こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第16主日(ルカ10:38-42)イエスと私との間に何も置かない

2019-07-18 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/7/21(No.1013)
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年間第16主日
(ルカ10:38-42)
イエスと私との間に何も置かない
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年間第16主日のC年は「マルタとマリア」の物語が選ばれました。マルタとマリアの違いから、イエスが考えている「ただ一つの必要なこと」を理解し、信仰生活の振り返りといたしましょう。

最近ムーンデータとタイドグラフが表示できる時計を5千円で買いました。この種類の時計も高いもの安いもの、またメーカーもいろいろですが、カシオのお安いものを買いました。東経130度の月の満ち欠けと潮汐が分かるということで、釣り人の私にはうってつけです。

この時計のおかげなのか、最近鯛をきっちり釣って帰ることが多くなりました。ムーンデータとタイドグラフを参考に、釣れる時間なおかつ私が行ける時を狙い撃ちしていることが大きいと思います。月曜日に漁に出かけており、私は食べないので、釣った鯛は修道院か、引退した神父様に届けております。

まぁここまでは普通なのですが、続きがありまして、引退した豊神父様に魚を届けると、気を遣ってあらためてお礼を言いに来るわけです。「今日はありがとう」で済めば良いですが、まず一時間は覚悟しなければなりません。それでも嬉しいです。私に洗礼を授けてくださった豊神父様が来てくださるのですから。時間がかかろうが、話を聞くわけです。

司祭というのはどちらかというと体育会系で、先輩を大切にします。どんなに忙しくても、豊神父様が来てくださった日は話に耳を傾けるのが最優先です。特に珍しい話があるわけではありません。そういう問題ではなく、黙って話を聞くことに、意味があるのです。

マルタとマリアの物語ですが、マルタはいろいろのもてなしでイエスに喜んでもらおうと懸命に頭を働かせています。接待攻勢です。ひょっとしたら箸を休める暇も無いほどもてなしを準備したのかも知れません。もう一方のマリアは、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(10・39)のです。イエスの話を聞き漏らさないように、そばを離れなかったのでしょう。

女性が来客をもてなすのは今でも喜ばれる光景です。2千年前はなおさらのことだったでしょう。ただイエスは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために」(マルコ10・45)来たと言っておられます。「イエスはお客様扱いすることを喜んでおられるだろうか?」と考えてみる必要があります。

私は初金曜日に、在宅の人を9人、病院に入院している人を7人、土曜日には老人ホーム入所者を6人現状で計22人お見舞いをしています。訪ねる人によっては家の中を歩いて回れる人もいるでしょう。けれども主任司祭が訪ねている当人が、聖体拝領の後にいろいろの世話でせわしく立ち働いていたら、「必要なことはただ一つだけである」と言いたくならないでしょうか。

そうなると、マリアの中に、「ただ一つの必要なこと」が表現されていると考えるべきです。マリアが心がけていたことは、「イエスのそばから離れない」「イエスのそばでひたすら耳を傾ける」という姿勢でした。

マルタとマリアの物理的な距離が問題なのではありません。マリアはイエスのそばを片時も離れなかった。その姿勢が大事なのです。

イエスをもてなそうと、「最初にこれを準備して、次はこれを用意して、他にもこうして、最後はこうしよう。」頭はフル回転ですが、頭の中のことが思いの中心になっていて、イエスから片時も離れないという姿勢を失っているかも知れません。イエスへの思いはありますが、イエスと自分との間に私の思いや私の用意した物が置いてあるなら、イエスとの距離ができてしまいます。象徴的にイエスの足下に座っていたマリアは、イエスと自分との間に何も置かず、イエスのそばでじっと耳を傾ける姿でした。

私たちは、しばしば祈ります。お酒を飲む人でさえ、食前の祈りをするでしょう。祈りは神と自分との距離を近づけるすばらしいひとときですが、祈りの間でも神と自分との間に私の思いが入れば、距離を作ることになり得るのです。「このお酒は、何県で造られたのだろうか。辛口だろうか。」とても興味がありますし、気になります。けれどもそれは、せっかく祈っているのに「ただ一つの必要なこと」にたどり着けていない祈りなのです。

私たちは神聖な祭りをささげています。「神聖な祭りを祝う前に、わたしたちの罪を認めましょう。」この祈りが無意味なものとなっていないでしょうか。考え事をすればするほど、神聖な祭りで神とより親しくなる機会を、イエスの祭壇に近づく機会を台無しにしてしまうのです。

せっかく、神と親しくなる機会をいただいたのなら、神にその時間を自由に使ってもらい、私たちはひたすら神のなさり方に耳を傾けましょう。神の語られる言葉、神の招きに心を留め、私が何とかして神様を喜ばせましょうなどという無駄な力を取り除きましょう。私たちは神の前に憩い、仕えるために来られた神の自由にもっと自分を委ねるべきです。

マルタは「主よ、何ともお思いになりませんか。」と言ってイエスに同意すら取り付けようとしましたが、イエスが求めている「ただ一つの必要なこと」には近づくことができませんでした。善意で行っていることでも、一旦手を休めてみるべきです。

本当に、主はその働きを必要としているのでしょうか。むしろ「どうぞお話しください。僕は聞いています」(サムエル記上3・10)と、心の窓をすべてイエスに開いて、イエスが自由に働ける場を用意したいものです。イエスがご自身をささげ、救いの恵みを届けるために、イエスと私との間に何も足さない、何も引かない。そんな気持ちでイエスとの神聖なひとときを過ごしたいものです。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日(ルカ11:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼15試合戦って1勝13敗1引き分けだって。「それ、どこのチーム?」と言いたくなる。ここまで広島カープが負け込むとは思っていなかった。考え方も取り組む姿勢も、何も変わっていないだろうに、こんなに負け続けるとは思わなかった。
▼ちょうど良い頃合いだ。私が球場に乗り込んで、祈りながら応援しよう。この日マツダスタジアムに聖職者は何人存在するだろうか?1人か?2人か?いずれにしても一桁しかいないだろう。その限られた職種の人間が、全身全霊の祈りを込めて応援してくる。
▼生物の進化論にはあまり興味は無いが、文化や芸術は進化するのではないかと考えている。進化なのか適応なのか分からないが、たくさんの人の工夫と努力が、いつも時代に必要とされるものを生み出してくれる。
▼「笑い」はさんざん研究し尽くされて、数千年経過しているはずだ。もはや現代人を笑わせることなど不可能のように思われるが、今も新しい笑いを提供してくれる人が現れる。ありがたいことだ。私も漫才を見ていたら、大笑いしてしまった。

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今週の1枚
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第620回目。修道志願者の聖歌の美は人の内面からか。召命を完成させて欲しい。

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文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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