↑「土蜘蛛」灯籠
ここは、北野天満宮の隣にある観音寺(通称東向観音寺)。
いまの時期は、観光客は北野天満宮の梅苑に行ってこのお寺を訪れる人はすくない。
このお寺の社寺によると、延暦25年(806)に桓武天皇の勅を奉じて藤原小黒麿らが皇城(平安京)鎮護のために建立した朝日寺が前身とされている。その後、天暦元年(947)に朝日寺の僧、最鎮らが北野天満宮を建立した後、応和元年(961)、太宰府(現福岡県)の観世音寺――天智天皇が母・斉明天皇の冥福を祈って創建した(746 年完成)お寺――から菅原道真公作の十一面観世音菩薩を請来し安置。
鎌倉末期の応長元年(1311)、無人如導宗師が中興し律宗となって、観世音寺に倣って観音寺と改称している。宗師は花園・後醍醐・光厳・光明の四天皇や足利尊氏から帰依をうけ、観音寺は北野天満宮の神宮寺となった。
本尊の十一面観音像を安置する本堂が東向きであるところから東向観音寺といわれる。当初東向・西向の両観音堂あったが、応仁の乱(1467)や火災等で焼失し、慶長12年(1607)になって豊臣氏が北野天満宮を復興した際、西向観音堂は再興されず東向観音堂のみ再建された。その時に再建された本堂が現在の本堂。
さて本日のタイトルの土蜘蛛です。
土蜘蛛は、実在のクモの名前ではない。
1.天皇に恭順しなかった古代の土豪の名前。
2.日本に伝わる巨大なクモの妖怪で、別名「八握脛(やつかはぎ)」「大蜘蛛(おおぐも)」
3.能の演目。五番目物の鬼退治物。
2月17日「綱さんの燈籠」と関係あるのが土蜘蛛。
14世紀頃に書かれた『土蜘蛛草紙』では、京の都で大蜘蛛の怪物として登場する。酒呑童子討伐で知られる平安時代中期の武将・源頼光が家来の渡辺綱を連れて京都の洛外北山の蓮台野に赴くと、空を飛ぶ髑髏に遭遇した。不審に思った頼光たちがそれを追うと、古びた屋敷に辿り着き、様々な異形の妖怪たちが現れて頼光らを苦しめた、夜明け頃には美女が現れて目くらましを仕掛けてきたが、頼光はそれに負けずに刀で斬りかかると、女の姿は消え、白い血痕が残っていた。それを辿って行くと、やがて山奥の洞窟に至り、そこには巨大なクモがおり、このクモがすべての怪異の正体だった。激しい戦いの末に頼光がクモの首を刎ねると、その腹からは1990個もの死人の首が出てきた。さらに脇腹からは無数の子グモが飛び出したので、そこを探ると、さらに約20個の小さな髑髏があったという。
※京男なら美女がでてきたらだまされてしまうかも・・・。
土蜘蛛の話は諸説あり、『平家物語』には以下のようにある(ここでは「山蜘蛛」と表記されている)。頼光が瘧(マラリア)を患って床についていたところ、身長7尺(約2.1メートル)の怪僧が現れ、縄を放って頼光を絡めとろうとした。頼光が病床にもかかわらず名刀・膝丸で斬りつけると、僧は逃げ去った。翌日、頼光が四天王を率いて僧の血痕を追うと、北野神社裏手の塚に辿り着き、そこには全長4尺(約1.2メートル)の巨大グモがいた。頼光たちはこれを捕え、鉄串に刺して川原に晒した。頼光の病気はその後すぐに回復し、土蜘蛛を討った膝丸は以来「蜘蛛切り」と呼ばれた。この土蜘蛛の正体は、前述の神武天皇が討った土豪の土蜘蛛の怨霊だったという。この説話は能の五番目物の『土蜘蛛』でも知られる。
一説では、頼光の父・源満仲は前述の土豪の鬼・土蜘蛛たちの一族と結託して藤原氏に反逆を企んだが、安和の変の際に一族を裏切って保身を図ったため、彼の息子である頼光と四天王が鬼、土蜘蛛といった妖怪たちから呪われるようになったともいう。
なんか凄い話しですね。
映画化したら面白いだろうな。
「土蜘蛛」灯籠由来
この蜘蛛灯籠は、もと七本松通一条にあって、源頼光を悩ませた土蜘蛛(つちぐも)が棲んでいたところといわれた。明治年間に、この塚を発掘したところ、石仏や墓標の破片したものが出土し何等参考となるものはなかった。
そのときの遺物が、ここにある「火袋」で、当時、ある人が貰いうけ庭に飾っていたところ家運が傾むき“土蜘蛛の祟り”といわれたので、東向観音寺に奉納したという。
なお「土蜘蛛」とは我が国の先住穴居民族で背が低い、まるで土蜘蛛のようだったといわれる。(謡曲史跡保存会高札より)
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本当の土蜘蛛の姿は、日本の先住民族なんだろうな。
縄文人の生き残りとか。
ひっそり山奥に住んでいた人々。
それを渡来系の中央政府の人たちが、自分たちと生活や文化が違うということで滅ぼしたのだろうな。
平和な人たちだったのかもしれない。
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