蕎麦喰らいの日記

蕎麦の食べ歩き、してます。ついでに、日本庭園なども見ます。風流なのが大好きです。

椿寿荘  新潟県南蒲原郡田上町

2008-05-07 23:42:21 | 古民家、庭園
新潟市の南東方向には、不思議と豪農の館が数多く残されている。この田上町にも二軒の千町歩地主が有ったのだ。もちろん、所有する地所は田上町に止まらなかったようだ。


厳しい玄関。建物は大正7年の完成というから、比較的新しい。


それでも、使われている材は実に贅沢そのもの。こちらは原田巻家の本宅ではなく、離れ座敷として造られたという。




それでなのか、庭石の普請にはちょっと考えられない程の配慮が配られている。


離れ座敷のさらに奥の間には、こんなしつらえがされていた。


奥の間から見渡す庭は、新緑の盛でやさしい緑もあるが、いかにもコントラストがきつかった。


玄関からすぐに見渡せる上段の間から、庭の五重塔を見通す。この庭の主なる軸線に当たるようだ。


塔は、立つ位置を変えるごとに、微妙に表情を変える。










この庭の主役は、石だと思う。四季を通じて、なぜこれ程に見せ場を作ることができるのか、そして一歩も退かない世界を演出できるのか。




奥の院の土台は、見事な自然石そのままを使う、なかなか考えられない風雅な造り。薄暗い書院から、あまりにも明るい庭を眺める。



庭に面した庇(ひさし)のしたの丸桁(まるけた)は、吉野杉の一本もの。
この庭に面した廊下などを使い、この日は茶席が設けられていた。余分な音など何一つしない世界で一服の茶を喫する心地よさは、道の教えなど理解しない野蛮人にも一時の清涼感を見せてくれた。


最後の鯖江藩主をめぐる旅

2008-05-07 00:05:56 | 神社仏閣
鯖江の街は福井市の南にある。南には越前の国府であった武生があり、北には北ノ庄より転じた福井市があって、鯖江という藩はいろいろと大変だったらしい。そんな藩の最後の藩主、間部詮勝が安政年間の井伊直弼と同時期に老中を務めたというのだが、なにしろ開国直前の大揺れの時代であり井伊直弼ともついには対立し、免職されてしまう。




この殿様は鯖江では、嚮陽渓という庭園(現在の西山公園の元となった)を作り、なんと市民にも公開していた。庭園の昔の姿は残されていないが、復元された現在の公園も、なかなかの味を出している。
西山公園全体は、遥かに規模が大きく、ちょっとした山歩きの気分が味わえる。


間部詮勝は、書、画も得意であり、間部家の菩提寺である萬慶寺にこのような天井画まで残している。まさしく才人というべきであろう。


詮勝は松堂という号を使った。これは萬慶寺に残る詮勝の書だが、松を更に分解して樹公としている。




こちらは、新潟市の南部の味方にある大庄屋旧笹川家住宅にある間部詮勝の書である。保存状態はあまり良いとはいえないし、説明書きなどは粗末な取り扱いを受けてきたような感じである。しかし、なぜ鯖江の殿様が、味方などをうろうろしていたのか?
鯖江藩はもともとかなり、貧しい藩であったようだ。城の一つも作れずに廃藩となってしまった。陣屋はあったようだが、その跡は全く残っていない。陣屋があった場所は、今日でも市内でもっとも賑やかである。
とすれば、鯖江の藩主は笹川家へ借金しに行ったのではないか、とも思われる。陣屋の跡が全く残っていないのも、借金の方として取られたのではと想像される。
間部家は元々は新潟は村上の殿様であった。おそらく、そのつながりは江戸時代を通じて存続したのではないだろうか。味方を訪れたのも、先祖の菩提を弔うために旅したのかも知れない。しかし、大庄屋が相手で、書まで残すとなると、いささか怪しい振る舞いである。幕末には、大名は経済的には非常に疲弊していた。そして、大名貸しをする商人達が大変な館を建てるようになる。
真相は、まるで分らないが、日本海沿岸のつながりを、強く感じ取ることができた。