京男雑記帳

洛中で生まれ育った京男が地元視点で見た日常風景や話を雑記的に掲載

疎水の秋景色

2014年11月09日 06時22分12秒 | 風景・和菓子
京都市内も少しずつ秋の色になってきた。
紅葉がきれいになるには、あと2週間ぐらいかかると思います。



喪中ハガキを出した影響が結構あり、実家に親戚・親族が来られるので、応対に追われています。
父親では、状況説明がうまく出来ないのです。
母の発病から現在に到るまで、一人で取り仕切った私が説明しないと誤解が生じたりしますからね。家族葬で本当に内々で済ませましたということもあります。
まだ喉が扁桃腺が本調子でないのに、しゃりっぱなしの毎日なんです。



親戚・親族の方々からすると京男は、別人になっているように見えるらしい。
大人しい無口なかわいい男の子だったからです。
いまも、そうなんだけどなぁ・・・。
相手がプロ(医者、僧侶、神仏、霊、営業マン、証券マン)の皆様の場合、怖くなるけど、その他の素人さんには、優しいんだけどなぁ・・・。


↑得長寿院跡
以下、他の資料からの書き写しです。
得長寿院は、平安時代末期の天承2年(1132年)、白河の地に鳥羽上皇の御願により創建されました。平忠盛が御堂を寄進。三十三間の御堂を建て、一千一体の仏像を並べたと言います。
三十三間の御堂と言えば、平清盛が後白河法皇のために寄進した蓮華王院の三十三間堂が現存、国宝に指定されていますが、その原型になったと言われています。
院政期に院近臣として躍進した平家は、平正盛の白河法皇御願寺蓮華蔵院への九体阿弥陀堂の寄進、平忠盛の鳥羽上皇御願寺得長寿院への三十三間堂の寄進、平清盛の後白河法皇御願寺蓮華王院への三十三間堂の寄進など、そのときどきの院への寄進によって力を延ばしたとされます。
寿永4年(1185年)、3月24日、平家は壇ノ浦で滅亡。その年の文治元年(1185年)7月9日に起こった大地震により、得長寿院三十三間堂は十七間まで倒壊。その後、得長寿院は再建されることなく廃絶しました。
こんな場所に三十三間堂みたいな建物があったんだ。



本日の場所は、実家から近くの平安神宮の近くの疎水近辺の写真です。
実家に行く前に食事をしたり、銀行で資料をもらったりするために歩いておりました。



小学校の時、この近辺で泳いでいたんですよ。
当時は、結構そういう子供がいました。
年に二、三人は亡くなっていました。
夏休み前の終業式で「疎水では絶対に泳いではいけません」と校長が言っていた。


↑鶴屋吉信「高尾」


↑粒あん、焼皮

和菓子
中村 肇
河出書房新社

↑これから暫くの間、京男の和菓子本のお知らせをさせてもらいます。説明は1月27日の記事をご覧ください。(色のかわっている部分をクリックすると表示されます)

Twitter→@kyo_otoko
コメント (6)
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