駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

二ノ宮知子『のだめカンタービレ』

2020年09月21日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名な行
 講談社コミックスキス全25巻。

 有名ピアニストの息子でエリート音大生の千秋真一。ヨーロッパで指揮の勉強をしたいと思いつつも、飛行機恐怖症のために渡欧できないでいた。そんな彼の前に現れた不思議少女・野田惠。ゴミ溜め部屋に住む彼女はとんでもない変人だった…歌うように奇行に走る天才(?)のだめの、クラシック音楽コメディ。

 今、関東ローカルですがテレビドラマ版の再放送をしていますね。放送当時も見ていましたが、再放送も楽しく懐かしく見ています。当時もオイオイで今見るとさらにアレレレな部分もありますが、まあ成功した実写化例のひとつでしたよね。
 原作漫画は長く愛蔵していて、コロナ禍前にも一気再読してやっぱり名作!と感動していたのですが、そのときも感想をまとめていなかったことに気づいてはいました…ので、先日また一気に再読してみました。ちなみにこの作家自体は、連載開始当初は『トレンドの女王ミホ』の人、というイメージが強かったと思うんですけれど、私は確か友達から天カンこと『天才ファミリー・カンパニー』のコミックスを借りて読んでおもしろかった記憶があって、その新作か、と手を出した記憶があります。もちろん音楽ものが大好き、というのもありましたが…スポーツと違って音楽は男女差がない(とされている)ので、同じ楽器をやっていれば恋人同士でもコンクールなんかでライバルになっちゃうこともあるし、芸術を極める困難さみたいな問題もあるし、いろいろとドラマチックさを感じて私は大好物のジャンルなのでした。
 この作品も、のだめはピアノで千秋先輩は指揮ですが、千秋はピアノもヴァイオリンも弾けるので、そのあたりがいろいろねじれておもしろいことになっていますよね。というか通して読むと、序盤の国内編はほとんど千秋が主役なんだなー、と思いました。というかのだめはまだ特に何もしていないというか…(笑)最後のほうでやーっとエンジンがかかって、やっとふたりしてヨーロッパに渡り、スタートラインに立つ!みたいな感じなんですね。で、あとは基本的に、「そーゆーのもうやめなさいヨ/みっともない」「そ……それとこれとは話が……」「だからーそのへんをはっきり分けろと言ってるの」が「よかったねふたりとも/ちゃんと分けて/ひとつになった」となるまでのお話、なんですよね。「これってフォーリンラブ♡ですか!?」「ちがう!/断じてちがう!」だった千秋が、両腕を広げてのだめを迎え入れるまでの物語。のだめが千秋に飛びつくのは最初からずっと変わっていないので(笑)。でもそののだめも「それは千秋先輩とだけじゃなくて/世界中そんなのがいっぱいあるはずだってわかったから/海の向こう岸があると思うとやっぱり人は漕ぎ出しちゃうんですヨ!」となって、ちゃんと変わっている。そうして音楽の道も人生も続いていく、けれど物語はとりあえずエンゲージ・リングでおしまい、というところが、私はもう最高に好きです。私はこの作品をラブストーリーとしてとても愛しているのでした。とてもよくできているとも思っています。キューピッドとなるミルヒーのノスフェラトゥ…じゃないメフィストフェレスっぷりは、当初どこまで想定されていたのかなあ。