当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。
(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200712.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/7/12(No.1071)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第15主日(マタイ13:1-23)
あなたの中でも百倍の経験は存在する
‥‥‥†‥‥‥‥
【期間限定】YouTubeで説教を視聴できます。
チャンネル登録歓迎します。
(ミサ再開のため、現在は古いもののみ視聴可)
‥‥‥†‥‥‥‥
「ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」(13・8)種蒔きしたものの中で、豊かに実を結ぶものが出てきます。それが百倍になるのか、どうなるのかは神様に任せるとして、私たちはいつか豊かな実りにあずかると希望することができます。
人間誰でも、何かしらの才能を種蒔かれていると思います。それは神様から、生きていくために役に立てて欲しいと与えられているわけです。ですから「種を蒔く人」の原点は人となられた神の子、イエス・キリストのことです。イエスは実りを計算するのではなく、実りを得られない危険も承知で人類に種蒔きを開始します。
「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。」(13・1)これはイエスがたとえを通して弟子たちに種まきをするという暗示かも知れません。あるいは父なる神が自ら家を出て、人間の世界に独り子イエスを遣わし、人類の救いのために「一粒の麦」となって死んでくださったことの象徴でしょうか。蒔かれた種は確かに実りました。蒔かれた種の実りである十二使徒も、その後の教会指導者たちも、いのちをかけて神の民を守ってくれました。
蒔かれた種が、多くの実を結ぶ。それは体験によって知るのがいちばんでしょう。私の母方の祖母はカタカナしか読めない環境で孫たちを慈しんでくれましたが、中でも祈りの精神を教えてくれました。時間になると何を置いてもロザリオと晩の祈り、日常生活では「歩きながら主の祈りを唱えなさい。そうすれば歩みも軽やかになります」と教えてくれたのでした。祈りのない生活などない。それが祖母の教えでした。私の人生の土台を作ってくれた人です。そう考えると、祖母が蒔いた種は私の中で百倍に実ったのだと思います。
私は福岡の大神学校時代、上級生になって福岡市内の教会に日曜学校の実習に出るようになりました。聖書を開いて子供達に教えますが、聖書全体を見渡すためには書名を覚えていなければなりません。
福岡市内の子供達は優秀な子供達がいました。西南学院とか九大を目指している子供から問い詰められて答えに窮することもあったのです。旧約聖書、新約聖書全体の書名を覚えていれば、神の働きがどのように私たちに届いてきたのかをじっくり話すことができます。最初のうちはそれができず、申し訳ない気持ちになりました。
完全に旧約聖書と新約聖書の書名を覚えたのは浦上教会の助任になったときです。子供達の要理に加え、カトリックセンターでの聖書講座にも呼ばれることがあり、概略を話すときにどうしても書名をすべて覚えておく必要がありました。その時代に苦労して覚えたことが、今になって大いに役に立っています。「鉄道唱歌」という歌に合わせて私は覚えました。皆さんもその気になれば、きっと覚えられると思います。
この、旧約聖書と新約聖書の書名をすべて覚えたことが六十倍の実りだったかも知れません。三十倍の実りは、まったく違うところからでした。私はまとまった時間の話をするときに、初めに参加者の気持ちをつかむため少し時間を使います。話を聞く人たちは、最初から熱心に耳を傾けてくれる人ばかりではありません。「聞いてみようかな」という気持ちにさせないと聞いてくれない人もいるわけです。
そこで私は、純粋に興味を引くためだけの話題を持ち出して、こちらを向いてもらうことにしています。最初の頃はあとで聞く話の準備になっていることもありましたが、繋がっている話をしても繋げてくれない人もいるので、最近はあまり気にしていません。
その中でいちばん役に立ったのが、「ルービックキューブ」でした。ご年配の方はよく知らないかも知れませんが、サイコロの形をしたパズルで、六つの面すべての色が完全に揃うことを楽しむものです。私はこれを高校生の時夢中になって取り組んでいました。現在でも、2分半から3分あれば、六面すべての色を揃えることができます。興味がある方は、「こうじ神父ブログ」の「今週の1枚」というリンクをご覧になってください。
このルービックキューブは一時期日本でも爆発的に人気が出て、その時期はたいていの家庭に一個あって、完成できないまま放置され、見向きもしなくなっていたのです。子供達や学生たちに「私の所に持っておいで。完成させてあげるよ」と言うと喜んで司祭館に持ち込んできて、話が弾むのでした。たくさんの家に放置されていて、それを話題にして人を知り、家庭を知るきっかけになるわけですから、これは三十倍の実りをもたらした道具だったと思います。
