こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第22主日(ルカ14:1,7-14)神の前に自分を無にする人は高められる

2013-09-01 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
13/09/01(No.667)
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年間第22主日
(ルカ14:1,7-14)
神の前に自分を無にする人は高められる
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今年に入って3回、鍋を焦がしました。すべて、味噌汁の鍋です。いちばん最近は8月26日の月曜日です。朝ご飯を食べる時に、味噌汁の鍋に火をかけて、温まるまでと思ってテレビを見ていたら味噌汁のことを忘れてしまい、最後にデザートでも食べようかなと台所に戻ったら、煙が充満していました。

隣の台所で火をかけていながら、忘れてしまうのですから、あまり気にもかけていないのか、テレビを見ていて気を取られているのか、いずれにしてももう火をかけながら食べるのは無理だと思いました。

鍋を焦がして、イエスのみことばを実感しました。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(15・11)たぶん1度目、2度目には「今度は失敗しない。するはずがない」と思っているわけです。でも、また失敗した。それは、人間のおごりや高ぶりを、神が低くする典型的な例だったのだと思います。

イエスのみことばは、神が人間を低くし、あるいは高めるということを教えてくれます。その上でわたしは、高ぶる人間を神が低くするのは、いつか神がその人を高めてくださるためではないか、そういうことを思いました。いつかすべての人を、神が高くしてくださる。そのために、高ぶる者を低くされるのではないかと考えました。

人間のおごり高ぶりというのは、ある意味終わりがないのかも知れません。いくら高慢な態度を取って失敗しても懲りない。場所が変わり、環境が変わると、今まで収まっていた高慢心が頭をもたげてくる。その繰り返しではないでしょうか。

そこで、高ぶることをやめようとしない人間を、神が低くするわけです。神が人を低くする時、人はそれから逃れることができません。そして、神が人を低くするのは、理由があるのです。

今テレビのあちこちで、かつて人気歌手だった人が再起を賭けている様子が取り上げられています。皆さんもどれかの番組で見たかも知れません。歌姫と言われ、宣伝しなくてもトップセールスを続けていた歌手でしたが、いったんすべてを失って、ゼロからのスタートとなりました。自分でお金を払って練習場所を見つけ、どんなに小さな仕事でも喜んで引き受けています。

復帰後も、周囲の厳しい目にさらされます。「あの子、クスリをやってた子でしょ」と陰口を言われたり、「だれ?あの人」と冷ややかな言葉を浴びせられたりしたそうです。それでも、前を向いて、もう一度歌う舞台に立っています。今の姿を見ていると、わたしは、神が今の姿に立ち直るためにいったんその歌手を低くされたのかなぁと思いました。

繰り返しますが、神が高ぶる人を低くされるのは、へりくだる体験をした後に、その人を高めるためだとわたしは考えています。神の目にかなう人に造りかえるために、高ぶる人を低くしているのです。神の目にかなう人、へりくだる人に変えられたなら、神は喜んでその人を高く上げてくださるのです。ここまで話して、みなさんの中には「よきおとずれ8月号」を思いだした人もいるはずです。8月号の1面は、ユスト高山右近を取り上げた記事でした。ここで思い出すために、引用したいと思います。

(ユスト高山右近は)1553年摂津国は高山に生まれ、1615年フィリピンはマニラで閉じられた63年の人生。その後半の29年は追放の身だった。戦乱の世に身分ある家柄の子として生まれ、20歳で大名となり、下克上の熾烈な競争社会の中、もって生まれた才能で頭角を現し、時の権力者織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が目をとめる存在にまで登りつめていく。成功者と目された若者の洋々たる前途は開けていた。

しかし、右近は人々の期待とはまったく違った生き方を見せていくことになる。伝えられたことを生きる信仰は、右近に「降りていく生き方」を選ばせた。34歳で大名職をはく奪、改易追放。世の力におもねない人。心細く生きる人を大事にし、礼を失せず、清さを求める人。そうして残ったのは、「十字架の死にいたるまで従順に生きる」お方を追い求める人の姿だった。こうして、いちばん低い所からいのちの方角を示す右近は、新たな輝きを放つことになる。神は、過酷な競争社会の中で信仰のために「負け組」に身を落とした右近を通して、ご自分の福音を差し出した。競い合うことの先に確かな幸せを求める現代社会――今、教会が右近を記念する理由がここにある。

右近はなぜ、あえて「降りていく生き方」を選んだのか。高山右近という生き方には何が宿っているのか。キリストの3つの神秘が右近の人生を包んでいたことがわかる。神が人の間に宿る「出会いの神秘」。み旨を求め続ける「苦しみの神秘」。そして、すべてがついえた闇と沈黙から生まれる「復活の神秘」。洗礼の恵みを徹底的に生きた時、ユスト高山右近という生き方になった。それはまた、「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」と公言した信徒発見の教会が受け継いだ信仰でもある。右近は遠い昔の人ではない。競い合う現代社会――降りて、仕えて生きる右近は今も確かないのちの方角を指し示している。

結局、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」というのは、イエスがこの地上で最も低くされ、いのちの道を示したことで、父なる神に高められた、その同じ道を歩む呼びかけなのです。わたしたちがへりくだる生き方にいのちを見つけなければ、神に高めてはもらえないのです。

低くされ、へりくだる生き方を自分の生きる道と納得できるまで、神は何度でもわたしたちを低くするのでしょう。そして、心からへりくだる生き方を受け入れる時、十字架を背負って生きるわたしたちを御子イエスと同じように高めてくださるのです。

わたしの今の生活は、神に低くされる生活か、高められる生活か、考えてみましょう。わたしたちがいつも神に高めてもらう生き方を選び取るキリスト者でいられるように、ミサの中で聖霊の助けを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(ルカ14:25-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼休暇に入る前、司祭団ソフトボール大会の練習が上五島地区・下五島地区の司祭団合同で行われたが、少し落ち込むことがあった。去年もそうだったと思うが、去年以上に打撃に力不足を感じた。
▼左打者は上五島地区・下五島地区の司祭団合わせて2人しかいない。2人そろって練習に参加することが少ないのでこの目で確かめたのではないが、どうやらわたしの打力のほうが劣っていて、いざ試合になると控えに回される可能性がありそうなのだ。
▼やはり、レギュラーメンバーには力のある選手を使いたい。守備が際立っていれば話は別だが、わたしの守備は外野のライト、他の選手でも十分守れる守備位置である。そうなるとやはり、打力のあるなしが、メンバー入りの条件になるだろう。
▼休憩時間に、もう1人の左打者の打力の話が出た。「フェンス直撃したからねー。」自分はフェンスどころか、外野に飛んだ球はすべて捕球された。それはつまり、パワーがなくなってきたことを如実に物語っている。これはまずいことになった。
▼あと1ヶ月後には試合である。1ヶ月で筋力をアップするとか、飛距離を明らかに伸ばすとか、そんなことはまず無理だと思う。すると、後は何が残っているか?うーん、後は確実性か。
▼3割打者では司祭団では強打者とは言わない。5割でも足りないだろう。おそらく6割打者で強打者と認められるのではないか。確実に捉える練習だったら、あと1ヶ月でも間に合うかもしれない。最後までボールをよく見て、強い打球を飛ばす。このための素振りの練習を、地道にするしかない。

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今週の1枚
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第274回目。浜串の信者さんのフランス巡礼写真から。モンサンミシェル。

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