ホントよくできている構成だと思います。Ruiとかの在り方もね。そもそもサブキャラがどれもイイ、というのもあるんだけれど、誰も物語のためだけのご都合主義なキャラクターになっちゃていないところもいい。峰くんやルカの成長とか、帰国してしまうユンロンですら。だから、本当は作品内ですべてのキャラクターがカップルになるとか不自然だし個人的にはむしろ反対なんだけれど、Ruiとフランクの間にこの先何か芽生えるものがあるのだとすればそれはすごく嬉しいし、黒木くんとターニャとかもちょっとおもしろすぎたきらいはあるけどすごくよかったと思いました。てかこういうことってホントあると思いますしね。そしていろいろある中で千秋父子の確執がわりと自然にほぐれる展開なのもいい。もうお互いいい大人なんだから、今さら派手な衝突と和解!なんてないはずなんですよね。でもそうしちゃう物語ってすごく多い。でもこの作品はそうしなかった、そこがいい。そういう、いろいろな愛の物語として、私はこの作品をものすごく愛しているのでした。
 絵は国内編あたりは簡素すぎて少女漫画としてはかなりつらい。でも音楽シーンはいつでもどれも本当にいいですよね。描くのは大変でしょうけれどね、でも作家が本当にクラシックが好きで、よく研究していて、どう表現したいかが見えている描写になっていますよね。あ、私は音楽は素人なんで、こんなんじゃないよと言うプロ音楽家さんにはごめんなさい。「アンコール オペラ編」は舞台ファンとしても読んでいて楽しかったです。各界の扉絵が有名オペラ作品モチーフだったのもツボでした。「気のせいかもしれないような」「夢のよう」な…舞台も、音楽も、そりゃCDとか映像とかには残せても、本物の生の音は、その場の空気は、消えてしまう。だからこそ! 形ある物が必要なんですよ!! 指輪、大事!!!(笑)
 というわけで以下ちょっと下卑た話をしますけど、千秋がRuiとラヴェルのピアノ協奏曲で共演した夜の朝チュンが、千秋とのだめの初夜なんですかね!? これが朝チュンなのは、つまりやることやってるってのは断定なんですけれど、のだめはその後の言動からしてもわかるんだけど千秋がちょっとアッサリしすぎている気もします。でもそれまで、確かにずっと押しかけ同棲みたいなものだったし、例えばサン・マロでのリサイタルなんかでも同衾してるんだけど、あの夜はしてないし(「生き地獄」ってちゃんと思う千秋が好き)、シュトレーゼマンの見舞いにウィーンに行ったとき(会えなかったけど)も一泊していてるんだけど、ジャンゆうこと一緒だったしホテルのダブルに泊まったのでは?と思うけれども描写なし。オクレール先生の課題をこなすために千秋が元のアバルトマンに戻ってきたときも、のだめは千秋のベッドで寝ているし千秋も寝るときはそのベッドを使っているんだけれど、そして枕はふたつ並んでいてふたりとも寝る側がそれぞれちゃんと決まっているんだけれど、交互に睡眠を取っているだけのように見えるし、こたつでイチャイチャしている描写もあるんだけれどそれだけと言えばそれだけです。なのでやはりこの夜がそうだったのかなー、だからこそののだめのプロポーズなのかなー。なんかせつないですよね、そして千秋もよく耐えてごまかしたよね…というか、のだめはともかく千秋は彩子もいたし童貞じゃないんじゃないかと思うんですけれど、よく耐えてきたよね…いやフツーですけどね? お互い同意していいタイミングで盛り上がらないならしない、待つ、浮気しない、自分でどうにかするなんてのは男女ともに当然のことなんですけれど、どうも男はそれはムリなんだよーとか言って甘えてつけあがりがちだし女もそれを許しちゃいがちじゃないですか。