今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

764 八重洲(東京都)ニョキニョキと姿を変える街の顔

2017-04-12 16:04:09 | 東京(区部)
隠居暮らしになると、劇的に変化するのは「日常的行動半径」である。世の中を動き回っていたころに比べ、それは自宅中心の極く狭いものになる。だからしばらく間を置いて、かつての歩き慣れた街へ出かけると、余りの変貌ぶりに呆然とさせられることがある。例えば日本橋や虎ノ門がそうであるように、東京駅八重洲口界隈もそうした街の一つだ。かつては同じような高さで頭を並べていたビルが、今や覇を競って天を突いている。



東京駅は、皇居に正対している丸の内側が正面なのだろうから、オランダ人航海士「ヤン・ヨーステン」が家康から賜った屋敷があって「ヤヨス」という地名が生まれたという八重洲は、駅の裏玄関のようなものだ。私が好んでうろついていたころは、丸の内とは対照的に、庶民的な気安さが漂っていたものだ。今でも路地に入ればサラリーマンが気楽に立ち寄れる飲み屋が並んでいるのだろうが、風景は一変した。高層ビルの林立である。



都市の景観は、時代とともに変化する。それは人口増加や生活様式の変化が、より快適で経済効率のいい建造物を求めるからで、建築素材や技術の向上、それに交通網の発達などがその欲求を後押しする。そしてそうした時代の要求は、基準や規制を緩和させる圧力となって、ビルの高層化といった変化を生む。つまり都市の景観を決定づけているのは、建築基準法だということになる。日本の街は、長らく31mルールに縛られて来た。



私が東京にやって来たのは、日本の高層ビル第1号になる霞ヶ関ビルが竣工(1968年)する2年前のことだ。だから都心のスカイラインは、まだ行儀よく9階建て程度の背丈で水平を保っていた。この31mルールは、1920年(大正9年)に施行された市街地建築物法で定められた「居住地域以外は高さ100尺」による。この高さ制限が撤廃されるのは、1970年の建築基準法改正によってである。実に50年間、街は頭を抑えられてきた。



だから私が東京の風景で懐かしいのは31mラインである。この制限内で目一杯フロア面積を稼ごうとするチビデブ(決して蔑称として使用しているのではない)ビルがひしめく姿が、私の東京原風景なのである。それがちょっとご無沙汰していると、ニョキニョキと高層ビルが出現していて、街の方角自体が分からなくなる。そしてビルの外装材は今やガラスが主流で、街はコンクリートからガラスの青い輝きに変わっているのである。



それでも八重洲口にほど近い呉服橋交差点に、取り残されたように31mビルが建っている。このビルは以前、大和証券の本社だったのだが、地盤が軟弱で高層化できないのが会長の悩みだった。証券本社は八重洲口のタワービルに引っ越す道を選び、残ったチビビルは寂しそうだ。日本橋3丁目交差点に行くと、しばしば通ったブリヂストン美術館の31mビルは消えて、更地になっている。ここにも遠からず、高層ビルが建つのだろう。



街の変貌ぶりには驚かされるが、惜しむことは無い。せいぜい効率を求めてスクラップ&ビルドを繰り返し、上へ上へと伸びるがいい。私はこれから丸の内の高層ビルで、中学校以来の友人たちと落ち合う。カナダに移住した同級生が、久しぶりに帰国するので集まるのだ。老いて憧れの女の子たちに再会できる私は果報者だが、できることなら淋しくなったこの後頭部を、スクラップ&ビルドしてからがよかっただろうか? (2017.3.25)








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