こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第3主日(ルカ24:13-35)主よ、一緒にお泊まりください

2008-04-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/04/06(No.352)
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復活節第3主日
(ルカ24:13-35)
主よ、一緒にお泊まりください
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今年の復活祭を迎えて、復活したイエスと弟子たちや婦人たちとの出会いの中で、1つの発見がありました。それは、復活したイエスと出会う人が暗い顔をしていたり落ち込んでいれば、目の前にイエスがいても気付かないということ、反対に、心に喜びが満ちている時にはイエスだと気付くということです。

マグダラのマリアが復活したイエスと出会う場面を例に挙げましょう。この記事についてはマタイ福音書とヨハネ福音書が具体的な書き方をしています。マタイ福音書が残したマグダラのマリアとイエスとの出会いでは、神の使いからイエスの復活を知らされ、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(マタイ28・8)のでした。

すると、「イエスが行く手に立っていて『おはよう』と言われた」(同28・9)とあります。「恐れながらも大いに喜んでいた」という部分が、マタイが書き残したマグダラのマリアの内面です。マリアの心には喜びが満ちていたので、行く手に立っていたイエス、復活したイエスに気付くことができたのです。

ヨハネ福音書が書き残すマグダラのマリアとイエスとの出会いでは、「マリアは墓の外に立って泣いていた」(ヨハネ20・11)とあり、早くもイエスが立っておられた場面に出くわしているのに、「それがイエスだとは分からなかった」(同20・14)と言っています。復活したイエスも「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」(同20・15)と言って、泣いているマグダラのマリアが復活したイエスに気付いていないことを諭そうとしています。

こうしてみると、私が言おうとしていることが分かっていただけると思います。マグダラのマリアは、泣きながらイエスに出会った時、それが復活したイエスだとは分かりませんでした。一方大きな喜びで満たされていた場面では、復活したイエスをはっきり認めることができたのです。

この見方に立って、今日の福音朗読を読み返してみましょう。すぐに、私が取り上げたことが当てはまっていることに気付くはずです。エマオへの道を歩いていた2人の弟子は、「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ24・15-16)とあるのです。

なぜイエスだとは分からなかったか。すぐにお分かりでしょう。イエスが「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(24・17)と言った時、「二人は暗い顔をして立ち止まった」(24・18)、まさしく二人は暗い顔をして、暗い気持ちになっていたのです。それで、一緒に歩き始めたイエスが復活したイエスだとは分からなかったのです。

イエスはそんな彼らに目の覚めるような言葉をかけました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(24・25-26)。そして、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(24・27)のでした。

ここから、二人の弟子たちの心に変化が現れることは十分推理できます。彼らは復活したイエスから直に聖書の説明を受けた時、あとで自分たちが振り返ったように「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていた」(24・32)ことに気付くのです。

心が燃え立ち、喜びに満ちてきた時に二人がイエスに書けた言葉は何だったでしょうか。それは、「一緒にお泊まりください」(24・29)でした。呼びかける相手がイエスだとはっきり分かっていなかったとは言え、目の前にいる復活したイエスをやり過ごすことなく、一緒にいてほしい、宿を共にして話を聞きたい。そんな気持ちに変わっていったのです。喜びが心にある時、人はイエスがそこにいることに気付くのです。

私たちにも同じことが言えると思います。ふだんの生活で暗い顔をしていたり必要以上に落ち込んでいれば、目の前にイエスがいても気付かないし、反対に、心に喜びが満ちている時にはイエスだと気付くのです。元に戻らないことをいつまでもくよくよして、前を向こうとしない人には、復活したイエスが目の前に現れて、「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と声をかけられても気付かないのではないでしょうか。

むしろ、エマオに向かっていた弟子たちのように、「一緒にお泊まりください」と声をかけましょう。復活したイエスが今も私たちに働きかけているとまだはっきり気付いていなくても、一緒に泊まって、時間を共にしてくださることで、私たちの目も開かれ、イエスだと分かるようになるでしょう。

仮に、悲しみにうちひしがれるようなことがあっても、「一緒にお泊まりください」とイエスに呼びかけるのです。悲しみの中から立ち上がる力を、イエスが与えてくださいます。見えなかった解決策、思いがけない助け手をイエスが示してくださるかも知れません。「一緒にお泊まりください」と言うことで、悲しみから立ち上がり、イエスと共に前を向いて歩く力を得るでしょう。

共にいてくださる主に力づけられた二人の弟子は、時を移さずエルサレムに留まっている弟子たちに起こったことを知らせに行きました。「一緒にお泊まりください」と願うなら、イエスはその願いに答え、力を注ぎ、復活したイエスを告げ知らせに行く人に変えてくださいます。


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ちょっとひとやすみ
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▼選抜高校野球の決勝戦を見ながら説教を書いていた。「ながら」はよくないのだが、9年前に選手で選抜優勝した若い監督率いる沖縄尚学がまたもや優勝するかという興味の尽きない試合だったので、ついついはまってしまった。結果はご承知の通り、「選手で優勝、監督で優勝」という、何ともドラマチックな結果になった。
▼最近高校野球を見ていると涙が出そうになる。何とも情けない話だが、高校生がはつらつと試合をしているのが、涙をそそるのである。それだけでもおじさんになったのだと痛切に感じるのだが、涙が目にたまってくるうちに、野球ではなくてもっと違うことで泣きたい気持ちになっていることと重なり、つらくなる。
▼泣いたり笑ったりが人生ではあるけれども、うれし泣きではなく別れの涙はやはりつらい。どうしても別れなければならないこともあるだろうけれども、それを知った上で明るく振る舞うのは胸が引き裂かれる思いがする。一日でも、やはり別れは先に伸びてほしい。高校野球を観戦していたのに、いつの間にか違うことと重ねて考えていた。
▼しかしどうしても別れなければならないのであれば、準備をしておいた方がよいのだろうか。準備をすれば、別れなければならないことを表に出すような気がして、失礼になるのではないかと思ったりもする。別れることではなく、今を大切にすることのほうが大事ではないのかとも思い、悩ましい。
▼知らせなければ「なぜ知らせてくれなかったのか」ということになるだろうし、知らせると「こんな場にふさわしくない」という思いもある。一週間に一回の書き込みが、ずっと同じ話題の経過報告では申し訳ない。もう少し考えてから、あるいはいよいよの必要を感じたら、ここでもお知らせするかも知れない。

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今週のセンテンス
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第25回目。諺「親切であるためには残酷でなければならない」。いい加減に更新だね。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:1-10)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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