今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1071 佐倉(千葉県)通勤の武士が行き交う古径なり

2022-12-11 09:06:42 | 茨城・千葉
「武家屋敷街」を残す旧城下町は、全国に結構ある。旅の記憶を巻き戻すと、横手、角館、毛馬内、新発田、金沢、篠山、唐津、竹田、飫肥、知覧など、地域に根付いた佇まいが次々と浮かんで来る。堀田家11万石の北総・佐倉にもそうした通りが残り、往時の生活そのままの屋敷が並んでいる。150年ほど遡れば、侍や家族が行き来していた道だ。「佐倉の原風景と文化を後世に伝える」ことを目的に、地元の人たちが心を込めて活動しているらしい。



空堀に守られた城郭の名残なのだろうか、佐倉の旧市街は窪地に縁取られた台地上にある。西側を城が占め、東側に町人街が広がって、その間に武家屋敷街が形成されていたようだ。保存されている屋敷街は城の南側の住宅地の一角で、なかなか立派な現代のお屋敷街を抜けると、イヌマキの生垣に囲まれて武家屋敷が3棟連続する。1区画は300坪はあろうか、周囲の現代屋敷の倍以上だ。中級藩士の居宅だったのではないかと勝手に推測する。



いずれも南向きに小さな門を構え、ささやかな前庭が築かれている。敷地の割に建屋は小ぶりな平屋だから、家族は肩寄せ合って暮らしていたのだろう。そのうえ南の庭に面した最上の部屋は客間とされるから、生活空間はかなり狭そうだ。敷地は広いけれど、裏は大きく畑が営まれ、近在の農家に頼んで自家用の野菜を作らせていたようだ。そうした生活臭は敷地内の生垣に隠され、訪問客には見えないよう心配りされているあたりは武家の見栄だ。



屋敷街からは、城と隔てる窪地に向けて「ひよどり坂」「くらやみ坂」と名付けられた「古径」が下って行く。大人同士がすれ違うのがやっとの狭い道幅で、竹林の根が延びて歩きにくい。いったん窪地に降りて、再び登って佐倉城大手門に至る。腰に刀を差し、昼食をぶら下げた藩士たちが通勤していたのだろう。門をくぐれば広大な城内となり、藩主の暮らす御殿や庭園など絢爛とした世界が広がっていた。君主と家臣の財力落差は目が眩むようだ。



それでもこの屋敷街の武士たちは、江戸時代の下級武士や下層民の生活環境に比べたらはるかに恵まれて、安定した生活を維持できていたと思われる。だからその暮らしを守るため、「武士の本懐」といった掟に従い、懸命に勤めに励んだのだろう。主君への絶対的服従などまっぴら御免と考える私は、そんな時代に生まれないで良かったと思うけれど、数世代前には、慎ましくも見栄を張る「侍の社会」が、日本人の一つの型を形成していたのだ。



近世と現代が混在する静謐な屋敷街にあって、どうにも違和感を覚えたのは通りの奥に翻る色とりどりの幟旗である。「永代供養墓」「樹木葬」「佐倉七福神」と、これでもかと自己主張を剥き出しにし、周囲の風情との調和などお構い無しだ。鎌倉時代創建という真言宗の寺の門前である。寺にも寺院経営という厳しい現実があるのだろうが、この光景は、逆に武家社会に通底していた「控えめの思想」を思い起こさせる。現代が失った美徳である。



わずか3ヶ月の間で再び佐倉に来ているのは、国立歴史民俗博物館で開催中の「伽耶展」を観たいからだ。倭の古墳時代に重なる3−6世紀、朝鮮半島最南部で営まれた「伽耶」の国々。子供のころ「任那」として習った地域である。研究が進み「任那日本府」の捉え方は消滅したようなのだが、なぜかその解説はない。大韓民国指定宝物など興味深い出土物を見ることができたのだけれど、勇んで出かけた身には物足りない展示規模だった。(2022.12.7)




















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