職員室通信・600字の教育学

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★プロ教師塾シリーズ「学校部活動は全廃し、教師たちを、女工哀史・ああ野麦峠的状況から解放する」編

2014-01-13 13:24:07 | 僕のモンマルトル日記

 

茫漠特急
★教師修業シリーズ「学校部活動は全廃し、教師たちを、女工哀史・ああ野麦峠的状況から解放する」編
2014
01.13

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★早朝からやっていたブレストに行きづまり、今、DAKA古書店跡で、バルトーク「弦楽四重奏曲全集(第1番~6番)」(ウィーン・アルバン・ベルク四重奏団/EMI)を、音響コーラルFLAT―6Sで聞いている。

 片隅の椅子に座り、こうしてバルトークを聴いていると、不思議とエネルギーが湧いてくる。
 書架を取り払ったDAKA古書店跡の白い壁にバルトークはよく似合う。

 旧年12月中旬、不意にバルトーク「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」が聴きたくなり、家のあちこちを探してみたが見つからなかった。
 そのとき出てきたのが「2台のピアノと打楽器のためのソナタSz110」だった。
 そして、新年8日に今度は「弦楽四重奏曲全集(第1番~6番)」がみつかった。
 探しものである「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」はまだ見つかっていない。
 どんな具合に僕の前に現れるのか楽しみであるが、今は、この「弦楽四重奏曲全集(第1番~6番)」があればいい。

★ところで、その行きづまった「ブレスト」のテーマは――
 ――日常の事実的現実の中にある「たのしさ」「苦しみ」「悲しみ」から透視される「原型」に迫るべきか? あるいは、僕自身は事実的現実に埋没し、透視するのは読み手に委ねるべきか?……

★いつもなら、このブレストテーマについて、つづきを書きつづけるのだが、今は、これでやめる。
 今年はヘトヘトになる前に「600字」くらいを限度に、いったん止めるようにしようかな?と考えている。

 書き尽くすと、もうそれっきりだ。
 しかし、「原型への迫り方」について、次はこういうことが書きたい、ああいうことも書きたい……というエネルギーが充満しているところで止めると、そのエネルギーにプラスする新しい、あるいは別種のエネルギーが生まれてくるように思う。

 「600字」という字数が適切なのかどうかはわからない。
 「800字」かもしれない。
 まだよくわからない。
 ま、「1000字」ではないことは確かだが……。(ちなみに、ここまでの字数=約800字)

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★上の画像=写真の整理をしているパートナーが見せてくれたレオンの勇姿。96/8/13撮影とある。レオンは95/5/9生まれだから、1歳と3ヵ月の頃だ。
 僕の仕事が忙しく――というより僕の仕事処理能力が小さく――かつ、体調不良で苦しんでいた頃だ。
 この顔は散歩が少ないので不満なのか?
 それとも僕の体調が心配なのか?

職員通信 2013/12/09号
★教師修業シリーズ「学校部活動は全廃し、教師たちを、女工哀史・ああ野麦峠的状況から解放する」編
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★昼休み、2学年の伊藤君が届けてくれた職場体験学習記念のスルメ(八戸イカ)。

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★僕は、教室の、日の当たる、この場所が「異常に?」好きだ。
 現在はFF式ストーブだが、昔は、ここに石炭ストーブとか石油ストーブがあった。
 生徒たちと語り合った場所だ。
 放課後、教育事務に励んだ場所だ。
 教職を退き、もし生きていたら、もしお金があったら、自宅にこれと同じ場所を創出し、一日中、ひなたぼっこをしていたい(^_^)v。

★僕は、学校の教育力と地域の教育力と家庭の教育力とが、バランスよく発揮される教育環境づくりを目指している。
 僕のライフワークだ。
 現在の教育危機(教育ピンチ)の元凶は、このバランスが崩れ、「学校の教育独占体制」、あるいは「学校の教育丸抱え体制」に陥っているところにある。
 これを修正し、教育のバランスをよくしないかぎり、どんな施策を打ち出しても、あまり、いや、ほとんど効果はあがらないだろう。
 逆にいうと、バランスさえよくなれば、日本の教育はまだまだだいじょうぶだ。

 教育基本法・新設第13条で「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」と「連携及び協力」を打ち出している。
 これは、もちろん、学校の教育力と地域の教育力と家庭の教育力とが、バランスよく発揮される教育環境づくりを目指している。

 しかしながら、同時に、相反する施策もあちこちで打ち出されている。
 「学校選択制」「中高一貫校」が、その例だ。
 日本全体が、あるいは大阪のような大都市が「学校選択制」にシフトすると、確実に、教育のバランスは崩れる。
 地域の子ども同士の結びつきが弱まる。
 親同士のつながり、地域と家庭のつながりも薄くなる。
 学校も同じだ。
 地域から切り離された学校の悲惨さは、学校を経営したことのない人にはわからないかもしれない。
 このような悪循環の結果、学校も、地域も、家庭も一気に教育力を弱めていく。

★これが僕の基本的な考え方だが、ただ、2点、検討してみたいことがある。

 1点は、いってみれば「もうひとつの地域」。
 通常、地域というと、小学校区(人口5000人)、中学校区(人口10000人)、あるいは、地区公民館区あたりを指す。
 しかし、これらとは別種の、やがて形成されるかもしれない「もうひとつの地域」の予感が、僕のうちにある。
 たとえば幼稚園。
 幼稚園は一般的には中学校区よりもはるかに広い地域を対象にバスで巡回し、園児を集めている。
 私立小・中・高が対象とする地域も同じように広い。
 幼稚園等は、僕がいう、現実の、目で見渡せる、足で歩き回れる「地域」をあてにしていないだろう。
 それとは別種の、いわば「仮想地域」のようなものを想定しているのではないか?
 その「仮想地域」とはどのようなものか?
 その「仮想地域」は有効なのか?

 もう1点は、もし、その「仮想地域」が有効なら、実は僕にも「学校選択制」に挑戦したいという気持ちがある。
 まず、学校部活動は全廃し、教師たちを、女工哀史・ああ野麦峠的状況から解放する。
 そして、日々の授業を充実する。
 「これが日本のプロ教師の授業や!」という授業を毎日やり、いつもいつもくりかえすことだが(*^_^*)、朝起きた中学生たちが「社会の授業が楽しみだぁ~!」あるいは「国語の授業が楽しみだぁ~!」と、比喩ではなく、家を飛び出してくる学校にする。
 知的で楽しい授業で、基礎・基本(狭義の学力規定の範囲)については、全員に100点を取らせる。
 めざすのではなく、実際にそうする。
 これは経験的に、それほどむずかしいことではない。
 もし、授業で「落ちこぼし」てしまったときのために、徹底した補習体制を敷いて完全にカバーする。
 本校生徒に塾や家庭教師は不要という体制を確立する。
 100点が取れた上で、さらに塾にも行きたいというのは、それはその子やその家庭の自由だ。
 経験的にいうと、地域によっては「100点取れるようにしてくれなくてもいいから、部活動のある学校に行きたい」という生徒や家庭が多い場合もある。
 ま、いろいろな考えがあるから仕方がない。
 去る者は追わない。

 なお、学校では部活動はいっさいやらないが、社会教育を含む学校外教育とのコーディネート機能、ガイダンス機能は充実させる。


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