職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

増鏡の老婆ではないが「この八戸市の衰ふるはじめはこれよりなるべし」の声が聞こえる

2011-04-07 08:45:05 | Weblog

 

2011
04.06
「投票所入場券のデタラメ発送」。ホンマ、なさけない


★選挙管理委員会から投票所入場券が届いたが、一瞬――いや、僕の内の混乱は、もう少し長い時間だった――あれれッ? 市議選投票日(24日)用はあるが、県議選投票日(10日)用がないぃぃィ~、ああ、そうか、被災地だから、特例で市議選投票日と県議選投票日が共に24日になるのか? しかし、そんな話は聞いていないし……と困惑。
 よく見ると(画像参照)、入場券の項目内容を示す「投票日時」の文字に重なって――ドンピシャ、まともに重なって――「4月10日」と印刷されている。

★あまりにもなさけない。

 担当部局は、たぶん「東日本大震災で津波被害を受け、県議選や市議選の準備を中断して、職員総出で避難所運営などにあたらざるをえなかった」とか「先月22日に県議選を予定通りに行うことが決まり、大至急、大あわてで準備を再開した」とかいいわけをするかもしれないが――なさけなさが2倍になるので、ま、その弁解はないと思うが――僕がいつも接している中学生でも、こんなことはやらない。
 トップ(責任者)が「諒」としたから発送され、僕のところに届いたのだろう。
 トップの判断力といい、作業過程のチェック体制といい……これくらいデタラメな話はない。
 いったい、どうなっているのだろう。

 以前、正月に(たしか1/1~4)断水したことがある。
 給水所から高齢の女性が小さなバケツ――大きいモノは持てない――を提げて寒空をトボトボと歩いている、その後ろ姿を見ながら、市の対応はこれでいいのか? 市長は何をしているのか?と、ホンマ、「疎開」したくなったことがある。

 今回の「投票所入場券のデタラメ発送」は、このとき以上になさけない、この人たちでは市はやっていけない……と思う。
 増鏡の老婆ではないが「この八戸市の衰ふるはじめはこれよりなるべし」の声が聞こえる。


★関連記事
断水。八戸市はこういう機会に、市民が「ああ、八戸市の市民でよかった」「八戸市の市民であることを誇りに思う」……と心から思えるような施策を、また、全国の人々が「おお、これが八戸か!」「八戸市はここまでやるのか!」……と賛嘆、賞賛する施策を


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東日本大震災の前に修理依頼した送信機が、被災を乗り越え、ピッカピッカになって戻ってきたよ

2011-04-07 06:22:44 | Weblog

 

2011
04.06
どれかひとつのネジを締めたら、他も締め直さなければ


★ここ、10数年、酷使した愛機・送信機の話。
 ある日、突然、パワーが出なくなった。
 通常の3分の1程度。
 あちこち、いじくってみたが、僕の腕ではどうにもならない。
 で、修理に出した。
 「どのくらいかかりますか?(期間と値段)」
 「2週間くらいで」
 「もし修理に何万円もかかるようだったら連絡、頼みます」
 「了解です」
 しかし、1ヵ月近くたっても、ウンともスンともいって来ない。
 依頼したのが東日本大震災の前だった。
 だから、移送中のトラックの中で被災したのか? あるいは、依頼先(東京都目黒区)の作業台で被災したのか?……と心配したのだ。

 それが、昨日、ピッカピッカになって戻ってきた(^_^)v。

 〈修理報告書(保証書)〉
・RFユニット及びIFユニット送信ライン再調整
・ローカルユニット基準発信調整用トリマ交換・
・基準発信再調整
・送受信点検調整
 〈交換部品〉
・トリマコンデンサー(部品単価200円)
 ――正常な使用で、修理後3ヵ月以内の同一箇所の故障については、再度の修理代を控除いたします。当社製品をご愛用いただき誠にありがとうございます。この修理は○○が担当させていただきました。

 さっそくアンテナ&アースを接続し、テスト送信すると、弱々しかったパワー計の針が、力強く、基準点を超えようとする勢いで振れた。
 7メガでCQを出していた横浜の局、つづいて小樽の局と(テスト)交信する。
 絶好調!
 ○○さん、ありがとう!

