沖縄に「やんばる」という地域名がある。沖縄本島北部の緑豊かな森林地帯のことで、「やんばる国立公園」が広がる本島最北部の国頭村など三つの村を「やんばる3村」と呼ぶ。ただもっと広く、名護市以北の、東シナ海に大きく突き出している本部(もとぶ)半島一帯も含めて呼ぶこともあり、そのエリアは、14世紀ころの古代琉球・三山鼎立時代の「北山」にほぼ重なる。「中山」「南山」に対抗した北山王の拠点が、今帰仁(なきじん)城であった。
本部(もとぶ)半島の北端、今帰仁村の丘に建つ今帰仁城は、北側の海と深い谷に囲まれた丘陵を巧みに利用して築かれている。石積みの城壁は幾重にもカーブが描かれ、遠目には城塞と言うにはどこか柔らかい。ただ近づくと、精緻に切り揃えられた首里城の城壁とは違い、野面積みのように荒々しく粗野な造りだ。100年にわたって「やんばる」を支配した「北山」は、1406年に「中山」によって滅ぼされ、琉球は首里城の尚氏王統時代に移る。
那覇の県立博物館で琉球列島誕生の映像を眺めていて、沖縄諸島を中心に九州南端から台湾に至る1200キロに、100以上の小さな島々が弧状に連なる「琉球弧」が成立していく過程がよくわかった。大陸から延びた広大な陸地が、温暖化による海面上昇で次第に水没し、数百万年かけて峰々の頂きがわずかに海面に顔を覗かせる列島弧の形が残ったのだ。2万年前になって南方から島伝いに「港川人」がやってきて、海辺の洞窟で暮らし始める。
「琉球」の表記は、607年の隋書が初出とされる。日本書紀は推古24年(616年)に「掖玖人三口帰化」と記す。「掖玖の人が帰化してきたので住まわせたが、帰郷する前にみんな死んだ」という記事だ。この「掖玖」が現在の屋久島のことか、もっと広い琉球エリアを指すかは判らないけれど、7世紀には琉球弧の人々が大陸やヤマトと交流があったのは確かだ。そして「貝塚時代」と呼ばれる長い時間を経て、島々は農耕・小国家時代を迎える。
気温が25度まで上昇したこの日、桜祭りを終えてなお濃いピンクのヒガンザクラに包まれる今帰仁のグスクに登る。高台奥域の主郭から西方を望むと、聖地・クバの御嶽(うたき)を包む深い森を越えてやんばるの山並みが霞んでいる。沖縄では珍しい雄大な風景である。琉球統一後は北部地域の監守が置かれたグスクだが、1609年、薩摩の侵攻で正殿、北殿などはすべて破壊されたといい、今はでは建物を偲ばせる礎石が点在するだけである。
正殿跡に近いと思われる一角に、崩れかけた石積みが残り、黒い服装のご婦人が二人、座り込んでいる。一人は一心に手を合わせ、祈り続ける。御内原(うーちばる)と呼ばれる城内の御嶽らしい。琉球神道を司る「ノロ(祝女)」の末裔か、あるいは民間の巫女の「ユタ」に関わる女性たちだろうか、古琉球から続く沖縄の精神世界は女性が主役で、今も信仰が静かに生きているようだ。城壁の隙間で、咲き残ったツワブキの黄色い花が揺れている。
沖縄を旅するたびに思うのは、これほど小さな島であるのに独自の統治機構を組織し、かくもユニークな文化を育て上げたか、という驚きである。中国大陸とヤマトからの圧迫を受けながら、500年近い歴史を刻んだ琉球王国は、地球上の奇跡の王国と言っていいのではないだろうか。それを実現させたのは隋書が繰り返し書いているように、何度従わせようと出兵しても抵抗を続けたという、琉球弧に染み込んだ独立不覊の魂だろう。(2024.2.15)
本部(もとぶ)半島の北端、今帰仁村の丘に建つ今帰仁城は、北側の海と深い谷に囲まれた丘陵を巧みに利用して築かれている。石積みの城壁は幾重にもカーブが描かれ、遠目には城塞と言うにはどこか柔らかい。ただ近づくと、精緻に切り揃えられた首里城の城壁とは違い、野面積みのように荒々しく粗野な造りだ。100年にわたって「やんばる」を支配した「北山」は、1406年に「中山」によって滅ぼされ、琉球は首里城の尚氏王統時代に移る。
那覇の県立博物館で琉球列島誕生の映像を眺めていて、沖縄諸島を中心に九州南端から台湾に至る1200キロに、100以上の小さな島々が弧状に連なる「琉球弧」が成立していく過程がよくわかった。大陸から延びた広大な陸地が、温暖化による海面上昇で次第に水没し、数百万年かけて峰々の頂きがわずかに海面に顔を覗かせる列島弧の形が残ったのだ。2万年前になって南方から島伝いに「港川人」がやってきて、海辺の洞窟で暮らし始める。
「琉球」の表記は、607年の隋書が初出とされる。日本書紀は推古24年(616年)に「掖玖人三口帰化」と記す。「掖玖の人が帰化してきたので住まわせたが、帰郷する前にみんな死んだ」という記事だ。この「掖玖」が現在の屋久島のことか、もっと広い琉球エリアを指すかは判らないけれど、7世紀には琉球弧の人々が大陸やヤマトと交流があったのは確かだ。そして「貝塚時代」と呼ばれる長い時間を経て、島々は農耕・小国家時代を迎える。
気温が25度まで上昇したこの日、桜祭りを終えてなお濃いピンクのヒガンザクラに包まれる今帰仁のグスクに登る。高台奥域の主郭から西方を望むと、聖地・クバの御嶽(うたき)を包む深い森を越えてやんばるの山並みが霞んでいる。沖縄では珍しい雄大な風景である。琉球統一後は北部地域の監守が置かれたグスクだが、1609年、薩摩の侵攻で正殿、北殿などはすべて破壊されたといい、今はでは建物を偲ばせる礎石が点在するだけである。
正殿跡に近いと思われる一角に、崩れかけた石積みが残り、黒い服装のご婦人が二人、座り込んでいる。一人は一心に手を合わせ、祈り続ける。御内原(うーちばる)と呼ばれる城内の御嶽らしい。琉球神道を司る「ノロ(祝女)」の末裔か、あるいは民間の巫女の「ユタ」に関わる女性たちだろうか、古琉球から続く沖縄の精神世界は女性が主役で、今も信仰が静かに生きているようだ。城壁の隙間で、咲き残ったツワブキの黄色い花が揺れている。
沖縄を旅するたびに思うのは、これほど小さな島であるのに独自の統治機構を組織し、かくもユニークな文化を育て上げたか、という驚きである。中国大陸とヤマトからの圧迫を受けながら、500年近い歴史を刻んだ琉球王国は、地球上の奇跡の王国と言っていいのではないだろうか。それを実現させたのは隋書が繰り返し書いているように、何度従わせようと出兵しても抵抗を続けたという、琉球弧に染み込んだ独立不覊の魂だろう。(2024.2.15)
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