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昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

511 天草(熊本県)島だって橋で繋げば半島だ

2013-04-26 15:29:10 | 熊本・鹿児島
おそらく戦前までのことであろうが、天草の食料事情を土地の人は「ネタクリカンチョにイワシのシャーレ」と表現したそうだ。これは「練った甘藷とイワシのおかず」のことだと、宮本常一編『島』で杉本尚雄という人が書いている。アマクサなる牧歌的な響きとは裏腹に、離島の暮らしは厳しいものだったのだろう。不知火の海を眺めているうちに、わずかでもその土を踏んでみようと思い立ち、天草五橋を渡って千巌山に登った。



天草諸島は最大の「下島」と、それに次ぐ大きさの「上島」を中心にして、鹿児島県の「長島」までを含む島々をいい、沖縄本島を除けば合計面積は佐渡島よりも広く、人口は淡路島に次ぐ規模だ。内陸に近く、主な島々は架橋されて車で行き来できる。さらに島原―天草―長島を繋ぐ連絡道路構想があり、実現すれば九州西部の海は完全に内海になる。天草はもはや「離島」と呼ぶには当たらない。九州本島と橋でつながる「半島」なのだった。



私たちは宇土半島から5本の橋を渡り継ぎ、大矢野島から天草上島に入った。このあたりを「松島」という。緑に覆われた岩礁が点在し、なるほど松島である。私は宮城県の松島が「松島」なのだと思っていたが、そうした風光の地は多く「松島」と呼ばれているらしい。そのうえ「日本三大松島」なるものまであって、宮城の松島と長崎県の九十九島、そして天草松島を指すのだとか。日本人はなぜ「松島」や「三大」が好きなのだろう。



千巌山は上島の入り口一帯の、松島温泉郷を見下ろす小丘陵である。天草四郎時貞が島原出陣を前に、信徒の将兵を集めて祝酒を交わした地だということで、「天草」はこの殉教の歴史が立ち上って来るものだから、いやがうえにも悲痛な思いに耽ることになる。千巌山の散り始めた桜を見ても、圧政と禁教に苦しんだ信徒たちにシンパシーが湧いて来る。散り残った花の梢越しに遥か島原半島を望む光景は、「松島」以上のものがある。



1966年に天草五橋が開通して以来、離島天草は大観光地に変貌した。美しい自然と郷愁にも似た島への想い、悲哀に満ちた切支丹史、車で楽々と行ける利便性、どれもが高度成長期の旅行ブームに合致したのだろう。とはいえ観光収入ほど、時代の気分に左右される気まぐれなものはない。ブームといった一時的な浮ついたものでなく、「島」ならではの良さを来島者に記憶させたいなら、まず即刻、無秩序な看板類を撤去することだ。



民俗研究者の宮本常一の著作を読むと、自身も瀬戸内海の島生まれだからだろうか、日本中の島を歩いてその生活苦と社会資本格差を、憤りを込めて告発している。海上交通の変化に伴う島の活性化は図られないまま、道路港湾整備の遅れが島の産業育成を疎外しているというのだ。彼が歩いたのは日本経済が成長期に入る前の時代だが、中央だけに光が当たり、声の小さな地域は置き去りにされるという構造は、今も同じかもしれない。



天草に渡る前日、阿久根から日本「三大」急潮のひとつ黒之瀬戸を渡って「長島」に立ち寄った。橋のたもとに「昭和49年に町民悲願の黒之瀬戸大橋が開通し、島から半島になりました」と看板があった。島民のうれしさが伝わって来る。八代海一帯は柑橘類の宝庫で、「デコポン発祥の地」という不知火町で食べた江村さんちの柑橘は、ものすごく美味しかった。こうした特産品を産み育てることが、島経済発展の基本だろう。(2013.3.27)








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