こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)信じて、ミサ再開の日を待とう

2020-04-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/4/12(No.1058)
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復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)
信じて、ミサ再開の日を待とう
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あらためて主の復活おめでとうございます。イエスが復活の栄光を受けたとき、ご自身が死んで復活すると、誰よりも心の準備をさせてもらったのは弟子たちでした。ここに今年は注目しましょう。

マグダラのマリアは、墓から石が取りのけてあるのを見ましたが、彼女の心は準備ができていませんでした。弟子たちは三度も、イエスの死と復活について予告を受けたので、出来事の向こうにあるものを捉える準備がいくらかできています。しかし完全には捉えきれません。

ヨハネ福音書はもう一人の弟子の様子を「先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」(20・8)と描いています。死と復活の予告がなければ、とてもここまで理解が及ばなかったでしょう。ただ、予告があったとしても、弟子たちの力だけで理解し、信じることができたのかというとそうでもないようです。直後にこう書かれています。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(20・9)

もし、人間の力だけでイエスの復活を捉えることができるのであれば、違う書き方になっていたでしょう。「二人はようやく理解することができた」そういう結び方になったかも知れません。「入って来て、見て、信じた」この直後に「二人はまだ理解していなかったのである」と続けるのには、何か理由があるでしょう。

マタイ・マルコ・ルカ福音書には、三度にわたってイエスの死と復活の予告があります。私たちの感覚からすれば、どんな人間も三度指摘されれば十分理解できるでしょう。それでもペトロともう一人の弟子は、イエスの復活の出来事にたどり着けなかったのです。なぜでしょうか。

それは、「人間の理解を超える出来事は、ただ示されただけでは理解できない」ということなのだと思います。決して理解できないわけではなく、イエスのほうから近づいてくださって初めて、人間の理解を超える出来事にも心と身体の目が開かれるのです。

弟子たちはイエスの死後、完全に希望を失ってしまいました。マグダラのマリアは墓に行きましたが、彼女は終わってしまった出来事にすがりつこうとします。人間の力が及ぶのはここまでなのです。イエスが近づいてくださるとき初めて、復活したイエスが示そうとする未来に、限りある人間の目が開かれていくのです。

私たちも、今年の四旬節、受難の主日と大きな悲しみを背負いました。ミサに参加できず、心の中では死んだも同然でした。しかしここで、過去にしがみついてはいけません。イエスと同じく死んだのでしたら、復活したイエスが近づいて、未来に目を向けさせてくださいます。

私たちの死んだも同然の体験は無駄ではないのです。死んだからこそ、未来に目を向けてもらえるのです。全世界の教会が、再び復活するための「霊的な死」を体験しました。イエスは必ず私たちを、復活の希望に招いてくださる。固く信じて、ミサ再開の日を待ちましょう。

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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)
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ちょっとひとやすみ
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▼4月8日付の長崎教区の通達によって、「司祭は会衆なしのミサをささげてください」と明確に制限がかかった。修道院にミサをしに行くことも禁じられる。「司祭の対応がまちまちで、信徒が不安を感じている」という指摘もあったし、「教区の対応のあいまいさに問題がある」という反省も出たらしい。
▼声には出してなかったが、「ミサ参加の呼びかけはしませんが、司祭はミサはしています」みたいなお知らせをする教会もあったわけで、「それだと『来ていいよ』と言っているのと同じだなぁ」と思ったものだ。たとえ人数を限定しても、問題は残る。問題ある状態で続けるよりも、会衆なしでしたほうが良くないかなぁと感じていた。
▼教区の対応のあいまいさは私からは発言は控える。これで本当に、表現は俗っぽいが「無観客ミサ」になるわけだ。司祭はますます、「見えない神の民」を意識して、行動しなければならない。こんな時だからこそ、「そちらの教会ではどのような工夫をしていますか?」と情報共有をすべきだと思うのだが。
▼本部事務局に、一つ提案してみよう。「この聖なる三日間、誰の説教も聞くことなく、教区民は過ごすことになるのでしょうか?」私の番宣をするつもりは毛頭無いが(もともと毛もないが)、「誰かが説教を公開しているわけだし、大司教様の説教を公開する方法もまだ間に合うでしょ~」それくらいは言ってもいいだろう。

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今週の1枚
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第665回目。教区には、声を上げようにも上げられない人がいるに違いない。

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† 神に感謝 †
コメント (2)
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