振り返って、私たちはどのような種蒔きを受けたのでしょうか。蒔かれた種がいつどのように実を結ぶのか、それは神様がお決めになることです。神様は多くの種蒔きが無駄になるかも知れないと理解しています。それは私たちの用心が足りずに奪い取られたり、覆い塞いだりするからです。それでも神様が私たちに蒔いてくださった種は、見事な実をつけるのです。人間の目には失敗に見える結果からも、神は実を結ぶことができます。それは独り子イエスの十字架上の死で証明済みです。
ですから私たちは信じましょう。神様が私たちに種蒔きしてくれた。あとは神様が実を結ばせてくれる。信じて、心を開き、神様の声に、神様の導きに委ねましょう。神様に心を開ききるなら、聖霊の働きで、私たちは実を結ぶことができる。私たちそのものが、この世界に神から蒔かれた種なのです。
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‥次の説教は‥‥
年間第16主日(マタイ13:24-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼「弟子は取らない。」ここにはすでに「弟子にしてください」と言いに来た人がいる。「弟子は取らない。」言ってみたいものだ。少し形を変えるなら、「助任は取らない。」まぁ、助任司祭をつける教会と言えば、今は浦上教会しかないだろうが。
▼なぜ「弟子を取らない」のだろうか。せっかく自分が完成させた高い技術や理論を、学びたいという人が目の前に現れて、それを「弟子は取らない」と言って断る。なぜだろうか。弟子を取らなければ、その技術、技法は廃れてしまうのに。
▼イエスさえ弟子を取った。しかも12人いちどに受け入れた。もし「弟子になりたい」と言う人が目の前に現れたら、私は二つ返事で受け入れる。指導することができるか、ちゃんと一人前に育てることができるか、そんなことは気にしない。
▼弟子が与えられたら、私が与えられるものはすべて与えるだろう。弟子に追い越されるかも知れないが、そんなことは関係ない。弟子になりたいという人が私を選んだ。それだけで十分ではないか。説教もいくらでも真似してよい。考え方や癖や、欠点も見て構わない。その弟子が越えていく踏み台になることも。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第678回目。ルービックキューブ。懐かしいでしょ。自宅に転がっている?
https://youtu.be/eS-Ywt-ZZjE
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/
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今週の「笑える」
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「ふちか。これ何だろう?」「いやいや、『不知火』は『しらぬい』だから」
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† 神に感謝 †
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「ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」(13・8)種蒔きしたものの中で、豊かに実を結ぶものが出てきます。それが百倍になるのか、どうなるのかは神様に任せるとして、私たちはいつか豊かな実りにあずかると希望することができます。
人間誰でも、何かしらの才能を種蒔かれていると思います。それは神様から、生きていくために役に立てて欲しいと与えられているわけです。ですから「種を蒔く人」の原点は人となられた神の子、イエス・キリストのことです。イエスは実りを計算するのではなく、実りを得られない危険も承知で人類に種蒔きを開始します。
「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。」(13・1)これはイエスがたとえを通して弟子たちに種まきをするという暗示かも知れません。あるいは父なる神が自ら家を出て、人間の世界に独り子イエスを遣わし、人類の救いのために「一粒の麦」となって死んでくださったことの象徴でしょうか。蒔かれた種は確かに実りました。蒔かれた種の実りである十二使徒も、その後の教会指導者たちも、いのちをかけて神の民を守ってくれました。
蒔かれた種が、多くの実を結ぶ。それは体験によって知るのがいちばんでしょう。私の母方の祖母はカタカナしか読めない環境で孫たちを慈しんでくれましたが、中でも祈りの精神を教えてくれました。時間になると何を置いてもロザリオと晩の祈り、日常生活では「歩きながら主の祈りを唱えなさい。そうすれば歩みも軽やかになります」と教えてくれたのでした。祈りのない生活などない。それが祖母の教えでした。私の人生の土台を作ってくれた人です。そう考えると、祖母が蒔いた種は私の中で百倍に実ったのだと思います。
私は福岡の大神学校時代、上級生になって福岡市内の教会に日曜学校の実習に出るようになりました。聖書を開いて子供達に教えますが、聖書全体を見渡すためには書名を覚えていなければなりません。
