今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

721 羽生(埼玉県)青縞と足袋で装う田舎教師

2016-08-17 08:39:05 | 埼玉・神奈川
「ぎょうだ」と濁音の多い街の名を聞くと、反射的に浮かぶのは「足袋」である。行田はかつて、圧倒的な国内シェアを誇る足袋の街だった。そしてその「袋」からの連想か、思いは「花袋」へと飛び、その作品「田舎教師」に行き着く。行田で育った文学青年が、大望を抱きながらも田舎の教職に埋もれ、若くして死んで行くという自然主義文学の金字塔の舞台が、羽生である。モデルの教師が下宿した寺では、地蔵が陽に焼かれている。



荒川のほとりの熊谷から東へ、行田・羽生と街が続く、そして北を流れる利根川を越えれば、群馬県の館林である。関東平野の真っ只中、風を送る海も、陽を遮る山も遠い。東京で熱せられた大気がこの辺りに溜まり、日本一のホットゾーンとなって大地を焦がす。特筆するものの乏しい凡庸で平坦な風景は、私が生まれた越後・蒲原平野を思い出させるし、富本憲吉が染付に描いた、大和平野の法隆寺・安堵村付近に似ているように思う。



自身が館林の生まれで、この辺りの風土に馴染みがある田山花袋は、一帯をこう描いた。「関東平野を環のやうに繞った山々の眺め(中略)雪に光る日光の連山、羊の毛のやうに白く靡く浅間ヶ嶽の烟、赤城は近く、榛名は遠く、足利付近の連山の複雑した襞には夕日が絵のやうに美しく光線を漲らした。行田から熊谷に通ふ中学生の群は、この間を笑ったり戯れたり走ったりして帰ってきた」。乱立する送電塔を除けば、いまも同じである。



「田舎教師」の冒頭。「四里の道は長かった。其間に青縞の市の立つ羽生の町があった。田圃にはげんげが咲き豪家の垣根からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出を出した田舎の姐さんがをりをり通った」。青縞とは、埼玉県北部一帯で生産される藍を用いた染物のことで、武州織物とも呼ばれる。明治期には一大地場産業となり、その中心が羽生だった。足袋の行田に青縞の羽生と、「田舎」とは言い難い賑わいは、今の街並みにも残っている。



熊谷・行田・羽生と、順に町が小さくなると花袋は書いているが、それは今も変わらない。これらの街を結ぶ秩父鉄道は、羽生駅が東の終着駅だ。その駅前の建福寺に、田舎教師のモデル・小林秀三は下宿した。秀三はここから隣村の小学校に通い、日記を綴った。それが花袋の原本になった。作中では寂しく寒々と描写されているけれど、なかなかどうして大きな寺だ。広い墓地を「田舎教師の墓」の標識に従って行くと、立派な墓標が建つ。



志に向かって東京へ飛び出すこともできず、21歳で没した若い高等小学校教師の墓としては、異様な立派さである。羽生市の史跡にまで指定され、泉下の本人は落ち着かないのではないか。かつて自然主義文学に勢いがあったころ、勢い余って関係者らが建立したのだろう。近年の自然主義文学の退潮に伴い、文壇で名を成すことを渇望した花袋の評価も褪せてきているようである。田舎教師はようやく静かな眠りに就いていることだろう。



行田と羽生は、雰囲気がよく似ている。いずれも主要な往還から外れた「地味な立地」だけれど、足袋と青縞という産業を育てた地力のおかげだろう、街は整然として寂れはない。行田では愛らしい銅人形が通りを潤し、羽生駅前は小便小僧が勢いよくオシッコを放出している。足袋蔵を守るおばさんは「昔は足袋の女工さんで街は溢れたものでしたが、今は勤め人の多くが東京へ通っています。遠いし混むから大変です」と語る。(2016.8.10)











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