でも千秋は、もちろん音楽に邁進してるってのもあるけれど、のだめのネグリジェ姿に仰天したり三つ指ついて正座されて赤面したり抱きつかれてDカップにときめいたり「ごはんにしますか?お風呂にしますか?/それとものだめ?」ってウィンクされて「えっ/あ……/じゃあ」ってなったりしながらも(この「じゃあ」は描き文字なのがまたイイ)ちゃんと踏み留まってきて、むりやり力尽くで何かしたりとかはなかったんですよね。強いて言えば初チューがそのパターンで、でもそれはちゃんと拒否られてるしショック受けて反省しているので(笑)、ちゃんと学習し成長したのでしょう。はー、理想の王子様だわ…イヤ重ねて言うけどフツーのことなんだけどさ。
 千秋がちゃんとのだめを好きなことが愛しいです。催眠だろうとなんだろうとネックレス買ってあげるしね(笑)。「かわいい系」だよ!? 千秋にはのだめがちゃんと可愛く見えているんですよ、はー愛だわー! そのネックレスとお揃いの指輪が「約束」として捧げられて、ラストに回収される。美しい!! 現代の婚姻制度には、特に日本のものはいろいろと問題が多いけれど、一対一で永続的な関係を目指せるのってやはり理想的で素敵なことだと思うし、その場合にはある種有効な契約だと思うし、なのでロマンチックラブ・ハイフィデリティ・結婚ハッピーエンドの物語を私は圧倒的に支持しちゃうのでした。あと呼称フェチなので、ちゃんと意味のあるのだめの「真一くん」と千秋の「のだめさん」がとてもとても好きです。演出としてニクい。
 本編の最終回ひとつ手前の回(すべての長期連載において、この回の大事さって世にもっと強く認識されるべきだと思う)も、最終回も、アンコール編の最終回もどれもとても素晴らしい。そして描き下ろしの番外編がまた素晴らしくて、タイトルロールはターニャになってるんだけど、実は初登場の黒木くんの従妹が主役で、つまりこれは私たちでもあるんですよね。そしてこの物語は、「みんなの演奏を聴きに/世界中へ行ってみたい」で本当の大団円完結なんです。私たちはのだめたちみたいな音楽の天才じゃないかもしれないけれど、音楽を愛し楽しむことはできて、どこへでも行ける、なんでもできる…そんなメッセージを感じるのでした。
 コロナ禍で海外旅行どころではないご時世ではありますが、いつかまた必ず、人々が自由に行き来できる日が来ることを、祈っています。
 最後に、ドラマ再放送にあたって、作家がこの作品でのセクハラやパワハラ描写、ゲイフォビア描写なんかを主に差して謝罪めいたことをつぶやいてプチ炎上した件について。作家がきわめて健全に人権感覚をアップデートさせているというだけのことで、なんの問題もありません。騒ぐ方がおかしい。新作も読んでいるファンならちゃんとわかります。手塚治虫作品や、例えば『はいからさんが通る』なんかに加えられたとてもよくできた注釈と同様のものなどが加えられて、今後も読み継がれていけばいいと思います。今初めて読んで、傷つき驚く人を減らしたいですからね。かつて読んで密かに傷ついていた人も、それで癒やされるといいなと思います。そしてかつて読んで何も問題を感じず、今も問題を感じていなくて作家のこのツイートに噛みつくような輩は滅するがよいと私は思います。
 はー、オケにも久々に行きたいなー…







