↑三条大橋
千年〜五百年ぐらい前の鴨川は、新京極商店街のあたりが河原だったそうです。
昔、鴨川ってよく氾濫しららしい。
白河法皇は、自らの意のままにならない「天下三不如意」に挙げたそうだ。誰もがかしずく権力者にも、武装した僧兵やサイコロは言うことをならないと嘆いたらしい。
それほど、鴨川は氾濫していた。
散髪屋の話しによると五条大橋近辺でも、よく水が浸かったらしい。確かに大雨になると鴨川の表情が変わります。
だから、流れの場所が変化しても不思議でない。
↑そろそろ立て替え工事の時期です
↑いまの防腐加工した木材ならこんなにならないだろうな
この三条大橋は、1950年に完成しらそうです。
なんや結構新しいのね。
でもそろそろ掛け替えだけど、大変だろうな。赤字財政の京都市。
工事する時は、御池の橋が三条大橋のかわりになるのだろうか?
橋のたもとに、『東海道中膝栗毛』の主役である弥次郎兵衛と喜多八の像が、1994年(平成6年)に三条小橋商店街振興組合により設置されたそうです。
予算がなかったのかな?像が小さい。
↑西岸から東北を見る。比叡山が見えている。
↑東岸から西側を見る。向かって左が「ミンミン」三条店。右のお寺が瑞泉寺。
↑塀の向こうは墓地
↑塀の所に窓が開いていて、墓地が覗けます。
↑このあたりで豊臣秀次の家族が処刑されたのです。
この瑞泉寺にいまも塚があるのです。
1595年(文禄4)豊臣秀次(ひでつぐ)の自害後、秀吉が秀次の妻子や侍女をこの河原で処刑したことは有名。
原因は、諸説あります。一つは秀吉公の愛妾淀の君に秀頼が生まれ、
秀次公は実子を盲愛する秀吉公からうとまれた。石田三成らの奸計によるものとする説。秀吉のすすめる朝鮮征伐に秀次公が異を唱えたからとする説等々。
秀次が生きいたら、歴史は大きく変わったかも。
処刑後の以外を穴に、大きな塚が出来た。その塚の後に禅林寺派瑞泉寺ができたそうです。
その他、石川五右衛門もこのあたりで釜ゆでになったのかも。首を晒すのもこの当たりです。
この当たりでデート楽しんでいるカップルがたくさんおられる。霊が見えなくてよかったですね。
三条大橋西北にあるお店。
こういう雰囲気の建物がこのあたりにはよく似合います。
| 和菓子 |
クリエーター情報なし |
河出書房新社 |
↑京男の和菓子本が新装版になりました。
初版を出版した2013年1月26日時の記事と
新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
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