「花薬欄(かやくらん)」というのは、はじめて聞いた言葉という人がほとんどだろうな。
斯(か)く言う京男も知りませんでした。
この言葉は、天龍寺に行った時いただいた禅語のしおりに書いてありました。
フト読んで妙に気に入りました。
みなさんにおすそ分けの意味で書き写します。
「煩悩妄想がすっかりなくなった美しい清浄な悟りの本体とはどんなものでしょうか」。
雲門禅師が答えて曰く、「花薬欄(かやくらん)」。
花薬欄とは何の事でしょうか。・・・中略・・・どんな花でもいい、何も、牡丹や芍薬でなくとも、
小さい名もない雑草の花でもいい、色々な花が咲き乱れる花畑と解す方がより禅的です。
「清浄仏」、そこに美しい花がいっぱい咲いているではないか。
じっくり見なさい、花それぞれが、その色を誇る事もなく、花を競う事もなく、ありのままの姿を呈して、
仏の真面目を発揮しているではないか、それ以外に何の清浄法身があろうかというわけです。
《原典・碧巌録/引用・細川景一著『枯木再び花を生ず』(禅文化研究所)より》
※『碧巌録(へきがんろく)』は、中国の仏教書。臨済宗において尊重される公案集。
公案とは、禅宗において、修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題のこと。
人は、自分がなんの花なのか知らないで生きている場合がほとんど。
だからとりあえず、目立つ花である桜を目標にしています。
4月の一番いい時に、いっせいに咲こうとする。
でももし、あなたがヒマワリだったらどうでしょう?
ヒマワリなのに桜と同じように咲こうとする。
絶対咲かないとはいわんけど、かなり無理をしないと咲かないだろうな。
また、他の人と競争して自分が一番というのをめざす。
勝ったら勝ったでもっともっとと目標を定めてまい進する。
結果的に宇宙のリズムから外れてしまい、最後は不具合が起こる。
いまの世界に起こっている不具合的現象は、自分の何の花か知らないことが原因かも。
↑長久堂「花笠をどり」
人類全体が道端で咲いている名も知らない小さい花を
見習わないといけないかもしれへんね。
雑草の花は、環境の変化に強いように思う。
踏まれても抜かれてもまた生えてきて小さな花を咲かす。
宇宙のリズムに逆らっていないから、本来の生命(いのち)が顕れているからだろうな。
↑こなし、備中白あん
さて、自分は何の花やろ?
桜の花?木瓜の花?優曇華の花?
※優曇華(うどんげ)の花とは、架空の植物といわれています。三千年に一度花を開き、そのときに如来が現れるとされる。
「優曇華の花待ち得たる心地して深山桜に目こそ移らねと聞え給へば」源氏物語
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