ペリーはなぜ、浦賀に来たのだろう。米国大統領の国書を携え、日本に開国を求めるためだったことは知っているけれど、それがなぜ「浦賀」だったのか。江戸湾の開口部にあって幕府の奉行所が置かれ、そのころは三浦半島一の繁華な港だったからなのか。そうしたことはすでに研究され尽くしているのだろうが、書をひも解くより行った方が早いと、出かけることにした。都心から高速を使って2時間ほど、この「距離」に注目した。
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1000平方キロの海が広がる東京湾ではあるが、太平洋から進入するには幅が7キロもない浦賀水道を通り抜けなければならない。圧倒的な艦隊を組むペリーは、一気に湾の奥まで侵攻し、幕府をねじ伏せてしまうことも考えないではなかったのだろうが、浦賀水道を閉じられたら袋の鼠になってしまうリスクも計算したに違いない。江戸という街は、海防面からも中々の要衝なのだ。
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いや、ペリーという人物は、軍人ながら人格は温和で平和的な性格だったのではないか。そんな風貌をしている。江戸への足がかりにした琉球停泊でも、乗組員らが狼藉を働いたことはなかったようだし、久里浜や下田ではいまもその足跡を記念しているほどだから、日本人に感銘を与える何かを持った人物だったと考えた方が良さそうだ。幕府への威圧を十分に計算しながらも、できれば友好的に条約を結びたかったのだとしておこう。
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それで「浦賀」を選んだ。現代なら都心から車で2時間、当時も馬を飛ばせば1日で往復できる距離だったのではないか。だから江戸城の人々を必要以上に混乱させず、しかしそれなりのプレゼンスを押し出しつつ開国を迫る格好の距離の地に、浦賀があったのだ。
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浦賀港は、まるで江戸湾の「栓」のような位置にあって、運河のように細々と陸地を穿った海面が、1500メートルも入り込んでいる。街はその入り江を取り囲む丘陵に「へばりついて」いる。そんな窮屈な地形だから、対岸への橋も架けられないのだろう、就航130年にもなるという渡船が、いまも市民の足になっている。大人150円、子ども50円だ。浮き桟橋で女性が独り、携帯電話で通話しながら渡船の到着を待っていた。
黒船見物の江戸町民でごった返したことや、勝海舟や福沢諭吉を乗せた咸臨丸が米国を目指して出航して行った姿は、今ではすっかり静まり返ったこの入り江で思い浮かべることは難しい。細い坂を登って「郷土資料館」に行ってみたが、ここも寂しい施設であった。
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ペリーの足跡をたどりたいなら、上陸地の久里浜まで行けば横須賀市立の「ペリー記念館」があるようだったが、われわれにそこまでの情熱はない。1日空いたのでドライブしようという無節操な旅に出て、方角を南にとったから浦賀にたどり着いたようなものなのだ。
それでもかねて評判を耳にしていた横須賀美術館に、期待を膨らませて立ち寄ってみた。確かに海を見晴らすロケーションは素晴らしかったけれど、展示はどれも照明が反射して、これほど鑑賞し難い美術館は初体験だった。それに駐車場の無料サービスは一時間のみ。企画展と常設展を駆け足で見て回りなさい、というのが館の方針らしい。南海を思わせる濃い樹林に沿って、観音崎の磯をしばらく歩いてみた。(2009.6.30)
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