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『フラッシュダンス』

2020年09月19日 | 観劇記/タイトルは行
 日本青年館、2020年9月18日18時半。

 1983年、ペンシルバニア州ピッツバーグ。昼は製鉄所、夜はバーのフロアダンサーとして働くアレックス(愛希れいか)は、プロのダンサーになることを夢見ていた。そんなアレックスに製鉄所の御曹司ニック(廣瀬友祐)は一目惚れをする。一方、親友のグロリア(桜井玲香)からダンスの名門学校シプリー・アカデミーのオーディションを受けることを勧められるアレックス。ダンスの恩師であるハンナ(春風ひとみ)からも背中を押されるが…
 原作/トム・ヘドリー&ジョー・エスターハス作パラマウント・ピクチャーズ映画『フラッシュダンス』、日本語版脚本・訳詞・演出/岸谷五朗、音楽監督/大崎聖二、訳詞/長島祥。1983年に公開された映画の脚本・原案であるトム・ヘドリーを舞台版脚本に迎えてミュージカル化。全2幕。

 会場販売がなかったので、わざわざ通販してまでは…とプログラムを未入手なので、ざっと検索したり公式サイトを読んだだけなのですが、これは日本初演のオリジナルミュージカルで、海外初演のものの輸入版ではない…のかしらん? …と思っていたら、イギリス初演の輸入版だとご教示いただきました。わりと作りが、いかにも海外のミュージカルの、そっけないくらいに芝居パートがなくてダンスと歌でがさがさ進むタイプのものに見えたので、もっと丁寧に手を入れればいいのに…とか思っていたんですよね。もともと、むしろ狙って、こう作られたのでしょう。
 コンセブトとしては、悪くなかったと思います。なるべくシンプルにつなぎたかったのかな、と。でも、私の席が端だったからか、音響のせいか訳詞のせいか歌唱のせいか、歌詞が聴き取りづらいことが多くて、何を訴えている場面なのか今ひとつ伝わってこない気がしたので、台詞や演技でもっと補完してくれると楽だった気がするんだけどな…と思ってしまったのです。でも私は「考えるな、感じろ」が大の苦手で、たいていの作品に「台詞が足りない」とダメ出しするタイプの人間なので、まあ感じ方、考え方が合わないタイプの作品だったということでしょう…ちなみに役者はみんなとても達者だったと思いました。主人公やメインのストーリーと直接関係がないような大ナンバーも楽しいと思いました。だからこそ、もうちょっと歌詞が聞こえれば、知らない曲でももっとノレるし感動したと思うんだよなあ…
 ちなみに映画は未見。かの有名な主題歌…というか「What A Feeling」しか知りませんでした。働いている女の子がダンサーを目指す話、だとは認識していた気がします。そういう意味では、老婦人の存在といい、昨夜観た『ビリー・エリオット』と似ているな?とも思ったし、でもあれも決して台詞が丁寧な作品ではなかったけれど、もっとビンビンいろいろ伝わってきたんだよなあやはり歌詞の差かなあ…とかついつい考えながら観てしまいました。そんなに複雑なストーリーではないので、なおさらダンスと歌で押す構成は正解だと思うんですよね。そして何度も言いますがキャストもよかっただけに、ちょっともったいなく感じました。あと、美術(土屋茂昭)もよかったです。
 オペラでもバレエでもミュージカルでも主人公がヒロインのことは多くて、なので王子さま役というか相手役男性の求愛ソング、孔雀ソングが私は大好物なんですけれど、ザッツ王子さまスタイルの廣瀬くんも、グロリアの恋人ジミー(福田悠太)のラブソングもとてもよかったです。てかグロリアっていい役だなあ! 乃木坂の人なんですね、めっちゃよかった! 声とか、顔も遠目には私にはちょっとゆきちゃんにも見えて、こういうお役のOGも観たいよ、とか思いました。アンサンブルにはあちもいましたね、元気にバリバリ踊っていて嬉しいよ! 春風ひとみもさすがなんだけど、意外やソンちゃんがとてもよかったです。
 そしてもちろんちゃぴは圧巻でした。まさしく座長! なんせ顔が小さくて頭身バランスが異常にも見えるのは、もしかしたら鬘とかで補正した方がいいくらいなのかもしれません。でも冒頭、出てきて、ヘッドホンつけて、音楽に耳を傾けているらしき風情だけでもう、舞台が始まりました。素晴らしかったです。もちろんダンスも、歌もいい。
 ニックの口利きがどの程度オーディションに効いたのかはわからない。私だったら、今の作品だったら、オーディションのチャンスは生かして、ニックなんざフればいい、と思いました。そしてひとりではばたいていけアレックス!と思いました。よかれと思ってのことだろうけれど、ニックがしたことはあまりにも余計なことだし、要するにアレックスの才能を信じていないってことで、芸術に理解がないってことです。階級差もあるし、愛があっても多分この先上手くいかないよ、と冷静に考えれば判断できる。でもちょっと昔の作品だし、まあハッピーエンドでもいいかな、と許してあげよう。シンデレラストーリーってほどでもないしね。てかここまでの状況になって、リストラ以外に経営者ができることって何があるんですかね…
 赤い水着みたいな下着みたいなレオタードの場面が有名なんでしょうか? なんか今ひとつハイレグの位置が良くなかった気もしなくもなかったですが、こちらも圧巻でした。堪能しました。
 あと、昨夜の『ビリー~』はオケピの指揮台に明かりがついているのを見たときに「生オケなんだ!」と胸がきゅっとなりましたが、今回も舞台袖にバンドがいる形だったようで、開演前のチューニングの音にきゅっとなりました。宝塚歌劇も早くオケが戻ってきますように…!
 とにかくちゃぴの座長っぷりは素晴らしかったです。シシィよりクリスティーヌより、こういうタイプの作品をやってもらいたいと思っていたファンは多いことでしょう。演目として、公演としてヒットするといいな、と思います。次回作も楽しみです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ビリー・エリオット』

