今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

801 新潟①(新潟県)線香の煙が染みる故郷の空

2017-12-13 15:59:15 | 新潟・長野
新潟市の万代橋から望む落日である。街の明かりを映しているのは信濃川で、遠く茜色の空に浮かぶシルエットは弥彦山だ。私は弥彦山をもっと間近に仰ぐ蒲原平野に生まれ、信濃川が長い旅を終えて日本海に注ぐ河口の街・新潟市で育った。激しい手振れと甚だしいピンボケのひどい写真ではあるけれど、この1枚に私の幼少期から少年時代までの世界がすっぽりと納まっていることに気づき、掲載することにした。今では遠い昔の話だ。



その新潟へ、久しぶりに帰る(親は亡く、家もたたんだ今、帰るという表現が適切かどうか)。幾つもお線香を上げるために来たのだが、それにしてもこれほど悲しいことが続くとはどうしたことなのだろう。9月、北欧の旅の途中、従兄弟の死亡事故の知らせが追いかけて届く。10月、高校のバスケット部の先輩が、誰にも看取られずに逝去したと連絡が来る。そして11月、遠戚の叔母が先月亡くなったことを、年賀欠礼の挨拶状で知る。



先輩のできなかった葬儀を、納骨に合わせて行うことになったと聞き、新潟市の寺町通り、浄土真宗の寺へとやって来た。寒々とした新潟の冬の空が、独り身を通した先輩に似つかわしいように垂れ込めている。5歳上の、無口な人であったが、私にはいつも優しかった。そして前日には、母の実家でご先祖様にお参りをし、従兄弟と叔母の家を回って不義理を謝したのである。新幹線の駅まで車を回し、付き合ってくれたのは中学の同級生だ。



降り止んだ雨が、突然みぞれに変わって吹きつけてくる新潟の冬であるが、それでも故郷とはまことに暖かいものがある。友人のおかげで、従兄弟の家ではゆっくり思い出話ができた。彼は従兄弟間では長兄格の存在で、私より9歳も年上だ。農業の傍ら、重機を扱う会社を興し、建築土木の現場でクレーンを操ってもきた。80歳になってなお現場の監督に出向き、落下してきた枝に襲われた。地域のまとめ役として慕われていたという。



その従兄弟が、ある日突然電話してきて、「無という言葉が好きになった。彫ってもらいたいと思うので、最もいい字を探せ」と言ってきた。なぜ私になのか面食らったが、雑学的なそうしたことを頼むのは、私が適任と思っているらしかった。親しい書家に書いてもらうことも考えたが、それよりもと王羲之の「蘭亭序」から「無」を抜き出し送った。本人は随分と気に入ったようで、いつも眺めていたという。「無」は遺影の脇に置かれていた。



いずれも私より高齢の方々であるとはいえ、訃報がこう連続しては寂しさも一入だと萎れている私を、さらに打ちのめしたのは12月に入って届いたメールだった。高校の3年間、クラブの同輩としていつも一緒だった男が「急性リンパ性白血病に罹り、8月から入退院を繰り返している」というのだ。3月には元気に酒を酌み交わしたのにと、自分の身体の一部をもぎ取られたような痛みを覚え、浮かんでくる涙をどうしようもなかった。



新潟市美術館に立ち寄る。設計した前川國男は明治38年、後に私が育つことになる新潟市学校町通りで生まれた。誕生日が私と同じであることを「弘前」で書いたことがある。収蔵品展示室には横山操の大作「グランドキャニオン」が展示されている。横山は母と同時代に同じ街で生まれ、今私が暮らす東京の街で死んだ。前川も横山もそれだけのことではあるが、私は勝手にシンパシーを抱いている。故郷とは何であろうか。(2017.12.9-10)

(横山操「グランドキャニオン」)








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