こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第25主日(ルカ16:1-13△16:10-13)イエスを得ようとして友を作ってきたか

2019-09-18 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/190922.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/9/22(No.1023)
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年間第25主日
(ルカ16:1-13△16:10-13)
イエスを得ようとして友を作ってきたか
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「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。」(16・1)イエスのたとえ話の中に、神のあわれみをよく説明してくれるルカ福音書の中で「不正な人」が登場するのはここと「やもめと裁判官のたとえ」です。神のあわれみを説明するのに、不正な人をイエスが引き合いに出すということが、私には非常に興味深いです。

中村補佐司教様の叙階式、参加されたでしょうか?参列者があまりにも多くて、立錐の余地もないくらいでした。聖堂内に入ることができたとしても、通路や座席のさらに後ろで三時間立ちっぱなしでミサにあずかった人もいるそうです。それだけ期待されているということでしょうが、なかにはあっと驚くことをしてくれるのではないかと、半分怖いもの見たさでやって来た人もいるのではないかと思っています。

すべてを種明かしすることはできませんが、叙階式ミサが終わって場所を移動し、祝賀会の中で中村倫明補佐司教様の本性が現れました。17年前に髙見大司教様が補佐司教として司教叙階された際に余興で中村倫明当時の神父様が使った小道具を、今度はご自分の叙階式の祝賀会に持ってきていました。

私は、教区の牧者である司教の連続性と言いますか、継続性をそこに見た感じがしました。懐かしい太田尾小教区の皆さんも含め、たくさんの人が司教叙階式と祝賀会を盛り上げてくださったと思います。

中村補佐司教様の感謝の言葉を最後に聞くことができました。聖書の「宴会を催す時には」という場面を引用したあいさつでした。ちょうど9月1日、年間第二十二主日の朗読箇所です。聖書の中では、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」(ルカ14・13)とあるのですが、中村補佐司教様はこれにヒントを得て、「実は私が、お返しのできない者なのです。お返しのできない人を招いてくださったのは皆さんなので、皆さんこそ、幸いな人々なのです」と結ばれたのです。とても印象深いあいさつでした。

私は、中村補佐司教様の導き方が、あのあいさつの中に込められているのかなぁと思いました。教区で働く司祭、修道者、信徒が、誇りを持って働く。前を向いて働く。そのような気持ちにさせるために、補佐司教様は私たちを案内してくれるのだと思います。

さて今週の朗読に登場する不正な管理人は、素早い反応、主人をうならせるような行動を期待されています。「会計の報告を出しなさい。」(16・2)期間はどれほどでしょうか。小教区の予算決算書の提出書類が届くのはおよそ三ヶ月前です。実際に予算決算書を作成するまでには二ヶ月しかないと考えるべきです。

それからすると、このたとえ話に登場する管理人にも、二ヶ月程度しか時間の余裕はなかったかも知れません。この二ヶ月の間に、今後自分が生きていけるような道を切り開かなければなりません。同時にそれは、これまで雇ってくれた主人をうならせるような画期的な方法である必要があります。主人をうならせるような方策でなければ、これまで主人にお世話になって生きている人のところに転がり込もうとしても、「主人に睨まれたら生きていけないので、あなたを迎え入れるわけにはいかない」とつれなくされることでしょう。

ここで管理人は抜け目のないやり方を考え、実行するわけですが、ここで私は中村補佐司教様のあいさつで触れた聖書の捉え方を思い出しました。宴会を催す時、お返しのできない人を招きなさいとイエスが言われ、そのお返しのできない人に、まったく思いつきもしない視点を紹介してくれました。お返しのできない人とは、今日司教叙階を受けた中村補佐司教様だという視点でした。

私も同じようなことを考えます。イエスは今週のたとえ話の中で次のように言いました。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(16・9)