2020年09月18日 | 観劇記/タイトルは行
 赤坂ACTシアター、2020年9月17日17時半。

 1984年、英国政府は採算の取れない20の炭鉱を閉鎖し、2万人の合理化計画を発表。これに対して炭鉱労働者による大規模ストライキが全国で始まった。イングランド北部の炭鉱町イージントンで、少年ビリー・エリオット(この日は利田太一)は母を亡くし、炭鉱夫の父ジャッキー(この日は橋本さとし)、兄トニー(この日は中井智彦)おぱあちゃん(この日は根岸季衣)と暮らしていた。ビリーはいつもどおりボクシングのレッスンに行くが、居残り練習を命じられ、そのあと始まったバレエ・クラスのレッスンに訳もわからぬまま巻き込まれる…
 音楽/エルトン・ジョン、脚本・作詞/リー・ホール、演出/スティーヴン・ダルドリー、振付/ピーター・ダーリング、翻訳/常田景子、訳詞/高橋亜子。ダルドリー初の監督長編映画『リトル・ダンサー』(邦題)を2000年のカンヌ国際映画祭で観たエルトン・ジョンがミュージカル化を企画。2005年ロンドン初演、2017年日本初演。一部キャストが追加、変更されての再演版、全2幕。

 映画も昔見たことがあるはずなのですが、そして絶対に好きそうな気がするのですが、何故かまったく記憶がなく、なので初演もスルーした記憶があります。チエちゃんのウィルキンソン先生(この日は安蘭けい)、というのにあまり惹かれなかったのかもしれない…(ヒドい)。でもこうなるとチエちゃん回も観てみたくなりました! 映画ではどういうニュアンスだったんだろう? プログラムによれば、チエちゃんは妊娠さえなければ今も現役でバリバリやっていたようなダンサー、というイメージだそうで、トウコさんはハナから田舎の二流のダンス教師、といった役作りらしく、私は今回の先生のそのやさぐれ感がとてもいいなとツボったんだけれど、違う先生像もアリだろうななとも思ったのでした。それでもわかるビリーの才能、とかだからこそわかるビリーの才能、という描き方もあるでしょうしね。でもそもそもビリーの才能が本物かどうかもこの作品では実はわからない、というのが実にいいなと思ったんですよね。才能とか本物かとか、そういう問題ではないんだよね。好きか、やりたいか、情熱を傾けられるか、というのが大事なのであってさ。そこがビンビン伝わる舞台でした。だから別にアダム・クーパーじゃなくてもいいということなのでしょう(笑)。
 そう、私は子供も子役も苦手で、大人ビリーが主役で子役はその子供時代をやるだけなのかなとかも思っていたくらいだったので、だったらオールダー・ビリー(この日は永野亮比古)も大貫さん回を取ればよかったのにどうした自分?とか思っていたのでした。しかし子役が「ヤング・ビリー」ではなく大人ビリーが「オールダー・ビリー」とされていることにもしや…?と悪い予感がし、そして冒頭がやや冗長に感じられたので、ああコレきっと合わないヤツ…とややふんぞり返り気味に観ていたのですよ当初。でも、自分でも意外や意外、あっという間に引き込まれたのでした。
 意外にも、「おばあちゃんの歌」がいいなと思ったんですよね。通して考えると、もしかしたら物語の本筋にはあまり関係がないと思われてしまうかもしれない場面かもしれません。若干認知症気味の祖母が青春の思い出(そんないいものじゃないか)を歌うだけの場面だし、おそらくあえてそう作っているんだろうけれど別に上手く歌われてはいません。だから歌唱にうっとりするような場面ではなく、ものすごくミュージカルっぽい幻想のダンス場面になっているとかでもない。でもハートをつかまれました。こういう家族、こういう時代、こういう環境の中で生きるビリーという少年、が立ち上がって見えてきたからかもしれません。女の子は妊娠して結婚して家庭に取り込まれて老けていってしまう。でもじゃあ男の子なら全能かといえば、父も兄も労働運動で苦労していて希望も未来もないかもしれない。そこでビリーは? 彼の夢は? これからの人生は?という、重い、問い…