★僕には「快適な生活の条件」という規準がある^^;。
 ときどき条件の中味は「更新」しているのだが、その「条件」のひとつに「アマチュア無線」があったはずだ……送信機がピッカピッカになって戻ってきたのを機会にチェックしてみたい……と、「快適な生活」という語で、僕のブログ内に向かって検索をかけた。
 1年半くらい前の「条件」がピックアップされてきた。

〈2009年12月17日(木)版〉

(1)古書店DAKAの静謐なスペース
(2)コンパクトな音響システム(インターネットラジオとPCスピーカー)
(3)自分の存在のカタチとの同一性を追究するHP
(4)大阪の路地のお好み焼き屋との同一性に迫る鉄板
(5)ストレスのない散歩道(これまでの「居心地のよい書店&喫茶店」「西に向かってたたずめる公園」「開かれた孤独が味わえる商店街」「哲学ができる運河」「便利な市場」等はすべて、この項目に含まれる。)
(6)無人駅の旅
(7)アマチュア無線(7メガ帯と144メガ帯)――(2009年12月版、以上)

★「アマチュア無線(7メガ帯と144メガ帯)」という内容自体は、これからも変わりはないが、僕とアマチュア無線との関係は少し見直してみたいと思っている。
 ひとつ見直すと、他の項目にも影響する。
 どれかひとつのネジを締めたら、他も締め直さなければいけないのと同じ。




★関連記事
品格のない行為。最初のコールサイン→失効→2つ目のコールサイン→失効→3つ目のコールサイン→失効
「ストレスのない散歩道」にはなり得ず、水平移動(散歩)しつつ、精神を垂直に沈潜&飛翔させることに失敗
快適な生活の条件①。自分の過去の記述群に向かって「快適」という語で検索をかけたら、いくつかヒットした
HP大改造の理由。(1)自分の存在のカタチを開示し続ける強い意欲が萎えた(2)マイナーチェンジの繰り
見えているはずの姿、あるいは、見せたいと思う姿を創出するプロセスが、わたしにとってのアマチュア無線だ
散歩は、公園、美術館、図書館、コンサートホール等と同じく、快適な生活の前提、あるいは生活条件の1つ


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学校が抱え込んでいる荷のままでは、家庭も地域も連携・協力できない。分担できるカタチに加工が必要だ

2011-04-05 16:56:15 | Weblog

 

2011
04.05
天ぷらになれるかもしれない、つぼみ状態のふきのとう


★散歩の途中、こころはろばろ神社の森で、ふきのとう――パートナーのいう「これでは天ぷらにならない」ふきのとうではなく、天ぷらになれるかもしれない、つぼみ状態のふきのとう――を6つ見つける。
 僕は山菜に疎い。
 子どもの頃、母とツクシを採った経験しかない。
 だから、花が咲いたり、咲きかかったりしているふきのとうしか目に入らない。
 そこで、花が咲いたり、咲きかかったたりしているふきのとうの周辺には「必ずつぼみのふきのとうがあるはずだ」という強い目で枯れ草や落ち葉のあいだを探してみたのだ。

 画像は、その天ぷら。
 採りたてだから、きめ細かなスポンジケーキのようにふかふかとしている。
 また苦みもグッと抑えられ、香ばしい。
 しかし、うかつなことに、天ぷらになれるかなれないかばかり気にしていて、天ぷらになる前のふきのとうを撮り忘れてしまった。
 ふきのとうに申しわけないことをした。



★前回、学校・家庭・地域の連携・融合・協働の活動、あるいは、教育コミュニティーづくり活動には、粗く、2つの発想があるということについて述べた。
 念のためにくりかえす。
 1つは、「学校が多くの荷を抱え、苦しそうだから、家庭や地域で支援してやろう、応援してやろう」(支援タイプ)という発想。
 もう1つは、「学校が多くの荷を抱え、苦しそうだから、家庭が引き受けるべきは家庭に、地域が引き受けるべきは地域に、適切に分担しよう」(分担タイプ)という発想。
 2つは似て非なる発想である。
 「支援タイプ」は学校が荷を抱えたままであるのに対して、「分担タイプ」をこれを改めようとする。

