これは日本の名建築だ」と私は再認識し、末長く大切に、と願った。



かつてジュゴンがいるかも知れないと遠望したあたりに行くと、辺野古岬は埋め立て工事用クレーンが林立する海に変わっている。変わらないのは、北緯26度の海がキラキラ輝いていることだけだ。広大なキャンプ・シュワブのフェンスに沿って国道329号線を南下すると、工事用車両の出入り口なのだろう、ヘルメット姿のガードマンが厳しい壁を作り、道路を挟んで反対住民のプラカードやテントが続く。これがこの国の国防現場である。



新庁舎公募趣意書は「地域が中央に対決する視点を欠き、行政が国の末端機構としてのみ機能するような状況にあっては、地域はその自立と自治を喪失し、文化もまた中央との格差のみで価値判断がなされることになるだろう」とも書いている。地域主義に立った、自立・自治のシンボルとして新庁舎を求めた名護市民は、もう30年も辺野古の海の埋め立て問題に翻弄され続けている。東京に戻れば、私はまた沖縄を忘れるのだろうか。(2024.2.15)























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