こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第2主日(ルカ9:28b-36)「受難」が「変容」して「復活」となる

2019-03-15 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
19/03/17 (No.992)
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四旬節第2主日
(ルカ9:28b-36)
「受難」が「変容」して「復活」となる
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四旬節第2主日、「イエスの姿が変わる」場面が福音朗読に選ばれました。「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」(9・29)この描写から皆さんは、復活の栄光を垣間見せてくれた、そのように理解していると思います。今年はそこに、もう一つ付け加えたいです。

誕生日が巡ってきて、53歳になりました。あちこちで誕生会を開いてもらいました。特に長崎で視覚障害者のために音訳ボランティア活動をしている「声の奉仕会マリア文庫」では、あいさつを次のようにまとめました。「53歳になりました。上等なカステラに『五三焼き』というのがあります。私も今年は五三焼き、つまり上質で上等な仕事を積み重ねたいと思います」。

きっと皆さんにも53歳だったときがあったと思います。経験もあるし、人の助けも得られるようになる時期だと思います。私もその時期を田平教会で迎えました。ぜひこの一年、量よりも質を求めて仕事をしていきたいと思います。

さて福音朗読です。イエスの復活は輝かしい今日の場面にふさわしいですが、復活の栄光のその前にあるものを見ないで語ることはできません。イエスの復活の栄光は、イエスの死によってもたらされるものです。この視点を、今年は皆さんに一つ付け加えたいと思います。

イエスの死は、どのようにして復活につながっていくのでしょうか。言われるまでもなく、イエスご自身が「死と復活」を予告し、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(9・22)と言われたのです。

しかし人間の頭でイエスの予言を理解することは不可能です。イエスのことばを人間の力で理解できるのであれば、誰がイエスを死に追いやるでしょうか。イエスご自身が死んで復活し、ご自分のことばを証明してくれたので、ようやく力不足の人間も理解が及んだのです。

それでも、理解しようという努力は絶えず必要です。そこで一つのたとえを考えてみました。自然の状態では存在しないけれども、私たちがその恩恵を大いに受けているものです。それは製鉄所から生み出される「鉄」です。

誰でも想像は付くことですが、「鉄」は「鉄鉱石」を掘り出してきて精製し、最終的に「鉄」になります。鉄鉱石を溶かし、真っ赤になったものを形を整えて冷やし、私たちはそれを鉄製品として利用しているわけです。

初めは石の中に混じった鉄の塊が、真っ赤に燃やされ、混じり物を取り除かれ、丈夫な鉄になります。最初と最後だけ考えてみてください。誰が「鉄鉱石」を見て、「鉄」を想像できるでしょうか。けれども先祖たちは、「鉄鉱石」を「鉄」に変えたのです。

もしかしたら司祭職も同じようなものかも知れません。今年は桐教会出身の宮原助祭が、21日に司祭に叙階されます。鉄鉱石が叙階の秘跡によって溶かされて、司祭という鉄になるわけです。今年の宮原助祭は宮原司教様の甥っ子だそうですから、「栴檀は双葉より芳し」の諺の通りなのかも知れませんが、私などは誰も司祭になることを想像できなかったわけです。「鉄鉱石」どころか、「家造りの捨てた石」だったのです。想像できるはずがありません。

ただ、「変容」という段階を経たならば、すべてのことは変わり得ます。「石」が溶かされて液体になり、完全に形を失ったあとに「鉄」になります。神学生・助祭も、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」イエスに従うなら、叙階の恵みによって溶かされ、完全に形を失って司祭という「鉄」に変えられるわけです。

もちろん「鉄」も、できあがったときから完全ではありません。「鉄は熱いうちに打て」と言います。叙階したばかりの司祭を「新司祭」と言います。新司祭のうちに鍛えて、粘りのある鉄に仕上げるなら、25年、30年と、良い仕事をしてくれることでしょう。

いずれにしても、「変容」することで過去と未来はつながるのです。イエスはご自分で死という「過去」を変容させ、復活という「未来」に結びつけてくださった、こんなふうに考えてよいのではないでしょうか。

イエスのお姿が変わる場面は、イエスの死を変容させ、復活に結びつけてくださいました。私たちもイエスを信じ、復活の希望を持つキリスト者です。人間の力で人の死を復活に結びつけるのは困難ですが、イエスは私たちの死を変容させ、復活の希望へと結びつけてくださいます。

もしかしたら、溶鉱炉に溶ける鉄のように、火で試されるかも知れません。罪もすべて燃やし尽くされ、どんな悪も触れることのできない灼熱の火で試され、ようやく復活するのかも知れません。

けれども、私たちが復活を信じることには十分意味があります。イエスが私たちに復活への希望を与えてくれたからです。ペトロは地上に仮小屋を建てましょうと提案しましたが、私はこう思います。復活への希望に留まる仮小屋を、私の心に建てましょう。すべてが火で精錬され、燃え尽きてもとどまることのできる復活の希望を待ち望む仮小屋さえ残るなら、何も必要ありません。

信仰にとどまるための仮小屋だけ保つなら、私たちは人生の試練を通ってすっかり変容され、復活への希望に生きる者に生まれ変わることができます。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ルカ13:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼司祭の恵みを頂いたとき、真っ赤に焼けた鉄のようだったと思う。まだ熱量があり、どのような形にも変わることができた。数年の助任生活でハンマーでたたいてさらに鍛えられ、立派になった。人前に出しても恥ずかしくない状態に仕上げてもらい、それから主任となって派遣されていった。
▼しかし今はどうだろう。鋼の表面には錆が目立ち、腐食が進み、脆くなっている。粘りもなく、力が加われば折れてしまう。そんな状態だろうか。腐食の進んだ鉄はもはや「鉄くず」。残念ながら解体処理しかないだろう。
▼いっそのこと、もう一度溶鉱炉に投げ込まれたらと思う。身をこがず思いをするかも知れないが、溶かされてもう一度形を与えられるなら、残りの20年か25年かを良い形で奉仕できるのではないだろうか。幸いに私たちには家族がいないから、溶鉱炉で溶かされてゼロからの出発でも何も問題は起こらないのだから。
▼最近毎日のようにルームランナーに乗ったおかげか、一年前のズボンに両手がすっぽり入るようになった。朝ミサに二度寝して慌てて駆け込むにしても、ズボンにベルトを通さずに行くと大変なことになる。ズボンがぶかぶかなので、ミサ中に内股に歩いてズボンが落ちないようにしなければならない。
▼身体が絞れて、ズボンが落ちるのも、肉体をいったん溶鉱炉に投げ込んで形を与え直してもらうようなものだ。数年ぶりに77キロ台に突入した。これまでどれだけ重い身体を引きずって歩いていたのだろう。こうなったらもう少し目標を高く据えて、75キロ台を目指してみたい。

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今週の1枚
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第599回目。毎日体重計に乗っている。一度だけ、77.7キロになった。

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