こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第8主日(ルカ6:39-45)心からあふれ出ることを語るために

2019-03-02 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/190303.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)

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こうじ神父
「今週の説教」
19/03/03 (No.990)
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年間第8主日
(ルカ6:39-45)
心からあふれ出ることを語るために
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「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(6・45)神を見る目が開かれるなら、本来の良さが顔を出し、私たちの口からあふれ出ることばは「良い実」となって現れます。四旬節を前にして、神を見る目が開かれるために、私たちにとって何が視界を遮る「丸太」となっているか、考えてみましょう。

堅信式を終えた中学生と一緒に、けいこの時間二週にわたってイスラエル巡礼をしたときの写真を見ました。今けいこを受けている中学生には聖地巡礼の写真を見せていなかったのだなとあらためて思いました。

中学生はとても興味深くイエスが活動したガリラヤ、最後に命をささげるエルサレムなどを見つめていました。私はかいつまんで説明をするわけですが、実際には「この場所でイエス様のこのような出来事があったと思われる」という説明しかできないはずなのに、「この場所でイエス様はこのようなことをなさった」と、あたかもイエスの働きをこの目で見たかのように説明していたのには我ながら驚きました。

本来はイスラエル巡礼を体験した人でさえ、イエスがここでこんなことをなさった、ここでこのように語られたと断言することは不可能なのですが、聖地巡礼は私たちを「心からあふれ出ることを語る」そういう人に変える力があると思います。

イエスが四人の漁師に声をかけて弟子にする。その情景はガリラヤ湖だからこそ思い浮かんでくるのです。美しい湖、豊かな湖は日本にいくらでもあるでしょう。けれども、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4・19)この言葉が浮かぶのはガリラヤ湖だからこそなのです。

そういう意味で、聖地巡礼は私たちの目を開かせてくれる体験だと思います。中学生にも、イエスのことば、イエスがなさったわざをより深く味わうために、ぜひイスラエルに行ってごらんと言いました。実際には、イエスが会堂で読んだイザヤ書も、イエスが乗り込んだ船も何も見つかりませんが、イエスが歩いた土地、イエスの救いのわざが繰り広げられた地は、何かを教えてくれると思います。

振り返って、このイスラエル巡礼を今週の福音の言葉で置き換えるなら、「自分の目から丸太を取り除く」旅だと思いました。今まではっきり見えてなかったことが見えるようになって、キリスト者として生きる、キリスト者でない人に道案内ができる。そのような経験をさせてくれる機会でした。私たちはどこかの時点で、「自分の目から丸太を取り除く」体験が必要なのです。

ある人は聖書朗読をするために、「自分の目から丸太を取り除く」体験を積みます。朗読する聖書で繰り広げられている何分の一でもよいから自分の目と耳で体験していれば、朗読している内容に深みを与えることができます。聖書朗読を依頼される人全員が聖地巡礼を体験すれば素晴らしいですが、せめて巡礼した人の話に耳を傾けるなら、朗読の中身が「心からあふれ出ることを語る」ものに変わります。

ある人は心を込めて聖歌が歌えるように、「自分の目から丸太を取り除く」体験を積みます。「ガリラヤの風かおる丘で」と歌っている人が、ガリラヤの風に吹かれたことがない、ガリラヤの風が吹く丘に立った自分を想像できないのでは、一体どれだけ説得力があるでしょうか。ガリラヤ湖の写真を見せてもらうだけでも、私たちの目から丸太を取り除くことができて、「心からあふれ出ることを」歌う聖歌に変わるわけです。

「ミサに行く」ことだけでも、いつか私たちは「自分の目から丸太を取り除く」体験が必要になります。二年前にイスラエル巡礼に参加した時期はクリスマス後の「降誕節」でした。「主の公現」のミサをガリラヤ湖畔の「ペトロの首位権の教会」そばにある野外祭壇でささげました。繰り上げミサでした。

翌日の日曜日は、ヨルダン川のベタニアという場所を訪ねました。ヨルダン川河畔は木が生えていましたがほかは見渡す限り砂漠です。そこに教会がぽつんと建っていて、どこから集まるのか、司祭・修道者・信徒がわんさか集まって、「主の公現の祝日のミサ」をおこなおうとしていたのです。一日かけて集まり、ミサに参加します。

その様子を見て、私は「自分の目から丸太を取り除く」体験を積みました。ただ一つのことのために、人々が集まっていたのです。この人たちは暇だから集まることができたのではなく、このミサに自分が生かされていると知っているから、集まることができるのです。今でしたら、「心からあふれ出ることを語る」それができると感じます。

聖書を朗読し、聖歌を歌い、共同祈願を唱え、ミサの受け答えをする。毎日の生活で祈りをささげ、神のことばに土台を置いて日々生きる。どれも「心からあふれ出ることを」実行するのでなければなりません。そのためにも、何が視界を遮る「丸太」となっているか考え、「自分の目から丸太を取り除く」体験を積みましょう。

黙想会であったり、クルシリヨであったり、聖地巡礼であったり、赦しの秘跡であったり、いろいろあると思います。だれもが「自分の目から丸太を取り除く」必要のある人間なのです。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(ルカ4:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼メガネがいまいち合わなくなってきたのでメガネを新調しに行ったが、新調する前のメガネのほうがしっくりいくというのはガックリというもの。その場では店員とよく相談して選び、作ってもらったのに。
▼これから、四旬節は黙想会のシーズン。あちこちの黙想会に手伝いに行くことも。長崎教区は教区全体として四旬節を過ごしているということか。喜ばしいことだ。この黙想会を通して、今週の福音が求める「自分の目から丸太を取り除く」季節につなげたい。
▼暖かい冬だった。雪を見たのは一度だけだったのではないか。ある先輩司祭が「暖冬の年は猛暑になる」と言われた。どのような影響でそうなるのか分からないが、経験があるのだろう。夏が好きでなくなってきたので、今年は何を楽しみに過ごそうか。
▼8月12日振替休日に、広島の恩人を頼って広島巨人戦のチケットを入手できないかお願いしていた。最近のニュースでも取り上げられたとおり、マツダスタジアムのチケット入手は困難を極めている。残念ながら、恩人が八方手を尽くしたにもかかわらず、チケットは入手できなかった。
▼ところが阪神広島戦を今年は予定に入れている。阪神主催のゲームだ。このチケットを入手するために、「不本意ではあるが」ファンクラブに入った。入会金2700円を払ってでも、チケット売買サイトで入手するよりも割安なのだ。
▼田平教会に「阪神ファンクラブ入会案内」が届いた。想像できるだろうか?この真っ赤なファンの家に、虎ブル発生。会員冊子など、読みもせずに机に積み上がっている。いったい誰が、この情景を想像できただろうか。

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今週の1枚
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第597回目。私は阪神ファンではない。阪神ファンの引退司祭に贈呈しようか。

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