★教師にとって授業の教室は舞台だ。 その舞台の裏で毎日、せっせと授業を記録し、A4判用紙2枚(2000字)にまとめ発行していきたい。 発行したものを「読む人々」が「観客」だと考えると、僕はいわば劇場の座付作者ということになる。 これまでもポツポツとは発行してきた。 でも、ポツポツとではダメなのだ。 ポツポツと発行する「スタイル」は僕のうちに既にできている。 しかし、毎日せっせと発行しつづける「スタイル」はできていない。 今年度じゅうに完成させたいと思っている。 うれしくても、悲しくても、せっせと発行しつづける。 発行しつづけることによって、教育の課題を乗りこえていく。
★11/13 2時間目、乱氏といっしょに須藤Tの学活の授業(1年3組)を参観した。
以前にも紹介したが、本校では、全教員がひとつの教室に参集して授業を観るという設定はない。 研究授業は、教科部会でやるか、「○○Tの授業を観る会」というカタチでやるかの2本立てだ。 本日は後者だ。 空き時間の教員が参観する。 放課後、15分間、研究協議の場を設定する。 協議に参加できない場合は「授業評価票&メモ」を提出する。 他には、保護者参観日の授業と、模擬授業がある。 これら、教科部会の授業、○○Tの授業を観る会、保護者参観日の授業、模擬授業を合計して年間150回以上というのが、本校の修業計画だ。 なお、全教員が参集するカタチも得るものが多い。 しかし、他教室の生徒が自習になる。 安全管理上、教育課程管理上、これは絶対に考えられない。
本日の授業の題材名は「自分の特徴を知ろう」(3時間計画のうちの2時間目)。 エゴグラム(←この検査の説明は省略する。ご存じない方はインターネットで検索をかけて調べてみてほしい)を使い、自分で思っている「自己」と他者からみられている「自己」の相違から、自分を分析し、さらに高めるために必要なことを考えよう……という授業だ。
★いい授業だった。 僕は今は座付作者だが、元々は授業者だ。 だから、参観していると、カラダが自然に反応する。 マズイ授業だと、フリーズする。 あるいは、汗が吹きでる。 この点、きょうの須藤Tの授業は、参観していて――そのとき自分のうちに浮かびあがったことばをそのまま記述するとすれば――自分の精神が心地よいリズムで歩行&ダンスしているのがわかった。
今、手元に『教務通信57号(文責 乱氏)』がある。 ここでも、今回の授業が取り上げられていて「発問・指示等の基本が基準レベルを超えているので授業が安定している」「教師の表情がよい。笑顔がすばらしい。生徒の表情もとてもよく、楽しい雰囲気で授業が行われていた」(乱氏)とある。 僕の感覚を裏付ける記述だ。
「発問・指示等の基本が基準レベルを超えている」の具体例として、 ①作業内容、作業時間&作業開始等の指示が的確だ。 ②「達成状況をきちんと確認している(乱氏)〈教57〉」。 挙手の数え方も、「1(人)、2、3、4」ではなく、2人ずつ、「2、4、6」と数えるために速い。 ③「終わった人は、グラフを……」と次の課題を提示し、空白をつくらない工夫をしている。
★もう1つの要素が「語り」だ。 「語り口調がやわらかで聞きやすい(国士舘)〈教57〉」。 同感である。 夏期休業中の模擬授業では、声質がやや高く、かつ大きいという印象を受けたが、きょうは、かなり抑えられ、やわらかく、かつメリハリがきき、リズムがあった。 発表する生徒に対する感謝、ねぎらい、感動のことばも自然だ。 そして、「あの~」「えぇ~ッと」などは一切ない。 ふと一瞬、授業の名人、野口芳宏氏の語りが僕の頭をかすめた。 また〈授業の展開前半〉自分がよいと思っている点をチェックカードに書かせる場面で、「はい、1分たちました。まだ書いている人がいます。書きあげた人は手を置いて……もう少し待って」という指示を出すとき、通常よりぐっと声量を落としている。 これだと作業を継続している生徒はほとんど気にならない。
★課題を2点。 1つが「青い山脈型授業」に流れることだ。 〈教57〉にも同じ指摘がある。 (断っておくが、青い山脈型がすべて悪いとは思わない。青い山脈型でいい場面もある。) 導入の場面だった。 まず、①生徒に教師(=須藤T)のよい点をあげさせる。 →②そのあと教師自身が自分でよいと思っている点をあげる。 →③この2つを比較して、自分が思っている自己と他者からみられている自己に相違があることを気づかせる……という場面(2分間)だ。 須藤Tは、ここを、いわゆる青い山脈型でサラッと流したのだが、もっと鮮明に「違い」を印象づける工夫が必要だ。 くわえて、もっと確実に生徒全員に「参加(作業)」させる保証の手立てが必要だ。 僕だったら「わたしが自分でよいと思っている点」を3つ書いた張り物を用意し、黒板に伏せておく。 生徒には30秒間考えさせたあと、列指名などで発表させて、対比し、「違い」を鮮明にする。
★もう1つが、生徒が主役になる場面が一度もなかったことだ。 もちろん教師が主役でいいし、授業は教師が主役でなければならないと考えている。 だが、その教師が主役という枠の中で、生徒が主役になる場面をどんどん創出、開発しなければいけない。 「黒い線(自己評価)、赤い線(他者の評価)を見くらべてどう思うか?の発問に対して何人かに発表させるべきだ(葉田)〈教57〉」は、このことを指摘している。 同じく「終末が説教みたいな感じになったが、それでいいのか?(乱氏)」もそうだ。 作業内容の密度が高い授業なので、説明→作業→説明→作業……という流れはやむをえないが、生徒が主役になる場面を設定するとすれば、葉田T、乱氏が指摘する場面だった。
★なお、「青い山脈型授業」という語だが、僕はてっきり教育学用語として定着しているものと思っていたが、念のために今、インターネット(Yahoo!)で検索したら、僕の記事しかひっかかってこなかった。 で、簡単に説明すると―― 教師が発問し、生徒が答える。 適切な答えに至るまで「ほかの人?」「ほかに?」と、くりかえし指名していくスタイルのことだ。 映画「青い山脈」にこの場面があるから、「青い山脈型」と呼ばれるようになったらしい。 今頃、こんな授業があるのか?と思う人もいると思うが、結構、あちこちの教室で見られる。 僕は、児童・生徒全員に「参加(作業)」させるべきなのに、その手立てを講じていない場面に対して、否定的に用いている。
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