福岡市内の子供達は優秀な子供達がいました。西南学院とか九大を目指している子供から問い詰められて答えに窮することもあったのです。旧約聖書、新約聖書全体の書名を覚えていれば、神の働きがどのように私たちに届いてきたのかをじっくり話すことができます。最初のうちはそれができず、申し訳ない気持ちになりました。
完全に旧約聖書と新約聖書の書名を覚えたのは浦上教会の助任になったときです。子供達の要理に加え、カトリックセンターでの聖書講座にも呼ばれることがあり、概略を話すときにどうしても書名をすべて覚えておく必要がありました。その時代に苦労して覚えたことが、今になって大いに役に立っています。「鉄道唱歌」という歌に合わせて私は覚えました。皆さんもその気になれば、きっと覚えられると思います。
この、旧約聖書と新約聖書の書名をすべて覚えたことが六十倍の実りだったかも知れません。三十倍の実りは、まったく違うところからでした。私はまとまった時間の話をするときに、初めに参加者の気持ちをつかむため少し時間を使います。話を聞く人たちは、最初から熱心に耳を傾けてくれる人ばかりではありません。「聞いてみようかな」という気持ちにさせないと聞いてくれない人もいるわけです。
そこで私は、純粋に興味を引くためだけの話題を持ち出して、こちらを向いてもらうことにしています。最初の頃はあとで聞く話の準備になっていることもありましたが、繋がっている話をしても繋げてくれない人もいるので、最近はあまり気にしていません。
その中でいちばん役に立ったのが、「ルービックキューブ」でした。ご年配の方はよく知らないかも知れませんが、サイコロの形をしたパズルで、六つの面すべての色が完全に揃うことを楽しむものです。私はこれを高校生の時夢中になって取り組んでいました。現在でも、2分半から3分あれば、六面すべての色を揃えることができます。興味がある方は、「こうじ神父ブログ」の「今週の1枚」というリンクをご覧になってください。
このルービックキューブは一時期日本でも爆発的に人気が出て、その時期はたいていの家庭に一個あって、完成できないまま放置され、見向きもしなくなっていたのです。子供達や学生たちに「私の所に持っておいで。完成させてあげるよ」と言うと喜んで司祭館に持ち込んできて、話が弾むのでした。たくさんの家に放置されていて、それを話題にして人を知り、家庭を知るきっかけになるわけですから、これは三十倍の実りをもたらした道具だったと思います。
振り返って、私たちはどのような種蒔きを受けたのでしょうか。蒔かれた種がいつどのように実を結ぶのか、それは神様がお決めになることです。神様は多くの種蒔きが無駄になるかも知れないと理解しています。それは私たちの用心が足りずに奪い取られたり、覆い塞いだりするからです。それでも神様が私たちに蒔いてくださった種は、見事な実をつけるのです。人間の目には失敗に見える結果からも、神は実を結ぶことができます。それは独り子イエスの十字架上の死で証明済みです。
ですから私たちは信じましょう。神様が私たちに種蒔きしてくれた。あとは神様が実を結ばせてくれる。信じて、心を開き、神様の声に、神様の導きに委ねましょう。神様に心を開ききるなら、聖霊の働きで、私たちは実を結ぶことができる。私たちそのものが、この世界に神から蒔かれた種なのです。
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‥次の説教は‥‥
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ちょっとひとやすみ
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▼「弟子は取らない。」ここにはすでに「弟子にしてください」と言いに来た人がいる。「弟子は取らない。」言ってみたいものだ。少し形を変えるなら、「助任は取らない。」まぁ、助任司祭をつける教会と言えば、今は浦上教会しかないだろうが。
▼なぜ「弟子を取らない」のだろうか。せっかく自分が完成させた高い技術や理論を、学びたいという人が目の前に現れて、それを「弟子は取らない」と言って断る。なぜだろうか。弟子を取らなければ、その技術、技法は廃れてしまうのに。
▼イエスさえ弟子を取った。しかも12人いちどに受け入れた。もし「弟子になりたい」と言う人が目の前に現れたら、私は二つ返事で受け入れる。指導することができるか、ちゃんと一人前に育てることができるか、そんなことは気にしない。
▼弟子が与えられたら、私が与えられるものはすべて与えるだろう。弟子に追い越されるかも知れないが、そんなことは関係ない。弟子になりたいという人が私を選んだ。それだけで十分ではないか。説教もいくらでも真似してよい。考え方や癖や、欠点も見て構わない。その弟子が越えていく踏み台になることも。
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今週の「笑える」
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「ふちか。これ何だろう?」「いやいや、『不知火』は『しらぬい』だから」
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† 神に感謝 †