★数日後からはじまる、学校・家庭・地域の連携・融合に関する、怒濤の発表会・説明会&講演会に向け、この「2つの発想」に関して、乱氏とのあいだで、問題になったのが、粗く、次の3点だ。

(1)蔓延している「支援タイプ」から、僕たちが理想とする「分担タイプ」へと転換を図るための具体的な方法と、その語り方は?

(2)学校・家庭・地域が互いに「分担」できるシステムづくり(教育コミュニティーづくり)の、中核エネルギーを形成するための具体的な方法と、その語り方は?

(3)(大きなシステムとは別の)分担プログラムは、だれが開発するのか?
 現在、いちばん荷を抱え込んでいる学校の役目だ……、抱え込んでいる者(教職員)にしかできない仕事だと僕は思っている。
 この考え方でいいか?
 いいとすれば、その具体的な方法と、語り方は?

 すこやかみなみネットでは、(1)&(2)については、相当に進んでいる。
 たとえば、地域情報交換会でも、テーマは分担論、あるいは連携論が中心だ。
 また、中核エネルギーについても、ほぼ確立している。
 だから、乱氏とも、夕日の赤色が差しこみ、壮絶な色合いになったスクリーンの前で、二言、三言、確認し合っただけでパス。(その詳細は別項目で述べる。)
 問題になったのは(3)いちばん荷を抱え込んでいる学校の役目――

★学社連携が40年間、遅々として進まなかった原因については、これまでも、いろいろな角度から、具体的に論じてきたが、「教職員の教育丸抱え体質」も原因のひとつだ。

 日本の教育は一般的にいって、学校が教育を丸抱えする傾向にあるといわれるが、このことが教育の危機を増大させているのだという強い認識が必要である。
 本学区においては、学校・家庭・地域の教育のバランスは、具体的な教育活動においても、また理念においても、かなり改善されつつある。
 しかし、中学生の教育課程外活動(余暇活動等)については、部活動・自主学習等、まだまだ課題を残し、ある意味では「学校の教育丸抱え体制」に近い状態であるといえる。

 ただし、そうだからといって、学校側の判断のみで、無制限に、ダムの水を放流するように、丸抱え体制を解除することはできない。
 大混乱が目に見えている。
 やはり、まず、順序として、これを改めるために、多くの荷を抱えている側の学校が、地域とのコーディネート力をつけることが課題だろう。
 そして、次の段階して、ダムの水を徐々に放流するように、アウトソーシング計画をもつことが必要だ。
 別なところでも書いたが、日本の中学は、全国至る所で(特に東京で)これが遅れている。
 競い合って抱え込んでいる。
 教職員の意識改革が喫緊の課題だ。

★わかりやすくするために、あるいは、念押しするために、あえて横道にそれるが、このことに関連して、先日、とんでもない論文に出会った。
 論文の主をA氏とする。
 A氏は教職員だ。
 下記に一部を引用するので、どこが「とんでもない」のかチェックしていただきたい。

 一部引用――
 「生きる力」をはぐくむという理念を実現するために、今回の学習指導要領の改訂のポイントの1つは、地域全体で学校を支援する体制を整えていくことです。
 元来子どもは、学校・家庭・地域社会の三者で育てられ、「大人」化されていました。しかし、核家族化や少子化、共働きの増加、地域社会の崩壊などにより、子どもを「大人」化する機能を失ってしまいました。しかしながら、学校には人的・物的資源にも限りがあります。そこで、今まで地域や家庭が担っていた子どもを「大人」化する機能を補完するために、学校の中に地域の大人を取り込んだり、学校から地域へ出向いて行ったりすることが大切になってきます。(引用以上)