私たちを永遠の住まいに迎え入れてくれる「友」とは誰のことでしょうか。主人に油を納めている小作人でしょうか。小麦を納めている小作人でしょうか。むしろ、それらを通して何とも抜け目のない奴だと褒めた主人の心が、管理人が生きていくことを可能にする唯一の「友」なのではないでしょうか。どこに行っても主人の息がかかっています。その中で生きていける方策を、短期間で不正な管理人は考えたのです。

私たちも、いざという時、短期間で永遠の住まいに迎え入れてもらえる方策を考えなければなりません。それは同時に、父なる神をうならせるものでなければなりません。どんな方策が両方を満たすでしょうか。私は、「イエスを友とする方策」これ以外に答えはないと思うのです。

「不正にまみれた富で友達を作りなさい。」友達を作っても、この世界のどこにも父なる神の息のかかっていない場所はないのです。ですから自分が出会う人を友達とする中で、その都度イエスという「友」を作るようにしなければならないということです。あなたは多少なりとも「友」を作ってきたでしょう。その友との間に、イエスを手に入れてきたでしょうか。これが「不正にまみれた富で友達を作りなさい」という呼びかけの唯一の解答なのだと思います。

この世の出会いは変化し、移ろいやすいものです。長く続かない友人もいるかも知れない。仲良くなった時の何倍も憎み合って別れるかも知れない。けれども、いずれの友を得ようとした時でも、友を通してイエスを得ようとしてきたでしょうか。イエスを得ようとしてきた出会いであれば、この世ではまったく不毛だった友でも、天の国に迎えられる根拠に選ばれるかも知れないのです。

イエスを得ようとして出会った友が、私たちを永遠の住まいに迎えてくれるのであれば、この世でどんな結末を迎えようとも、感謝できる出会いに違いありません。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日(ルカ16:19-31)
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ちょっとひとやすみ
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▼「ざんねんないきもの事典」という図鑑がある。絵本と言うべきか。初めて見たとき、「あー、こう言う見せ方はアリだな」と思った。確かにそういう面があり、動物の違った面を知ることができて興味深い。
▼実は人間が、どの生き物にもまさって残念な生き物なのではないかと思った。雄は求愛行動をして雌にふられても、涙を流したりはしないだろう。人間は思いっきりふられて涙を流す。なかには「死んでやる」とさえ言う奴もいる。生き物全般はふられても決して死なない。何もなかったかのように、次のチャンスを探すだろう。
▼先週の説教で、最後の最後に噛んでしまった。一人の人を意識して最後を結んだつもりだったが、意識しすぎたか。あまりの格好悪さに、説教後に沈黙の時間を持ちながら自分がいかに「ざんねんないきもの」か考えた。人間は噛むが、人間以外はきっと噛んだりしないだろうな。何とざんねんないきものか。
▼人間はざんねんないきものだが、他の生き物には到達できない領域にときおり到達する。ざんねんないきものである反面、自分を見つめ直し、自分を磨くこともできる。誰かを見返そうとか余計なことを考えるとざんねんないきものに逆戻りするから、過ぎたことに未練を残さず、自分を見つめ、自分の長所を磨く。すると自分を納得させることはできる。
▼いよいよ長崎教区は補佐司教をいただき、大司教と補佐司教の二人体制になった。叙階式ミサは、いったいどれだけの人が入ったのか、聖堂内に入りきれない人もいて、堂内に入れた人でも席がなくて三時間立ちっぱなしの人も出た模様だ。これからの長崎教区への期待の大きさが分かる。
▼私は叙階式のミサの中で、新司教の祭服がどうにも気になった。肩パットが入っているのではないかと思うほど、肩が盛り上がっていたからだ。ミサ中に何かやらかすために、仕込んであるのかも知れないと思ってしまったが、結局司教用のスータンのデザインが肩パッドのように見えたのかも知れない。どうかこれからは肩を怒らせず、自然体で。

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今週の1枚
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第630回目。新司教に心強い応援団。居ても立ってもいられず駆けつけたらしい。

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