こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第6主日(マルコ1:40-45)困難な立場にあるときほどイエスがそばにいる

2015-02-15 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/150215.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
15/02/15(No.753)
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年間第6主日
(マルコ1:40-45)
困難な立場にあるときほどイエスがそばにいる
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今週は季節のはざまに置かれた年間の主日から四旬節に移行する週です。水曜日には灰の水曜日が設定されていて、頭に灰をかぶり、四旬節の償いと犠牲が始まります。この典礼の切り替わりの季節に、今週の朗読個所から学びを得ることにしましょう。

何とか、徒歩巡礼を終えてきました。3日間歩き続けましたが、わたしと一緒だったもう一人の神父さまは初日で太ももを痛めギブアップ。2日目以降リタイアしましたので、2日目と最終3日目はたった一人の徒歩巡礼でした。徒歩巡礼と言うよりも、トホホ巡礼と言った感じです。

初日に相方が歩けなくなったことで「あー、明日からが思いやられるなぁ」とへこみ、わたしは考えられないミスを犯しました。その1つは洗濯物です。初日を終え、店を探して食事を済ませ宿に戻り、明日の準備のために着ていた物を洗濯乾燥機に投げ込んだのです。

2時間ほどして戻ってみると、洗濯物は桜の花びらのように細かくちぎれた紙屑が無数にくっついた状態で乾いていました。「これはヒドイ。誰だ?こんなことする人は」などとぶつぶつ言いつつ、散乱した紙屑を洗濯物からはがしていて気付きました。その紙屑は、わたしが迷子にならないように用意した巡礼地図だったのです。1日のコースを4分割したものを3日分、ポケットに入れたまま洗濯していたのです。

別の事件は最終3日目の朝に起こりました。「あぁ、今日も単独徒歩巡礼か・・・あれっ、今何時だ?」やってしまいました。6時起床の予定が、目覚ましに気付かず7時に起きたのです。最終木曜日は大浦天主堂に到着して2時25分のジェットフォイルまで予約していました。

寝坊した1時間を挽回しなければなりません。セットで付けた朝食はあきらめ、とっとと出ようと手に掴んだものを頭からかぶったのです。ところがその頭にかぶったものがどうやっても頭を通過しません。つまり頭からかぶるものじゃない物を、生涯初めて頭からかぶったのです。独りになれば考えられないミスを犯します。次回からは、最悪でも単独での巡礼にならないメンバーを集めなければとつくづく思いました。

さて福音朗読は、「重い皮膚病を患っている人をいやす」場面です。説教の準備のために解説書を読んでいて、興味深い箇所に行き当たりました。それはギリシャ語写本の問題で、どの写本をもとに翻訳するかで意味がすっかり変わる個所が聖書にはあるというものでした。

この問題に該当するのが「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」(1・41)という日本語訳の「深く憐れむ」の部分です。多くの日本語訳で参考にした写本は「深く憐れんで」という読み方を採用したものですが、古い写本の中には「イエスが怒って、手を差し伸べてその人に触れ」と解釈しているものがあるのだそうです。

もし両方の解釈を示されたら、皆さんはどちらを採用するでしょうか。「イエスが深く憐れんで・・・」を採用すれば、わたしたちが一般に想像するようなイエスさまの姿に当てはまるので受け入れやすくなります。一方「イエスが怒って・・・」を採用するとなれば、「イエスさまは怒ったりするだろうか」と疑問を持つことでしょう。

聖書を突き詰めて読もうとすると、今回のような難しい問題が出てきます。聖書は解釈が分かれるとき「より困難な読み方がより正しい」という原則があるそうです。これに従えば、だれでも受け入れられる「イエスが深く憐れんで・・・」よりも「イエスが怒って、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言った」という解釈がより実際に近いことになります。そして「より困難な読み方が、より正しい学びを得られる」ということになるのではないでしょうか。

方言を身近な例として考えてみましょう。方言の中には、標準語ではなかなか言い表せない用例もあると思います。驚きを表す「あっぱよ」は「びっくりした」でほぼ言い換えができるかもしれませんが、同情とか、共感を表す「あおー」とか「あよー」は、標準語ではなかなか言い換えが難しいと思います。「あおー」「あよー」を「同情」「共感」と言ってみたところで、年配の方々は決して納得しないでしょう。

この場合、「より困難な解釈がより正しい」のです。どの標準語でも言い表せないけれども、「あおー」は「あおー」なのです。その場面で同情し、共感したに違いありませんが、「あおー」を別の言葉に置き換えるのは、ほぼ不可能だと思うのです。

では「イエスが怒って、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言った」この困難なほうの解釈に立つとしたら、誰に対して、何に対して怒ったのでしょうか。それは人を困難な状況に突き落とした病、神の望みに適った生活をさせまいとする悪への怒りなのです。