 粗く、3点指摘したい。
(1)まず、「核家族化や少子化、共働きの増加、地域社会の崩壊などにより……」のくだりだ。
 A氏は、いったい、どの地域の、どういう状態をみて「地域社会の崩壊」といっているのだろうか?
 各地を歩き回ってきた僕の認識では、日本の地域社会は、あるいは、日本の家庭は、「ご近所の底力」ではないが、まだまだ、まだまだ、大きなポテンシャル(潜在的な力・可能性としての力)をもっている。
 決して「崩壊」などしていない。
 この認識は、ぜひ改めてほしい。
 そうでないと、現在、A氏の実践している学社連携プロジェクトは(評価そのものは、現時点では、保留するとしても……)具体的な進展はのぞめないだろう。

(2)加えて、仮に「大人化する機能が低下している」ことは認めたとしても、大切なのは、学校の抱え込みが、それを加速させているのだという認識を、学校側の人間がもつことである。
 あるいは、学校の抱え込みが、「大きなポテンシャル」を抑え込んでいるのだという認識をもつことである。

(3)もう1点。「しかしながら、学校には人的・物的資源にも限りがあります。そこで……」のくだりだ。
 この論理だと「限り」がなければ、今の学校の抱え込み状態のままでいいのか?ということになる。
 「限り」のあるなしの問題ではない。
 A氏のこういう認識レベルでは、おそらく、学校の抱え込みがますます進行し、学校・家庭・地域のバランスがさらに悪化するおそれがあるだろう。

 僕が「教職員の意識改革が課題」といっているのは、このことだ。

★少し横道にそれたが、学校・家庭・地域の連携・融合・協働の活動、あるいは、教育コミュニティーづくり活動というのは、よほど慎重にやらないと、なかなか、いや、ほとんど効果があがらない。

 本校区の「教職員の教育丸抱え体質」改善、あるいは、いちばん荷を抱え込んでいる学校の今後の役割のポイントを列挙する。

(1)教育コミュニティーづくりの「しかけ」役。

 まず、「中核になるコーディネート力」を明確にし、それを核にした連携のためのネットワークの形成。
 これについては、これまでも「すこやかみなみネット事業」として説明してきたので、詳細は省略する。
 だだ1点、断っておきたいのは、学校側に身を置く者として敢えていうのだが、「中核になるコーディネート力」がどこであるにしても、教育コミュニティーづくりの「しかけ」役(←このことばは適切でないかもしれないが……)は、教育の荷を抱えている側の学校だということである。

(2)分担・連携プログラム開発の役目。

 再び、学校側に身を置く者として敢えていうのだが、抱え込んでいる荷を、他者が分担できるカタチに加工(プロデュース)するのは学校の役目だ。
 抱え込んでいる荷のままでは、家庭も地域も連携・協力することはできない。
 ただし、この「加工」作業には、プロ教師として力量が要求される。
 加工する際、①学校外で分担を請う場合(外注)と、②学校内で分担を請う場合とにわけて考える必要がある。

(3)分担・連携プログラム実践管理の役目。

 上記の(1)も(2)も、学校・家庭・地域が相互に協力して進めるのがいいことは百も承知の上で、僕は「学校の役目」だとした。
 理由は、このことを学校側が重要な職務の1つだと認識しない限り、学校・家庭・地域の連携・融合・協働の活動は進まないと考えるからだ。
 この職務を遂行するために、校務分掌の1つとして「学社連携部」の設置が望ましい。
 しかし、たとえば、11、2学級の規模では、総務・教務・研修・生徒指導・保健に加えて、学社連携部の創設というのはむずかしい。
 そこで、「連携主任(すこやかみなみネット主任)」を選任し、総務部の枠のなかで、連携業務にあたるというのもひとつの方法だ。


★関連記事
教職員は、学社連携・融合コーディネーター機能を発揮しよう。教育は、単に学校だけで行われるものではない。家庭や地域社会が、教育の場として十分な機能を発揮することなしに、子供の健やかな成長はあり得ない


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以前、ふたりのあいだでマンデリンのことが話題――小春のパパの昔の彼女がマンデリンが好きだったという話

