職員室通信・600字の教育学

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テンションが下がるとき、わたしは、必ず、堀辰雄の書簡を読んでいる?……と、ふと口のうちでつぶやいて

2009-11-09 04:21:28 | Weblog

◆テンションが下がるとき、わたしは、必ず、堀辰雄の書簡を読んでいる?……と、ふと、口のうちでつぶやいてしまった(*^_^*)。

 ほんとうにそうかもしれない。

 いちいち、事例をあげることはしないが、落ちこんでいる場面、正確にいえば、何かをあきらめざるをえなかった場面を思い浮かべると、高い確率で、堀の書簡を読んでいる。

 いちいち事例をあげないといったばかりだが、1つだけ。

 大学3年の晩秋。
 わたしは、かなり早い段階から、卒論は、堀辰雄と決めていた。
 テーマは、粗くいうと、堀辰雄の、草食男子に対する肉食男子的な面(堀辰雄は肉食男子です!)……は冗談としても、そのNOMAD(遊牧民)性に、強烈な光をあててやろうと思っていた。

 テーマをわかりやすくするために、以前、「下品な対談」として紹介した大岡昇平たちの「堀辰雄を截断する」(『文藝・臨時増刊・堀辰雄讀本』掲載)を、再び、一部抜粋コピーする。

★「ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』をよっぽどよく読んだらしくて、『聖家族』が全然、ラディゲのやり方なんだ」(伊藤)
 「あんまり似すぎているんで、アホらしくなったね」(大岡) 
★「人からもいろんなものを吸収できるけれども、読む本からも吸収できる能力のあった人だな」(伊藤)
 「プルーストから、リルケから、モーリアックから意識的に取り入れ、堀さんなりに消化している」(山本)
 「消化してる? 猿まねだと思いますがね」(大岡) 
★「ちょうどその時代の青年たちが影響を受けるに具合のいいような作品を見つけて、先に読んでしまうというような、非常に鋭敏な、利口なところがあった」(伊藤) 
★「堀の頃の軽井沢は閉ざされた社会でね。そんなところで変にセンチメンタルなことを書いてるのは、人の憧れをそそろうという策略さ」(大岡) 
★「ドイツ人のいる教会とかに近づき、恥をかいて帰ってくるんだが、きれいなことだけ書きやがるんだ」(大岡) 

 これを読み、多恵子夫人は激昂し、わたしは吹きだしてしまった(*^_^*)ということは前にも書いた(*^_^*)。

 この大岡たちに対して、「それが堀文学です。堀は自分の領域内に必ず他の文学を鮮明に抱え込んでいます。永遠に非完結の、NOMADの文学です」と、大学生のわたしは言いたかったのだ。
 大岡たちは、プルーストやリルケなど、外国のことばかり述べてるいるが、国内にも同じことが言える。
 国内の抱え込みこそ、堀の真骨頂なのだ(*^_^*)。(これを言い出すと、現時点の文脈の収集がつかなくなるので、別の機会に述べることにする……。)

 しかし、結論をいえば、当時、指導教官だった福村保先生の絶大なご支援にもかかわらず、わたしは資料不足のため、堀辰雄論を断念する。
 ショックだった。
 断念を、自分に納得させるために、わたしは堀の、昭和16年12月(奈良滞在)~昭和20年8月(信濃追分滞在)の書簡を読んだ。

 特に昭和20年8月の次の箇所が印象深い。

〈――多恵子は畑仕事に夢中。
 馬鈴薯は上出来だったが、そのあとに蒔いた蕎麦の芽が暑さのためとうとう出ず、悲観している。
 もちろん、僕はなんにも手伝えないばかりか、家から二町ばかり離れたその畑へも歩いてゆくのがやっとのことだ。
 四、五十坪くらいあるだろう。
 早く僕が元気になって、二人で肥桶をかついで歩けるようになるといい、というのが多恵子の唯一の空想らしい。
 僕もはやくそれくらい元気になりたいものだ。――〉

 脱力の状態で、最低限の呼吸だけをして、読みつづけた。

 なお、卒論は、資料不足で断念した堀辰雄とは逆に、ある理由で?豊富に資料がそろっていた伊東静雄(特に大東亜戦争下の詩業)に切り換えた。

 堀辰雄1904年(明治37年)12月28日-1953年(昭和28年)5月28日。
 伊東静雄1906(明治39年)年12月10日-1953年(昭和28年)3月12日。

 堀は、伊東の詩業を高く評価していた。

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