 そして子役は、単なる子役ではありませんでした。立派な役者で、パフォーマーでした。台詞はさすがに、特に間とかがちょっと拙いかな、とは思ったんですよね。あと、役者が役自身になればいいのだ、というのも私は演技ってそういうものではないだろうと思っているのですが、そういう方向性で作られているようにも見えなかった。でもやはりダンスで、アクションで伝わるハートがちゃんとあったんです。そこがビンビン来ました。
 でも、男の子がバレエなんて、なんて言われる。言われますよね、だって今でも言われるんですから。オカマなんだろうとかも。そういうんじゃないのに、そういうのとは別問題なのに、わかってもらえない。今はそれどころじゃない、というのもわかる。でもこっちのこともわかってよ、と思う。そして「怒りのダンス」…もうずっと泣いていました。マスクの中が涙と鼻水で大変なことになっていました。
 そして大人ビリーはラストに出るだけなのかと思っていたら、まさかこんなに素晴らしいパ・ド・ドゥがあるとは…! そしてストが厳しくなるのと入れ替わるように、父親が理解を示してくれるようになる。「あいつは星に、スターになれるんだ」みたいな歌詞にまた号泣。オーディションのビリーの「上手く言えない、言葉になんかできない、踊ると自分がなくなるような、あるいは本当の自分になるような、自由」みたいな歌詞にまたまた大号泣。上流っぽい息子(この日は高橋流晟)にキュン。「過ぎし日の王様」には『ロミジュリ』の「昨日までの俺たちは王だった」みたいなのを思わせられてまた号泣。そして早く読んでしまった手紙の、リプライズ…フィナーレのチュチュもいい。タップもいい。だからもったいなくて手拍子が打てませんでした。その分ガンガン拍手しましたよ! のぞコンではバンドもいましたが、生オケは久々だったのでそれにも感動したなあ。
 あとマイケル(この日は菊田歩夢)ね、たまりませんでしたね! トランスヴェスタイトではなくゲイなのかなあ? ビリーのことが好きだったのかなあ? でも頬へのキス、なのかなあ? そのお返しのキス、そして自転車でターンして去る、幕…もうもう大号泣でした。
 はー、話がわかってもまた観たい、と久々に思えた舞台でした。きっとビリー4人、全然違う色なんだろうなあ。しかし今の子供はホント脚が長いなあ…感心しました。ふたりが初演オーディションに落ちて再トライした組だってのも泣かせました。
 それと、私は芝居で方言が変に使われるのはあまり好きではないのですが、今回の全編博多弁?みたいなのはとてもよかったと思いました。九州に炭鉱があったことも思わせるし、おそらく原作映画もなまった英語で演じられているのかな?
 田舎の二流のバレエ教室だから、ということでガールズが太った子もいて変に美人揃いじゃないところもいい。でもフィナーレとかではちゃんとバリバリに踊れるんだよね、子役といえどプロだなあ! あと、デビー(この日は森田瑞姫)の扱いの程度がいい。母親が元バレエダンサー、現バレエ教師の娘なんて、そして母親が現役を引退したのは自分を妊娠したからだったかもしれないなんて、一ドラマありそうなものなのに掘り下げすぎない。単なるこれくらいの歳の、男子に対する女子みたいな居方なのがいい。ビリーが好きで嫌いで素直になれなくてかまって無視して、ジタバタしてるのがいい。
 アベシンゾーに対してもマキー・サッチャーくらいにやってやりゃよかったんだよね、とかも思いました。炭鉱夫が「俺たちは芸術を支持する!」と嘯いてでも言える世の中に、今の日本はまだ至れていないことに軽く絶望しかけました。
 はー、よかった。いい作品でした。大阪公演まで、無事に完走できますように。再演が繰り返される演目に育ちますように。客席にはお子さんも多かったです、いい刺激になりますように。未来に幸多からんことを、祈ります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二階堂奥歯『八本脚の蝶』(河出文庫)