2011-04-04 14:45:50 | Weblog

 

2011
04.04
小春のパパの昔の彼女がマンデリンが好きだったという話 


★東日本大震災被災後のJR八戸線――僕の内の闇から闇を疾駆して朝の光に至る「ふたりっ子はん深夜特急」(2001/3~2004/3)の軌道――の、陸中八木駅(基地ステーション)、有家駅(「朝の光」の直前駅)の復活・復元状況が気になり(地元発信の最新情報によると、かなり厳しい状況)、昨日、午後、交通手段に関する情報を収集し、往路・帰路の行程を組み立ててみた。

★いちばん簡単なのは、八戸市から自動車で国道45号線を南下する方法だ。
 しかし、これは(これまでも鉄路を語る場面で、たびたび述べてきたように)僕の内側にいる「僕」にとっては禁じ手(反則)なのだ。

★昨夕の段階でベスト案は次の通りだ。
・JR八戸線0537八戸駅発―0558鮫駅着
・代行バス0610鮫発―0729有家臨時駅着
・徒歩0830有家駅発→国道45号北上→小子内経由→1000陸中八木駅到着
・代行バス1252陸中八木駅発―1405鮫到着……。
 昨夕は、陸中八木駅界隈での3時間をどう過ごすかぁ~?と考えているうちに、行程検討は立ち消えになった。

★深夜、ベットに入ってから、臨時バスにはなむけ号(僕の折りたたみ自転車)を――ちょっとシンドイけれど――組み合わせる方法もあることに気づく。



★僕はこれまで何度も「僕の存在の仕方=ホームページ(含 ブログ、チャット、掲示板)だ」といってきた。
 最近、この命題に少し補正を加え、「僕の存在の仕方」=「現実のなかで、ガラスの破片のように散らばった僕・僕・僕……を必死に結合しようとする存在」=「ホームページ(含 ブログ、チャット、掲示板)」。

 東日本大震災被災後、この僕のホームページ(含 ブログ、チャット、掲示板)が変だ。
 もちろん、これまでが完璧だったというわけではない。
 ホームページ上で、散らばった僕・僕・僕……を結合させるというのは、あくまで、そうあってほしいという願いであって、実際にはその実現はなかなかむずかしかった。
 「変だ」……というのは、東日本大震災被災後、その実現がさらに遠のいたという意味だ。

 原因は、これまでも述べてきたように――ま、きわめてきわめて観念的、抽象的な言い回しになるが、今後、修正を加えていくための叩き台、思考の原初のカタチとして――(1)まず、僕の13、4歳頃から、僕の精神的時空間の、現実と非現実の境を支えるポイント(=出発点)でありつづけた、鮫、陸中八木、有家、田野畑、宮古、気仙沼、小高、九十九里等の被災により「僕の半分が壊れ」、「見るべき程の事は見つ」の心に近い状態に陥る。
 すなわち、これは「現実のなかで、ガラスの破片のように散らばった僕・僕・僕……を必死に結合しようとする存在」の構造・骨組みが消滅したということなのだ。

(2)しかし、僕は自己を消滅、破壊しつくすことなく、(結構、しぶとく)生き延び、(現実と非現実の境を支えるポイントが壊れたため、仕方なく)一旦、僕自身の拠って立つところを「非現実」エリアとし、そこから「現実」に突き抜ける道(方途)を選択したのだ。

★このところの詳細を語るのがめんどうなので、ト、ト、トッと、ぜんぶ飛ばす。
 苦しまぎれに「非現実から現実に突き抜ける道」といったが、そんな「道」が簡単に見つかるわけがない。
 おまけに、その過程で、「散らばった僕・僕・僕……」が、さらに飛散してしまった……というところが、最近の「ホームページ不調、荒れ放題」の原因だろう。

