◆2006年8月11日(金)に次のようなわたしの記述がある。
〈30歳代半ば、紙の上に小さな町(村)の地図を創り、その「地図」の中から、学校(大館中)に出勤し、夕方、またその「地図」に帰る……という精神上の操作をしていたことがある。
どの家の柱時計も休んでいて、魂という魂がみんな通りすぎてしまったような、ひっそりとした町だ。
その「地図」の上にあった、タバコ屋、薬局、柿本屋(旅館)、七福食堂、七福教会、東京庵(料亭)、理髪店、土産物屋の牧野さん、山楽(旅館)、仁王門……などは今でも鮮明に記憶している。
当時は、自分のことを「僕」と言っていた。
現実のなかで、ガラスの破片のように散らばった「僕」「僕」「僕」「僕」「僕」「僕」「僕」「僕」……を1つ所に寄せあつめようとしていたのだと思う。〉
◆2年前の自分の記述だが、わたしとしては、たいへんよく書けている(^_-)。
国語教師で1年6組の学級担任である「僕」
夫である「僕」
親である「僕」
(大阪にいる母に対しては)息子である「僕」
E……である「僕」
F……である「僕」
G……である「僕」
これらの「僕」を、「現実のなかで、ガラスの破片のように散らばった僕」って、ホンマ、上手に表現したなぁ~と感心する。
散らばっている「僕」という現実を、ただ、仕方がないのだと受け入れるのではなく、30歳代半ばのわたしは、殊勝にも、必死に、(なんといったらいいのか……)統一? 包括? 結合? 融合?させようとしている。
その中心のイメージが「地図」だったのだ。(この「地図」は、デジタルデータとして作成したから、今でもどこかにあるはずだ。ただし、5インチフロッピーに^^;。)
◆わたしは、何度も何度も、わたしの存在の仕方=ホームページだ……という言い方をしている。
これは、上記の記述に絡めると、2つの解釈ができる。
1つは、存在の仕方=現実のなかで、ガラスの破片のように散らばった「わたし」=ホームページ。
もう1つは、そうではなく、存在の仕方=散らばった「わたし」を、必死に結合しようとしている=ホームページ。
後者であるとすれば(自分自身のことなのにこういう言い方をするのは、この点については、まだ詰め切れていないので……)ホームページ=25年前の「地図」といえるのかもしれない。
近いうちに「地図」データを復元して、このホームページ上にアップしたい。
◆昨日、ひさしぶりにJR八戸線の旅に出る。
いちばん上の画像は八戸駅を出るキハ(うみねこ号)。
2番目は、金浜駅に向かって走行するキハ。
下の2画像は、金浜駅にわたしを降ろしたあと、次の大蛇駅に向かうキハの後ろ姿。気動車の吐く煙をみると、わたしは胸がいっぱいになる。
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