らい病とかハンセン病と言われる重い皮膚病を患った人は、家族からも離れて暮らさなければならず、人が近づくと「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫ばなければなりませんでした(レビ記13章45節)。共同体の交わりを絶たれ、人間以下の生活を強いられたのです。

イエスはそのような重い皮膚病の人に、深く憐れまれたのです。人をこのような悲惨な目に遭わせる悪に対して怒りに震え、深く憐れんでこの人の病を取り除いてくださったのです。誰も手を差し伸べてくれず、触れてくれる人もなく、絶望の淵に立たされた人に、「わたしがもう一度、あなたを家族や共同体の交わりに戻してあげる」と、怒りに震えながら、深く憐れんで、いやしてくださったのです。

わたしたちはどうでしょうか。誰かを助けるために手を差し出す時、怒りに震え、深く憐れんで手を差し出すことがあるでしょうか。誰も助けようとしないその時、助けない人々や助けようとしない雰囲気に怒りながら、たった一人ででも助けようとする場面があるでしょうか。

あなたがもし、困難なほうの解釈に立たされる場面があるとしたら、恐らくその立ち位置は正しいのだと思います。キリスト者として、勇気を持ってそこから一歩を踏み出してください。あなたの怒りにも似た深い憐れみを、イエスはきっと共にいて、支えてくださいます。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(マルコ1:12-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼3日間に及ぶ徒歩巡礼を無事に終えてきた。正確には巡礼には該当しないかもしれないが、浦上キリシタンが今村キリシタンを発見し、そのうちの何人かを伴ってほぼ今回のルートを辿って喜び勇んで長崎に帰り、大浦の司祭に報告に行ったことを想像しながら歩くことができた。
▼最初司祭2人で始めた徒歩巡礼だったが、相方が太ももを痛め初日で戦線離脱となったのは精神的にきつかった。2日目から単独徒歩巡礼となったわけだが、志を同じくする人が隣にいない中で歩き続け、前に進むのは徒歩そのものとは別のきつさを感じた。
▼ただもともとの計画では、いざとなったら1人ででも成し遂げようと思っていたから、当初の計画通りと言えば言えなくもない。とは言え初日から1人で徒歩巡礼を始めていたら、本当に完遂できていたか今となっては分からない。1日だけとは言え、共に歩いてくれた後輩司祭には感謝している。相方をしてくれたこの司祭は、ゴール地点の大浦天主堂そばでわたしを待ってくれていた。
▼今年の3日間徒歩巡礼のゴール、国宝大浦天主堂でしばらくお祈りし、帰りのジェットフォイルに乗り込むため、大浦から大波止までの移動に2人でタクシーに乗り込んだ。運転手がわたしのリュックサックを見て「旅行なさってるのですか」と聞くものだから、事実をありのまま「たった今、諫早から大浦まで歩いてきたんですよ」と答えたら、「お客さんご冗談でしょう」と言わんばかりに運転手から大笑いされた。
▼わたしはムッとして「今日だけじゃなくて、福岡の大刀洗というところから都合3日間で90km歩いて大浦に来たんだよ(「それでも笑うか」と心の声)」と答えると運転手は黙ってしまった。厳しい徒歩巡礼を成し遂げたその事実が、相手を圧倒し、黙らせたわけだ。その後も同乗していた後輩司祭と、最終日諫早からの道のりで起こったことをあれこれ話して大波止に向かったが、運転手は一切口をはさむことはなかった。
▼わたしの歩いた距離はたかだか90kmだが、26聖人の歩いた距離は京都から長崎である。道行く人、連行した役人たちを黙らせるには十分すぎるほどの迫力があったに違いない。わたしが歩いた諫早長崎間の約6時間25kmでさえ一般の人を黙らせたのである。26聖人の道のりが日本の人々に及ぼした効果は計り知れないと思う。
▼そう考えると、キリスト者はキリストを知らない人やキリスト教を信じない人に対して、自分が何かしら圧倒するもの、良い意味で黙らせるものを持っておく必要があると思う。「信仰のために100km以上離れた2つの教会の間を3日間で歩いて結ぶことができる」たとえばこのような、口をはさませない圧倒的な証しを、何かしら持っておく必要があると思うのである。
▼それは別に、若いからとか体力があるからできるような証しでなくても構わない。何十年と続けてきた朝夕の祈りだって、十分に圧倒的な証し、人を黙らせる力ある証しである。そうした証しがかつてはそこここにあったから、司祭が250年奪われても、またキリシタンのうちの何人かが殉教したり流配されたりしても信仰が伝承されてきたのではないだろうか。
▼来週に続く。

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今週の1枚
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第360回目。目的地に到着。腕を組んで威張りすぎ。

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