★対策として、しばらく、「飛散した僕」の破片を、ひとつひとつ拾い上げていくことに……。
 「結合」は、また今度の話。



★はぎちゃん様、震災見舞いのコメントありがとうございます。
 せっかくコメントをいただきながら、長い期間、返信できず、ホンマ、もうしわけありませんでした。
 震災当日は、イベントがあり、地震発生時には、赤信号で停車(先頭)中の、自動車内(助手席)で遭遇。
 地震のとき、よく放送局の屋上カメラの映像が流れますが――あれは地上が揺れているのではなく、カメラがカタカタと揺れているだけなのですが――今回は、ああ、ホンマに地上そのものが上下に左右に激しく揺れているぅぅ~……、それも結構、長い揺れだったので、まさしく、この世の終わり……という思いでした。
 長い揺れの中に身を置いているとき、僕の耳に『増鏡』の老婆の「この日本国の衰ふるはじめはこれよりなるべし」の声が聞こえましたよ。(巻2.「新島守」――老婆の発言のシチュエーションは自然災害とは異なります。)
 目の前の信号の赤が青に変わりつつ、プツッと消えたのが、スゴク、ショックでした。

 しかし、僕個人の物的被害については「極微」――天井までの書架のひとつが、激しい揺れで、耐震つっぱり部分が外れ、倒壊、その他、直後から1、2日の停電、慢性的なガソリン、灯油不足……程度。
 ただ、ま、やはり、日本人の多くがそうであるように、精神的ショックは、ことばにできないものがありますね。
 「見るべき程の事は見つ」(平家物語)の心境。

 大震災当日、宮古取材計画を立てていて――八戸10:16~12:04久慈(JRうみねこ)、久慈13:04~14:40宮古(三陸鉄道北リアス線)――直前に、別のイベントが入り、計画変更。
 計画通りだったら、地震の直前に宮古到着ですから、不案内の土地で、僕はきっと右往左往したことだろう……あるいは右往左往しつつ、もしかしたら……という思いが僕のショックを倍加させているのかもしれません。

 僕なりに被災地チェックをしたいのですが、まだ八戸の一部にとどまり、今後、様子をみて、階上、陸中八木、有家、田野畑、宮古等を訪れるつもりです。



★小春のパパ様、いやぁ~、ひさしぶりです。(僕の精神的混乱から)掲示板コメントへの返信もできず、ホンマ、失礼いたしました。

★小春のパパがいう「無意識の〈言動〉に、明確な根拠――誰もが理解、納得する?――を感じさせるようなイイ〈男〉になりたいなぁ」
 むずかしい話だとは思いますが、常に、そういう「男」でありつづけるというのは確かにむずかしそうですが、――特に「無意識」というのが……ね^^;――、しかし、ある時、ある場面に限定するというのであれば、だれにでもそういう「男」になるチャンスはあるのではないか?と思いながら……、また、小春のパパは、僕の周囲では、そういう「男」にいちばん近い存在なのではないか……とも思いながら、小春のパパのコメントを読みました(^_-)。

 しかし、こんなことを突然いいだすって、何か変ですね。
 小春のパパの周辺に何かあったのでしょうか?

★以前、ふたりのあいだでマンデリンのことを話題――小春のパパの昔の彼女がマンデリンが好きだった……という話――になりましたが、最近、僕のマンデリンは絶好調です。
 ネットで生豆を取り寄せ、手鍋焙煎をやっています。

