こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

主の洗礼(マタイ3:13-17)神の「愛する子」の時代が始まった

2020-01-11 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/200112.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/01/12(No.1042)
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主の洗礼(マタイ3:13-17)
神の「愛する子」の時代が始まった
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主の洗礼の祝日を迎えました。洗礼者ヨハネは最後の預言者で、イエスは新しい時代の到来です。時代の変わり目にあって、イエスが言われた「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(3・15)を実践するイエスに、私たちの模範を見つけることにしましょう。

先週あれだけ言っていたのに、いまだに高岩駅の線路下を右折してくぐる車が後を絶ちません。土曜日にバイクで「かめや釣具」まで遠出をしました。帰りに江迎中学校近くにあるデイリーで様子を見ていると、右折して川沿いの交差点まで軽自動車がやって来ました。

「500m先、峠を登る手前に、取り締まりをしている警察がいるのだがなぁ」と思いつつ、私の250ccのバイクで高架下の一時停止から坂道発進するのは無理と判断して、近道を避けました。高岩駅までやって来ると、また別の車が右折をしようとして後続の足止めをしているではありませんか。私は合図をして、「右折、ダメよ~ダメダメ」と伝えてみたのですが、伝わらなかったようです。

福音朗読に入りましょう。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けるのですが、罪のないイエスが悔い改めの洗礼を受けるのがなぜ「正しいことをすべて行う」ことになるのか、その理屈がいまいち理解できていませんでした。参考にしている解説書を読み返し、毎年読んではいたのですが、今年読んでみてようやく理解できました。

ヨハネの時代である今は、彼から悔い改めの洗礼を受けることが人の取るべき態度です。悔い改めの洗礼は、洗礼者ヨハネで最後となる預言の時代に、神がイスラエルの民に望んでいることでした。それでイエスも父なる神が当時の時代望まれていたことに従われ、群衆の一人となって悔い改めの洗礼を願い出たわけです。ようやく私も、「なぜ」という疑問から解放されました。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3・17)。イエスが当時のイスラエルの民に神から求められていたことを選び取ったとき、天からこの声が聞こえました。イエスに倣うとき、私たちもまた父なる神から「わたしの愛する子」「わたしの心に適う者」とされるのではないでしょうか。今、私たちに求められていることを考えて、どのようにしたらイエスに倣う道をたどれるのか探りましょう。

私は、やはり教皇フランシスコの歩みが、現代の教会に神から求められている姿を現しているのではないかと考えています。その中で一つ取り上げるとすれば、教皇フランシスコが2015年を「いつくしみの特別聖年」と定め、そのために示された文書(大勅書)「イエス・キリスト、神のいつくしみのみ顔」にあらためて耳を傾けるのが良いと思っています。詳しくは3月の黙想会で取り上げたいですが、この大勅書の15番に、次のように書かれています。

「この聖年の間に経験すべきなのは、自分とはまったく異なる周縁での生活――現代世界がしばしばその劇的な状態を引き起こしています――を送るすべての人に心を開くことです。今日の世界には、どれだけ不安定で苦しい状況があることでしょうか。どれだけの傷が、もう声を上げることのできない多くの人の肉体に刻まれていることでしょう。」

「それは、豊かな人の無関心によって彼らの叫びが小さくかき消され、それ以上声が出せなくなってしまったからなのです。この聖年の間に、教会はこれまでにも増してこの傷の手当てをし、慰めの油を塗り、いつくしみの包帯を巻き、連帯としかるべき気遣いをもって世話をするよう呼びかけられることになります。」

「侮辱を与えることになる無関心、心を麻痺させて新しいことを求めさせないようにする惰性、破壊をもたらす白けた態度、そうしたものに陥らないようにしなければなりません。世界の悲惨さと、これほど多くの尊厳を奪われた兄弟姉妹の傷をよく見るために、目を開きましょう。(以下省略)」

実は教皇フランシスコは、次の教皇様を選挙するコンクラーベに招集されたとき、総会の席ですべての枢機卿様が5分間の演説をする間に、「教会はそれ自体から出て、周縁へと向かうことを求められている」と発言しました。少し引用します。

「教会はそれ自体から出て、周縁へと向かうことを求められている。それは地理的にというだけでなく、実存的な意味での周縁、罪の不可解、苦難、不公平、宗教の軽視と欠如といった周縁、思想の周縁、あらゆる種類の惨めさという周縁に向かえということでもある。それを行わないとき、教会は『自分のことばかり話をする病んだ状態』になる。腰が曲がったままになった女性(ルカ13・11)のことが思い浮かぶ」。

現代の教会、現代のキリスト者に求められていることは、「周縁」へと向かうこと、「周縁」にいる人々にいつくしみを示すことだと断言しておられたのです。

「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」私たちがイエスに倣い、行動する大きな目標がここに示されています。「周縁」にいる人々にいつくしみを示すことです。そうすることで私たちは、イエスのように御父から「わたしの愛する子」「わたしの心に適う者」と呼んでいただけるようになります。

周縁にいる人々。私にとって、いちばん遠く、最も疎遠になっている人は誰でしょうか。あるいは教会を避け、教会から最も遠ざかっている人は誰でしょうか。その人に教会がどのように動けば、いつくしみの手を差し伸べることができるでしょうか。私は何ができるでしょうか。

教会は、「キリストの花嫁」と呼ばれます。「花嫁」にふさわしいのは、厳格さを振りかざすよりも、むしろいつくしみで包むことです。きっとできることが見つかると信じています。置かれた中でできることを果たして、私たちも父である神から「わたしの愛する子」「わたしの心に適う者」と呼ばれるキリスト者に変わりましょう。黙想会はその良いきっかけを与えるでしょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第2主日(ヨハネ1:29-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼こういうことを「弱り目に祟り目」と言うのだろう。「もう辛抱できん」と思って人払いをして、そのせいで自分でしなければならないことが増えて、いつもならしないようなヘマをして、がっかりした。
▼郷里の鯛ノ浦に帰省後、洗濯物を処理した。ところが司祭シャツの胸ポケットに、メモが入ったまま洗濯をしたらしい。洗濯物を取り出して、小さくちぎれた紙くずが、私を鼻で笑っているように感じた。
▼もはや思い描いている生活は無理だ。少しでもストレスを感じないで生活するためには、やはり身軽にならなければならない。手当たり次第ものを始末し、頭の中にため込んでいる予定も全部片付けて、頭に空間を作れば、少しはましになるだろう。
▼たくさんの人が関わる場所は、よどみが少ない。誰も入らせない、誰にも手を付けさせない方法を許してしまうと、気がつかないうちにその場所はよどんでいく。風通しの良い環境をたくさんの人に入ってもらって作ることにする。
▼最近ほとんど毎日夢を見ているらしい。初夢はとても夢見が悪かった。それ以降もたくさん夢を見て、思い出せないくらいだ。毎日夢を見てもどうやら普通のことのようで、起きる前には黒板消しのような作業が行われて、ほとんど思い出せないらしい。
▼実現できそうな夢を見てみたいものだ。信徒会館裏手の敷地で、野外ミサをささげているとか、田平教会が耐震補強工事に入ったときに、田平教会の恩人が寄付をしてくださってその人に感謝状を贈るとか。だが実現できそうな夢は、もはや夢とは言わないかも知れない。

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今週の1枚
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第649回目。刺身でもおいしい魚を入れて、野菜の鍋。まぁ、食べられる味だ。

ホームページもご覧ください。
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† 神に感謝 †
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