こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第14主日(マタイ11:25-30)人は十字架上でこそ、学びと安らぎを得る

2020-07-04 | Weblog
年間第14主日(マタイ11:25-30)人は十字架上でこそ、学びと安らぎを得る
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200705.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/7/5(No.1070)
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年間第14主日(マタイ11:25-30)
人は十字架上でこそ、学びと安らぎを得る
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【期間限定】YouTubeで説教を視聴できます。
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(ミサ再開のため、現在は古いもののみ視聴可)
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「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(11・29)イエスの軛を私たちが負うとき、私たちは最も学びを得ます。イエスの軛を負うときがいつなのかを考えてみましょう。どのような学びを得て、それがどのように安らぎに結びつくのでしょうか。

福音朗読に戻りましょう。イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言います。ここで言う「わたしの軛」は、何のことでしょうか。イエスが私たちに求めることは、「わたしの軛」と言えるでしょう。マタイ福音書から探してみると、5章から7章でまとめられている「山上の説教」は「わたしの軛」に当てはまるでしょう。

具体的には、「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」「天に富を積みなさい」「人を裁くな」こういったことが並べられていますから、これらを守ることはイエスが言う「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言うことになるでしょう。

けれどもイエスは、これら日常生活の具体的なことをずらっと頭に思い浮かべて、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言ったのでしょうか。違うかも知れません。それらをすべて含む軛、一度ですべてを超える、そんな軛のことを思い浮かべてあのように言ったのかも知れません。それは何でしょうか。

もしイエスが、軛として一つだけ思い浮かべておられたのなら、それは「十字架上の犠牲」のことだと思います。十字架上で、人間の救いのためにご自身をささげることを、「わたしの軛」と言っておられたのではないでしょうか。

そうであるなら、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とは、「わたしと共に十字架を負い、わたしに学びなさい」と言っておられるのです。人が、日々の十字架を負うとき、私たちはイエスがになった十字架を一緒に担うことになります。「イエスの十字架を一緒に担う」と言うよりむしろ、自分の十字架を担って初めて、人間を救うために十字架にかけられたイエスの御心を知るのです。

日々の十字架を担うとき、私たちにはどんな学びがあるのでしょうか。イエスはゲッセマネの園で、苦しみもだえ、次のように言いました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26・39)「杯」とは、これから待ち受けている十字架の死に至るまでの苦しみのことでしょう。イエスはこの緊迫した場面で、自分の知恵に頼らず、御父に心をすべて開いて、「御心のままに」と自分を委ねたのです。

日々の十字架を担う私たちの学びはここにあります。「なぜ?」と思うような試練、苦しみ、理不尽な仕打ち。これらに自分の知恵で意味とか価値を探そうとすると、絶望的になるかも知れません。こんなに親切にしているのに裏切られたとか、こんなに思いやっているのに恩を仇で返されたとか。そんな仕打ちを甘んじて受け入れる理由がどこにあるでしょうか。

けれどもイエスは、私たちに模範を示し、慰めてくださいます。「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」私たちにとって日々の十字架を担うことが、イエスの軛を負ういちばんの近道です。時代を超え、場所を超えて、十字架こそが、私たちとイエスとの共通の軛ではないでしょうか。

同じ一つの軛に繋がれているから、重荷は負いやすく、軽くなります。同じ一つの軛に繋がれているから、共にいてくださるイエスのおかげで安らぎを得ることができるのです。もちろん十字架の重さはイエスとはまったく違いますが、神に心を完全に開いて日々の十字架を担うなら、十字架を担う日々はいちばん学ぶときであり、いちばん安らぎを得るときになるでしょう。

同じ一つの十字架を担った、長崎の小神学生時代の体験を話しましょう。私が知っているわけではありませんが、当時の神学校はちょっとした軍隊生活のようなものでした。好き嫌いは決して許されず、縦割りで分けられた六人掛けのテーブルで食事をしていた中で、食べ残そうものなら最上級生がそれを決して許さず、食べるまでほかのメンバーは待たされるのでした。

あるとき新入生がワカメスープを食べられず、残してしまいました。現時点ではもう時効ですが、テーブルの最上級生は切れ目の先輩でした。最初に全員注がれたワカメスープに新入生が箸を付けなかったので、先輩は「食べ終わるまでこのテーブルは食後のレクレーションに入ることは許さん」と言うのです。

困り果てまして、ほかのメンバーは恐ろしくて凍りついています。私はとっさに思い付きまして、給食の鍋のような大鍋に用意されたワカメスープがすべて無くなれば、先輩も嫌がらせはできないに違いないと思い、大鍋のワカメスープを全部平らげようと、私がおかわりをし始めたのです。10杯、それ以上おかわりしたでしょうか。最後には先輩が根負けしまして、新入生は勘弁してもらい、私たちも食堂を出てレクレーションに移ることができたのでした。

後に思ったのですが、私はあの時、初めての同じ一つの十字架を背負うことができたのでした。新入生は食べられずに苦しんでいる。ほかのメンバーは身動き一つできずに苦しんでいる。イエスも、そばで苦しんでいたはずです。幸い私は行動を起こせたので、他人の苦しみとイエスの苦しみを学ぶことになり、最後に許されて、安らぎを得たのです。

神秘的ではありますが、十字架上でこそ、人はイエスと同じ軛を担うことができます。十字架上でこそ、最高の学びを得ることができます。十字架上が、神が与えてくださる安らぎを得られる場所なのです。日々の担う十字架を通して、私たちも最高の学びと安らぎに預かりましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日(マタイ13:1-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼長い長い一日だった。朝6時に平日(土)のミサをささげ、食事を取り、朝9時に老人ホームの病人訪問に出る。戻ってきて10時から葬儀ミサを執り行う。昼食を済ませ、午後1時からミサを伴わない結婚式。それに続けて小学5・6年生の教会学校、締めは夕食を終えてから夜7時の主日前晩のミサ。「ぶっ倒れそう」とはこのことだ。
▼亡くなった神父様を思い出す。1年だけお仕えした助任司祭の時代、「暑くて今日は死にそうです」と言ったら「●ね」と言われた。当時はパワハラも何もなかった時代。言われれば意地を出してそれを乗り越えていく時代だった。次に同じような状況になって「今日も暑かなあ。死にそうですって言え」と言うので、「言いませんからね」と返したのが懐かしい。
▼ぐったり疲れた一日だったが、充実感はある。まるで30代の時のような働きぶりで一日を終えられることに心から感謝している。日曜日は二日過ぎたが「聖トマ使徒」の霊名のお祝いをしてもらうので、心置きなく祝ってもらえそうだ。
▼熊本県は大災害に見舞われた。12時のニュースを見て、言葉を失った。人吉市にはお世話になったことがあり、川沿いの町々が見る影もなく浸水しているのを見て、胸が張り裂ける思いだった。祈ることを通して、嘆く人、泣く人の心に寄り添いたい。

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今週の1枚
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第677回目。水分を制する者は健康を制す。最近は水をよく飲むようにしている。

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今週の「笑える」
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「Woo~翼のついたエンジェル♪」「それだと『みんな飛べるエンジェル』」
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† 神に感謝 †
コメント
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