 〈僕流の手鍋焙煎のやり方〉
◇手鍋(僕は直径14㎝くらい、厚さ2㎜程度のものを使用)に、
◇生豆50~60グラムくらいを入れ(60グラムを超えると作業の後半に手がだるくなる)、
◇ガスコンロの強火の上で(鍋を火からあまり離さないようにして)手首を小刻みに振り(回転させ)つづける。
◇①5分くらいすると、アーモンド色に変色。
 ②やがてバチッバチッと爆ぜる音。
 いわゆる1爆ぜ(イチハゼ)だ。
 ③と同時に、鍋から、半透明の、香ばしい煙が湧きあがる。
 このバチッバチッの音と、湧きあがる煙(香り)がいい。
◇バチッバチッが(①はじまってちょっとしてか……②ちょうど中間あたりか……③おさまりかけた頃か……で、次の「2爆ぜ」に影響するので、むずかしいが、はじめは①~②でやめておくといいと思う)はじまってちょっとしたところで、コンロを極弱火にし、僕の場合は、手鍋をゴトクに置き、お好み焼きのコテでガラガラと混ぜつづける。(弱火にしても鍋は熱いので、すぐコテで混ぜないと黒こげになる)
 と、バチッバチッにつづいて、ピチピチ、ピチピチと、豆の油成分が燃える、2爆ぜの音が聞こえはじめる。
 僕の「定義」――
 このピチピチがはじまった瞬間でやめると浅煎り。
 ピチピチの途中でやめると中煎り。
 ピチピチの終わりでやめると深煎り。
◇やめた(ガスを止めた)瞬間、僕の場合、即、鍋の底を水に浸け(水に浸けるのは「豆」ではない。「鍋」の底)、ジュジュッと冷やす。
 冷やしながら、コテで混ぜつづける。
 ここも素早くやらないと、鍋の熱は相当あがっているし、マメそのものも手ではさわれないくらい熱いから、それらの熱で焙煎がさらに進んでしまう。
 その後、手鍋をもって庭に出て、ドライヤー、あるいは団扇で、チャフ(豆の薄皮)をぶっ飛ばす。
 豆によっては大量のチャフが舞い上がる。

★マンデリン(中煎りと深煎りの中間)とブラジル(浅煎り)を混ぜて飲みながら、PCラジオでバロックを聴くのが、近時の僕のマイブーム。

★画像=3月末の雪の散歩道。





★関連記事
再び、東北関東大震災で被災したJR八戸線・有家駅界隈の情報。山の稜線のカタチだけが変わっていない
無人駅への往路か復路のどちらかが必ず鉄路であること。自動車や自転車で無人駅に直行し、そのままさっさと舞い戻るのは不可。自転車を(折りたたんで)往路と復路、またはどちらか一方を列車に乗せるのは可
当然のことだが、僕の存在の仕方をWEB上に表現したのがホームページであるという意味だ。もう1つは、逆方向で、ホームページの存在によって形成された僕というものが存在するという意味だ
現在の「茫漠時空間」は、ガラスの破片のように散らばった「僕」「僕」「僕」をいじくるのではなく、そこにそのまま存在させ、荒っぽい話だが、逆に、「僕」「僕」「僕」が絡みついている空間軸&時間軸を撤去、溶解させようというものだ
東北関東大震災によるJR八戸線・陸中八木駅&有家駅の被災状況。全線開通までに相当の困難が立ちはだかる
マンデリンの手鍋焙煎。コンロの火の加減と、混ぜ方の工夫で、炭にして以来やめていた深入りに再挑戦


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本日の散歩の隠しテーマはRICOH・CX3の接写で「春を撮ろう」。しかし、ふきのとうは、遅すぎた

2011-04-03 11:38:30 | Weblog

 

2011
04.03
このブログ、ま、いきあたりばったりでいいのだけれど


★午前中、散歩。
 コースはいつもとほぼ同じで、○起点(25メートル)→○水道公園・配水池(73)→○旧浄水場公園(42)→○神社の森の下道(48)→○こころはろばろ神社境内(68)→旧浄水場公園→水道公園→起点。
 約60分、6000歩。

 RICOH・CX3の接写で「春を撮ろう」というのが、きょうの散歩の「隠しテーマ」だったが、「春」がまだ早いのか? 僕の目に力がないのか? いい画像は撮れなかった。
 ただし、ふきのとうについては、遅すぎたようだ。
 帰宅し、パートナーに画像を見せると、「これでは天ぷらにならない」。

★このブログが取りあげる内容は、ホンマ、いつもいつも、いきあたりばったりだが、ま、もちろん、いきあたりばったりでいいのだけれど、しかし、いきあたりばったりではなく、少なくとも、1週間という期間程度、その期間を覆うテーマ、あるいは題――抽象度の高い漠然としたモノではなく、具体的なモノ――があってもいいかな?と、ふと考える。