2020年09月15日 | 乱読記/書名は行
 才知と魅力あふれる25歳の編集者が、自らこの世を去るまでの約2年間の日記。

 帯に解説の穂村弘の言葉が使われていて、私はわりと彼のファンなので、それで買ってみた、というようなところがあります。でものっけから惹き込まれ、1日で一気に読んでしまいました。
 著者は1977年生まれなので私の八つ下。早稲田を出て国書刊行会、のちに毎日新聞社の書籍編集者として働き、26歳になる直前で自らこの世を去った女性のようです。書評を書くためにつけたこのペンネームで日記をネットで更新していたらしく、そのサイト名がこの書名になっているようです。これはその日記をまとめた本のようですね。「ようです」ばかりなのは、この本が日記と、生前親交があった作家などから没後に寄せられた文章だけでできていて、解説にも解題めいたことがほとんどないので、私が勝手に類推したからです。
 日記というものはすべて誰かに読まれることを前提に書かれている、たとえ読む者が自分ひとりだけだったとしても…というようなことが、よく言われていると思います。ましてこれはネットに公開されるべく書かれたものなのですから、真実そのものではもちろんないのでしょう。それでもこの日記を読めばすぐに、スレンダーな体型でちょっととんがったお洒落をした、コスメフリークで香水好きで人形とお酒を愛し、哲学と宗教と幻想文学とエロティシズムとSFに耽溺する、キラキラした瞳の若い女性の姿が立ち上がってきます。神保町の古書店街をよく訪れていたようだし、私はどこかで絶対に彼女とすれ違っていたことでしょう。喫茶店で隣の席だったこともあったかもしれません。興味や守備範囲は私とは違うところも重なるところもいろいろだけれど、映画館や劇場で同じ回を観ていたかもしれない、とも思いました。後輩だったら、親しくしたかった。可愛がりたかったし、いろいろ教えてもらいたいと思ったことでしょう。ただし向こうに、話すだけの価値がある相手と思ってもらえたかは自信がありません。なんせ生まれてから過ごした日数より多い数の本を読んできた、という本の虫です。そしてその広く深い思索のあともまた、この日記にはくっきりと表れています。
 しかしこの膨大な引用は、どうしていたのだろう…いちいち打ち込んでいたのかな。電子書籍のデータからコピペ…が、まずできなさそうな本ばかりから引かれているんですよね。私にとってこういう引用癖って、海外小説なんかで衒学的なキャラクターがやるものとしてしか見たことがほぼないので、実際にこういう人がいるのか…という思いは、しました。そして日を追うごとにお買い物とか読書記録は減っていき、引用ばかりが増えていく…それは、自死を正式に(?)考え始めてから、より顕著になっていったということなのでしょうか。
 私は、なんせ弱虫なのでつらかった記憶を自ら改竄しているだけなのかもしれませんが、思春期とかそれ以前とかの最も煮詰まっていた時期にすら、真剣に自殺を考えたり、ましてトライしてみたりしたことはまったくありません。社会人になってからも、理不尽なことに怒ったり仕事が上手くいかなかったり上司と合わなかったり恋人ともめたりで悩んだことももちろんありましたが、死にたいと考えたことは一度もなかったです。今も基本的には健康で楽しく、宝塚歌劇150周年を観るべく生きていきたいと思っています。
 日記を読んでいて、繊細すぎるとか柔弱だとか病的だとかは、特に思いませんでした。引用が増えていくのも、壊れていくとか病んでいくとかの表れだとも感じませんでした。ただ、明らかに読み手がいるネットでこうした日記を公開し、その一方で自ら死ぬことを突き詰めていったりすることって、どういうことなんだろう…という困惑は感じました。
 また、もっと直接に自殺について語り合っていたと思われる先輩読書人とのメールのやりとりも引用されたりしているので、それはどうなんだろう…とまたまた困惑しました。止めてほしいということなのか、わかってほしいということなのか、どれも当たらないものなのか…?
 私は祖父母とあまりべったりした親交がなく、かつ早いうちに亡くしていて、以後すごく親しい人とか近しい人を亡くした経験がありがたいことにほぼないので、死というものをどう捉えていいのかよくわからなくて本当に怖いし、まして自殺などは本当にショックというか混乱するだろうな、と想像するだけで怯え震えています。もちろん一番つらいのは当人なのだ、ということもよくわかっているつもりなのですが…
 彼女は何に祈り、何を求め、何から逃げようとして何に抗い、何を得ようとして何に勝とうとしていたのでしょう? それは彼女自身だけのもので、誰からの理解も拒むものなのかもしれませんが、想いをはせずにはいられません。望みが叶ったのならよかったね、と言ってあげるべきなのかもしれませんが、それもわからない、ただただ怖くて悲しいです。そして、それでも、この魂の軌跡を読ませていただいたことには感謝したいなと思うのでした。これは公開されたものだから、覗き見なんかではないし、死者の冒涜にも当たらないと思うので。そして彼女が読んだ本のごくごく一部でも、自分でも読んでいきたいと思ったのでした。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『Mr.ソクラテス』~韓流侃々諤々リターンズ18

