こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第23主日(ルカ14:25-33)持ち物を一切捨てるのはたやすいことではない

2019-09-07 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/190908.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/9/8(No.1021)
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年間第23主日
(ルカ14:25-33)
持ち物を一切捨てるのはたやすいことではない
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「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(14・27)「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(14・33)イエスの言葉が歳を重ねるごとに重みを増してきます。歳を重ねても身軽になり、イエスに付き従うことを最優先したいものです。

高校野球にちょっと興味のある方は、清峰高校の元監督が、現在山梨学院大附属高校の野球部の監督を務めていることはご存知でしょう。この監督がなぜ高校を移ったのか、事情は知りませんが、環境が大いに変わったことは間違いありません。かつては長崎県内のライバル校がどこで、相手の長所短所よく知っていたでしょう。県内の有望な中学生も把握していて、数年後のチーム構想を練るのも難しくなかったでしょう。

何より、今現在のチームの状態を把握するのにも、これまでの積み重ねで生徒の力を発揮させる方法も見えていたでしょう。それが学校を変わる、しかも他県に移ると、すべてを手放さなければならなくなります。ふつうなら、今まで育ててきた選手を置いて、新しい学校の選手を育ててみようというのは、冒険の域を超えて危険ですらあります。

例えとして、長崎県民によく知られた監督を使ってみましたが、今週の福音朗読の結びにある「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」という招きは、先の監督が経験したくらいの環境の変化を言っているわけです。

自分の持ち物を一切捨てると言っても、例えば県内の別の高校の監督に就任するというのであれば、清峰高校の野球部選手も含め、自分の手の内にあるようなものです。けれども九州も離れ、他県に行く。これくらいの行動であれば、自分の持ち物を一切捨てる行動でしょう。同時にそれは、これまで背負っていた物が一切無くなるのですから、より確実に、「自分の十字架を背負ってついて来る」自分の十字架を背負ってイエス・キリストについて行くことも可能になるのだと思います。

「私と私の後継者に、尊敬と従順を約束しますか」「約束します」1992年の3月17日、司祭叙階式の中で島本大司教様に返事をしました。この約束はこれから自分の十字架を背負いますという約束と言っても良いでしょう。この日から背負い始めた自分の十字架は、今は背負い始めたときよりもはるかに重く、責任あるものになりました。

最近特に思うのは、転勤しても「前任地の知識も含めて積み上げた財産があり、新任地で働くために役に立っている」ということです。田平教会は献堂百周年を去年迎えましたが、皆さんには初めて経験した百周年かも知れませんが、私は二度目でした。以前の経験が、ある場面では役に立ち、ある場面では足を引っ張ったかも知れません。

「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」私にとって、このイエスの言葉は歳を重ねるごとに難しくなっています。難しくても、いつかイエスの弟子となれるように、自分の持ち物を一切失ってもそれで自分がイエスに自由に従うようになれるのであれば構わない。そういう心境に達したいと思っています。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日(ルカ15:1-32△15:1-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼無くした物を見つけるのは何にもまして喜ばしいものだ。四年前、転勤の時に六年間行方不明になっていたカッターナイフが見つかった。もらい物であまり使用しないハンドバッグの中に入っていた。六年間使用しなかったが、六年間探していた物でもあった。
▼半径80cmの傘が二度無くなったことがある。半径80cmはとても大きな傘で、納骨の時に大いに役立っていた。雨の日、納骨をしていると儀式書を持って傘を持つのは不可能である。だれかに傘を持ってもらうと、二人同時に入ることができず、申し訳ないが持ってくれる人は傘の恩恵にあずかれなかった。
▼そこで探し求めたら、8千円くらいしたと思うが、二人同時に入れる大きな傘が見つかり、愛用していたわけだ。ミサの後にこの傘を持ってあいさつすると決まって「大きな傘ですね」と聞かれる。ただ聞くだけでなく「何に使うのですか?」と聞く人もかなりいた。
▼そのたびに「これは納骨の時の苦労から探し求めた物で・・・」と説明する。途中からは面倒になり、「大きいことはいいことだ」とはぐらかしていた。この傘を二度無くしたのだが、一度目は浜串で、二度目はここ田平に来てからだ。平戸ザビエル祭のミサが平戸ザビエル教会で行われ、天気が心配で大きな傘を手に取って出発した。待ち時間があり、司祭館で待たせてもらおうと、司祭館にお邪魔するときに傘を置いてしまった。
▼平戸ザビエル教会の司祭館にお邪魔するのは月に一度、多くて二度。傘が見つからないと探し始めるが、平戸ザビエル教会の司祭館に置いてきた傘が、田平教会の司祭館にあるはずがない。どこをどう探しても見つからない。諦めかけたところ、定例の地区司祭会議で平戸ザビエル教会の司祭館におじゃました。何事もなかったかのようにそこにあるではないか。
▼見つけたのは見つけたが、もしかしたら平戸ザビエル教会の主任司祭、一学年先輩、地区長神父様の傘かも知れない。恐る恐る尋ねてみた。すると「いや、自分のじゃない。三回使わせてもらったけど。」安心した。二度失った傘を持ち帰りながら、愛着はさらに深まったのである。

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今週の1枚
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第628回目。ボートをつないでいる岸壁。干潮時の接岸離岸は十分な注意が必要。

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† 神に感謝 †
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