 要するに、「日常の時空間、いきあたりばったり」と、「600字の教育学モノ」の2本立て。











★関連記事
結論としては、「(学校・家庭・地域の)教育の情景」の枠の中に限定して「(今年のテーマ=)茫漠の時空間疾駆をやる」ということになった。結局、「教育の情景」にもどったのだ。なんだか「お釈迦様の手の上の悟空」の心境
「職員室に夕日の赤色が差しこみ、壮絶な色合いになる――世界」の内側の、「点」から「点」を疾駆する。これが「600字の教育学社」の僕の仕事だ
教育界の片隅に棲息する「600字の教育学社」の頑迷固陋のおやじさんがJazzを聴きウィスキーを飲んで


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無意識裡に照合した他の思考=エリクソンの自己同一性・ヤスパースの超越者・西田幾多郎の純粋経験

2011-04-01 09:43:39 | Weblog

 

2011
04.01
KOYU様がただおひとり(*^_^*)ですよ


★KOYU様、こんにちは。
 僕の「人生の空間軸上の枠組み&時間軸上の枠組みを取り払った、『茫漠』の心境」に対して、コメントくださったことに心より感謝します。
 こういうことにコメントくださる方というのは、僕の人生の空間軸上&時間軸上においては、KOYU様がただお1人(*^_^*)ではないかと思います。

★空間軸上には、僕に影響を与える、たくさんの人物がいます。
 職場の人物。
 家庭の人物。
 地域・社会の人物。
 これらのひとりひとりに対する僕の「構え」は、微妙ですが、確実に、ぜんぶ、違います。
 この違いを撤去する。
 これが「空間軸上の枠組み撤去」です。

 時間軸上には、歴史的に、いろいろな「僕」が存在します。
 学生の僕。
 教職の僕(あっちの学校に勤めた僕、こっちの学校に勤めた僕……)。
 行政職の僕。
 それぞれの時代に個性?(喜びと悲しみと苦しみ)があります。
 この、それぞれの時代の個性を撤去する。
 これが「時間軸上の枠組み撤去」です。

★アインシュタインの相対性理論(相対論)のことは、よくわかりません。
 物理的思考が苦手です。
 それに、地学的思考も苦手です。
 ああ、そうそう、数学的思考も苦手です。
 きっと、アインシュタインの相対性理論とは無関係だと思います。

 ただ、KOYU様のコメントが、ひとつのヒントを僕に与えました。
 それは、「人生の空間軸上の枠組み&時間軸上の枠組みを取り払った『茫漠』」は、僕の、ひとりよがりの、苦しまぎれの、思考の過程&ゴールにすぎませんが、他の「思考の過程&ゴール」と照合させることにより、僕が、真に、僕の求める「ゴール」に近づけるのではないか?……ということです。

 照合対象候補として、ぜひ、アインシュタインの相対性理論(相対論)も検討してみます(^_-)。

★なお、「人生の空間軸上の枠組み&時間軸上の枠組みを取り払った『茫漠』」の思考過程で、無意識のうちに照合したと思われる、「他の思考過程」がないわけではありません。
 列挙します。
・エリク・エリクソンの「自己同一性((Self Identity))」
・カール・ヤスパースの「超越的なもの」
・西田幾多郎の「純粋経験」「絶対矛盾的自己同一」。
 以上です^^;。

 機会がありましたら、また、KOYU様の話(コメント)をいろいろ聞かせてください。――KOYU様への返信以上。



★画像=散歩道の光景。
 僕の散歩の行程は、水平部分がない。
 アップダウンの繰り返しだ。
 海抜で示すと――
 起点(25メートル)→水道公園・配水池(73)→旧浄水場公園(42)→こころはろばろ神社境内(68)→神社の森の下道(48)→旧浄水場公園→水道公園→起点。
 約60分、6000歩。
 先日、水道公園下の道で、赤い乗用車の美しい女性に声をかけられる。
 数分、話す。
 女性は日本人だが、乗用車は日本のものではない。
 車はときどき見かけるから、散歩コースのどこかに職場か住居があるのかもしれない。


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