職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

テスト返却のとき、生徒YとZが教卓のところにやってきて「わたしのが×で、Zさんのが○なんですけど……

2010-05-25 15:21:01 | Weblog

10.05.25 テスト返却のとき、生徒YとZが教卓のところにやってきて




◆先日から継続している、古書店DAKAの大解体作業が、難所にぶつかった。
 ある、ひとつの書架に収まっている書物&資料の「処分か? 保存か?」の判定がむずかしい。
 いったん「処分」と決めて、1、2時間後に、もう1度見直したら「保存」と判定が変わってしまう。
 その逆もある。
 国語の試験問題で、「AとBの違いを40字以内で説明しなさい」という設問がある。
 採点のとき、(1)32文字以上 (2)これとこれとこれに触れていること……などと、細かな基準を設定して、○×とやっていくのだが、ギリギリ○の解答と、ギリギリ×の解答の差は微妙だ(補足=わたしの採点に△はない)。
 返却したとき、生徒YとZが教卓のところにやってきて、2枚の解答用紙を並べ、「わたしのが×で、Zさんのが○なんですけど……、でも、わたしのもZさんのも同じことを書いているんですけど……」と。
 何度、読み直しても、Yの言う通りだった^^;。
 汗が出た^^;。
 「ゴメンm(_ _)m。ほんとうに、その通りだm(_ _)m」
 こうことが1回あった^^;。

◆処分か? 保存か?……と悩んでいたら、この採点ミスを思い出した。
 経験的にいうと、こういうときは「保存」がいい。
 「処分」して、後々、後悔したことが何度かある。

 ただ、しかし、これだと解体作業は、もう、これ以上、進まなくなる。

 ということで、本日の解体作業は中断し、玄関先で、苦手なノコギリ、金槌、メジャーを持ち出し、額に汗し(*^_^*)、解体した書架の木っ端で、小さなテーブルを作る。
 古書店DAKAには、来客にお茶を出すテーブルがなかったのだ。

◆今、完成したテーブルで、コーヒーを飲んでいる(^_^)v。

 先日(5/23)、解体作業中に、思わぬ書物&資料に再会し、読みふけることがある……と書いた。
 昨日、夕刻もそうだった。
 ある理由で「処分」が決定している、わたしの「Diary」だ。

 人生には、いくつかの分岐点がある。
 それは、決してひとつではない。
 かといって、6つも7つもということはない。
 ま、3つか4つだろう。
 再会したDiaryは、その分岐点の只中にあった。
 もちろん、記述している「わたし」も、うすうすはそのことに気づいている。
 しかし、はっきりとした「意味」はわかっていない……。

◆ある年の12月のDiaryの記述。

〈12/01〉
 最近、文章を書いていて、書いていることや、その書き方が「つまらない」と思う。
 ときどき思うのではない。
 よく思う。
 そう思ったとき、武田泰淳や村上春樹の文章を読もうとする……ところが、僕にある。
 きょうも、向かいの席の、K教諭の、机の上の『ダンス・ダンス・ダンス』を、ふと手に取り、2、3行眺め、自分のクセに気づき、すぐに『ダンス・ダンス・ダンス』を閉じた。
 よくわからないが、今、どう書くか?……ではなく、「つまらない」ことそれ自体を、直視しなければならないのだと思う。
 しかし、「直視」するとは、どうすることなのか?
 直視しなければならないのはわかるが、それは具体的にどうすることなのか?
 武田や春樹を、手に取らないことか?
 そうかもしれない……。

〈12/03〉
 朝から、僕は、ある気分を抱えながら、ソファーに寝転がり、バッハのブランデンブルグ協奏曲を聴き、金魚の水替えをし、TV『ハチ公物語』を観ていた。
 そして、今、前後の脈略なしに、その「ある気分」の正体がわかった。
 「『分身』を喪失した感覚」。
 これは、間違い、ない。

 一昨日、うまく言えなかったこと……、ごまかしてしまったことが、整理していえそうに思うので書くことにする。

 手がかりは、昨年の「12月」と今年の「12月」の「違い」だ。
 昨年の「12月」には、『反響』地図がある。(註 『反響』地図=当時書いていた『反響』という小説の舞台の地図)
 今年の「12月」には、それがない。
 地図が「ある」ことと、ないことの違いは、何か?
 地図があるということは「地図の中で呼吸する、僕の『分身』が存在」するということだ。
 今年の「12月」は、この「分身」を否定している。

 これまで、これがはっきり理解できずにいた。
 だから、ずっと「喪失感」を感じていたのだと思う。

 去年の「12月」に、千早と光太郎をソリに乗せ、引っぱっていたのは、「僕」ではない。
 「僕」の分身「平岡」だ。
 千早と南部バスに揺られていたのは、「僕」ではなく、「平岡」だ。
 くどいようだが、もう1度いう。
 今度の「12月」には、分身「平岡」はいない。
 さっきから、こうして2学期末「通信表」のコメントを書いている「僕」しか存在しない……のだ。

 この「僕」を直視しつづけること……。(つづく)

関連記事 ・地図の中は、めずらしく大雪だ。ソリ(プラスチック製。赤色)に、千早と光太郎を乗せて、散歩する。
20数年前の闇が割れ、ロボットが忽然と現れ出てきたという感じ
ガラスの破片のように散らばったわたしを必死に結合しようとしているのが、このホームページかもしれない

◆画像=散歩コースの、こころはろばろ/スラバヤ沖/バタヴィアの沖/神社界隈の風景(RICOH・CX3)。


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