何気なく机の上を見ていて「綺麗」と思うときがある。
それは、色や形だったりする。
手に持った触感であったり、香りであったりする。
五官を通じて、脳内で五感が生じ、六感が発動する。
オーバーにいえばそういう感じなのかな?
六感には、続きがあるように思う。
六感が発動し、全身の細胞一つ一つに拡がって行く感じなのです。
直観力は、全身で生じるのかも。
そんな風に思うのです。
だから五官の刺激は大切。
18歳ぐらいの時に考えていたのは、説明するとこういうことなのかもしれない。
ただし、完全に理解した訳ではない。
まだまだ途上なんです。
だから、身の回りのモノには、注意をはらってきた。
なんていうとすごくエエカッコにきこえますね。
物欲と物臭なだけかもしれないものね。
モノで自分を追い込んで、物臭(懶、ものぐさ)を退治し、作業をさせていたのかもしれない。
それにしては、ちょっとやり過ぎの感があるけど・・・。
古代インド(紀元前800~200年)の考え方に「ウパニシャッド」がある。
「おまえはどこから来たのか?今何をしているのか?これからどこへ行こうとしているのか?について考えよ」という。もう一つの教えは、好きなことをすべてしてしまえという。夢中になれることをやってしまえという。やっている内に心が空っぽになってくる。そうなってくるとそれらの考えやモノから自由になれるというのだ。
そうなって初めて自由な暮らしができる。
明治時代の人間は、そういうところがあったように思う。時として回りに多大な迷惑をかけていたでしょうけど。でもなにかをやり遂げるエネルギーは確実にあった。
わかったようなこを書いているけど、まだまだ途上。
モノにもまだまだ拘ってる。
もう少しで抜け出せるかな・・・。
生まれた時、みんな純真無垢でパワフルですよね。
問題は、死ぬ時の心の状態が大事。生まれた時の純真無垢で成長し、死んでもあまり意味がないように思う。そういう役割の人もいるでしょうけど。
色んな経験をして、ボロボロになり、心も身体も穢れていても、生まれた時と違う精妙な状態になることが尊いことなんだと思う。
自分の好きなこと、夢中になれることの中に「その道筋」が隠れているように思うのですよ。
その「道筋」は、人によって違う。親子だからと言って同じとは限らない。
他人だからと言って違うとも限らない。
お互いご縁で出会った人の「道筋」を尊重することで、自分の「道筋」がしっかり把握できるようになっているのかもしれない。
だから嫌な人と出会ったと嘆くのは総計です。嫌な役割を演じてくれて、あなたに「道筋」を教えてくれているかもしれないのです。そう考えると「ありがとう!」と思えるかも。「有り難う」つまり「難(なん)」「有(あり)」って書くじゃないですか。そう思うと気が楽になります。
いま、気づいた。
表題から大きく逸れましたね。
「文具」と「ステーショナリー」ってどう違うのか?
違いは「高価」ということもしれませんね。
「文具」と「高価な文具」の違い。
京男は、ステーショナリーの気みたいなものが好きなのかも。
いいものを使うということは、自分がそれに相応しい人にならないといけないのです。そしてモノを大切にすることは、自分を大切にするということに繋がる。
たとえモノであっても「私」と繋がっているのです。
私はどこからも来ていないし、何処へも行かない。
「いまとここ」にあるだけ。
私は宇宙の分身なのです。
まわりすべてが宇宙の分身。
ほんとうにそう観じたら「私」が融けていく。
「ブール・クラリフェ」ってご存知ですか。
フランス料理の用語で、バターを低温で溶かしていくときにできる上部の上澄み部分。不純物を含まない良質の乳脂肪のことをいいます。これを使うことにより焦げ付かず、綺麗なソテーができあがる。しかも香りも上々。
私が融けて、上澄みだけの状態になったイメージね。
なんて観じながら、朝御飯はなにを食べようと考える京男であった。(笑)
※写真の説明をしていませんね。見たらわかりますよね。
↑これから暫くの間、京男の和菓子本のお知らせをさせてもらいます。説明は
1月27日の記事をご覧ください。(色のかわっている部分をクリックすると表示されます)
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