2020年09月14日 | 日記
 2005年、チェ・ジノン監督。キム・レウォン、カン・シニル、イ・ジョンヒョク、ユン・テヨン。

 チンピラ青年がスパイにするためヤクザ組織に勉強を教えられ、警官にそして刑事になるが…というお話なのですが、今の韓国映画にはもうこういうものはないのかな、それとも表に出てきていないだけで未だ一ジャンルとして連綿と作り続けられているのかなあ。
 つまり、とてもマッチョな作品なんですよ。基本的に力、というか暴力や威嚇、恫喝で物事が進むから、というのもあるんだけれど、何より精神的にものすごくマッチョ。そしてそれは別に男女差別的だとかそういうことではないの。ただ男の男による男のための作品なの。実際、女性キャラクターも女優もほぼ出ていなかったと思う。情婦とかバーのママとかキャバクラ嬢とか、出てそうだけど全然いなかった。ただし映画スタッフにはかなりの数の女性がいたでしょうし、ほぼ補佐的な業務ばかりをさせられていたことでしょう。それは問題だけれど、そこが今は改善されているのであれば、こういう作品は好きな人が好きな人のために好きな人と作ればいいのだし、廃れないのではないかしら、と思いました。それこそ性差がある限り。
 もちろんこういうのが好きじゃない男性もいるとは思う。でも女性は全員が嫌いか、興味ないんじゃないかな。そういう性差に根ざした作品だと思いました。
 要するに、ヤクザのスパイとして働かされるべく刑事にさせられた主人公だけれど、刑事としてヤクザを摘発することを選んで終わる、というお話です。男のロマンなんでしょうね。でもフツーにちゃんと警官、刑事になりたくて勉強して合格してちゃんと働いている男女がフツーほとんどだから、以上終了、ってだけのことな気がしちゃうんですよ。イヤ家庭環境その他でグレちゃうような人々にも救済を、とかはもちろんわかるけれど、それはまた別の問題なのであってさ。この主人公のこの選択かっけー、ってのは、ホントしょーもなさすぎると思うのです。
 でも、キム・レウォンもラブコメのテレビドラマで人気が出たスターだから、こういう映画をやりたくなっちゃったんでしょうね。そういう点も含めてホント精神的マッチョ映画だな、と辟易しました。
 ただし映画としてはとてもきちんと作られていて、俳優陣も豪華です。でも、なんせ退屈するのでした。
 ちなみにタイトルはソクラテスの「悪法も法なり」という言葉から来ています。ソクラテスも泣くよ…



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする