ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

人間ドック・ショック 2004-胃カメラ

2005-04-30 | 健康オタク
8月の私の挑戦は 胃カメラだった。
人間ドックで 胃カメラを選択した。

考えてみれば、自分で努力することなしに
人に何かをしてもらうのは
挑戦とはいえないのかもしれないが。


QQQQQQQQQQQQQQQQQQQQQQQQQ

近所の藤。
毎年楽しみにさせていただいている。
今年も綺麗に咲いたところを見せていただいて、
ありがとう!

QQQQQQQQQQQQQQQQQQQQQQQQQ


ラクといえばラクな挑戦だったが、
選択をしたのは、確かに私。
結構悩んだ。

2003年の 生まれて初めての人間ドックの際に
(生まれて初めてバリウムを飲んだのだ)
若いギョロ目の医師に
「浴びる放射線量を考えたら、
 胃カメラのほうがずっといい。」

とか

「今は いいお薬があって、
 点滴の麻酔でウトウトしているうちに
 検査が終わって、
 検査が終わったら 
 点滴に入れた目が覚めるお薬で
 ぱっと目が覚めて 帰れるようになる。」

とか
聞かされていて、
胃カメラに挑戦しようと ずっと思っていた。



ところが 私の後に 亭主が
同じ検診センターで 検診を受けて、
私の勧めで胃カメラを飲んで、
ヒドイ目に合った、と言うのだ。

亭主は 麻酔の点滴はせずに
‘ヒデー不味い’薬を口に入れて 口の中を麻痺させて、
そのまま胃カメラを飲んだそうだ。

苦しくて 涙が出て 鼻水が出て 息が出来なくて
検診で死にそうになった、と言うのだ。



心はかなり揺れたが、これは8月の挑戦、
意を決して 胃カメラで申し込む。

検診センターから 徒歩1~2分の系列病院へ行くと、
看護士が 麻酔を使いたくないそぶり。

「麻酔で。」と重ねて言うと、
「どうして?」と聞かれる始末。

「胃カメラ、初めてで、怖いから。」
と正直に告げ、強情に麻酔を要求。

点滴は もちろん 健側の腕でお願いします、
と忘れずに告げる。



何が辛いって、最初に口に入れる(あとで吐き出す)
口の中を麻痺させる薬、
あれが 不味くって。

これさえなければなあ、と思いつつ 頑張るわたし!

検査室に入って、血圧だか 脈拍だかを測定しつつ、
若い医師に検査をされる。

そんなに苦しくはない。

初めのうちだけ、ちょっとね。

黒いコードが 目の前にうねうねしているが、
目をつぶると うとうと気持ちよく眠れそう。

眠れそうで、眠れない。

一度、むせた。
たぶん、自分の唾液でむせたのだろう。

誰かが背中をたたいてくれた。

検査が終わって、
看護士に むせたのを覚えているか、と聞かれた。
麻酔をうつと、そういうことがあるのだそうだ。



それから、検査が終わってから
しばらく休んだのだが、
「もっと寝たいよ~」という感じで
はっきりとは目覚めなかった。

空いているベッドを探して、
身体を支えてもらって移り、
そこでもう一眠り。
(でも眠れない。)

ようやく起きだすと、
必ずしも スタスタと 危なげなく
帰れるわけではないのだと
看護士が言う。

とにかく、麻酔はしたくなかったようだ。



今年のドックは どうしようかな。

バリウムを飲むのも、
何日も嫌な気分だし。



ダイエット 2005(1)

2005-04-29 | ダイエット
本当は告白したくない。
冬の間に すっかり太ってしまった事。
お腹もブテブテになって せり出してしまったこと。

怖いから、ずっと体組成計に 乗らなかった。


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久々にお風呂に入って 色白になった愛犬。
しばし 室内犬の雰囲気を味わう。
お互いに、落ち着かない。

ふたりで入ったから、
きょうのお風呂は長かった。
やはり、サプリメントは 飲み忘れた。

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ええと。

本日、体組成計に乗った。

体重     56.8kg

体脂肪率   27.7%

内蔵脂肪レベル  4

基礎代謝   1232kcal

体年齢    45歳



告白したくなかったんだけど。

自分でもがっかり。

それなりに いろいろ やってたつもりだったんだけど。

やはり まとまった時間 身体を動かすということは
していなかった。



それにしても。

お腹の出っ張りだって、
春になって 散歩を再開したら、
すぐにへこんできて、
「ああ、去年の貯金が 残っていて、
 すぐに引き締まったんだなぁ。」
なんて喜んでいたのに。

数値が間違っているのかも。

計る時間帯が 昼食前ではなかったから?



とにかく、もういちど 体年齢24歳を目指して
再挑戦だ!

途中経過を自信たっぷりに報告するためにも、
今年は 去年よりも 引き締めなくては。

ダイエット 2004(3)

2005-04-29 | ダイエット
サプリメントというのがある。
食品という扱いだが、
お薬のように感じつつ、なにか健康によさそう、
と期待して飲むことが多いと思う。


sssssssssssssssssssssssss

我が家の庭は 今 いい匂いに包まれている。
‘私の小さい庭’のシンボル・ツリー、
ライラックだ。

これは 息子が保育園を卒園する時の記念樹。
息子は 公立の幼稚園にゆかずに
保育園から 小学校に上がったので
入学の記念樹でもある。

sssssssssssssssssssssssss


ダイエットによさそうなサプリメントは たくさんある。

糖分や油分を 体内に吸収できなくするサプリ、
なんてのもあるが、なんだか 健康に悪そうで、怖い。

カプサイシンとか、アミノ酸とか、
体脂肪の燃焼を助けるものの方が
なんとなくいいかなあ、と。

二瓶買うと安くなる、燃焼系のサプリメント。
戸棚に入れてあるが、
まだ残っている。

・・・・・・飲むのを忘れるのだ!

お風呂の前にも飲んで、とりあえず なくしてしまおう。

でも もう買わないかも。



運動は 
食事のあとにすれば、
摂取したカロリーを消費することができる。

我が家は 夕食時のカロリーが一番高い。

夕食後に歩く、というのは 
近所でも実行している人達がいるが、
有効のようだ。

だが 夕食後には 
たとえ太るパターンと言われようと グデグデしたい。

それに これも太るパターンだが、
年々 夕食の時間が遅くなって、
とてもそんな時間はない。

食べて、お風呂に入って、寝る。

早く寝ないと、
翌朝起きるのがツライ。

別な方法を探る。



夕食後のほかに、
朝食前に運動する、というのがある。

これは 空腹時に身体を動かすので、
体内に貯めていたエネルギー源を消費してくれるらしい。

朝は 子供を駅に送っていくため、
早めに起きる。

送っていって帰ってきてからなら、
時間に余裕がある。

私には最適な 運動の時間だ。



原因不明のアレルギーで 
くしゃみや鼻水が止まらなかった時は
目が覚めたら とにかくすぐに、
なんでもいいから、とにかく食べる、
そして アレルギーの薬を飲んでいた。

食べた後は・・・すぐに動くと苦しい。
お腹が重苦しい。
時には痛くなる。

運動なんて、とんでもない。

私が 毎朝 ちゃんと歩けるようになったのは、
お風呂で毎晩 冷たいシャワーを浴びるようになって、
くしゃみが出なくなって、
朝ごはんをすぐに食べなくてすむようになってから
初めて可能になったこと。

ものすごい因果関係だけど、
うまく回った、ということかな。



運動をして痩せる、その秘訣に、
“運動を終えた後に すぐに運動を止めてしまわないで、
 ゆるやかでいいから 身体を動かし続ける。”
というのがある。

体脂肪の燃焼が続くのだ。

私はウォーキングのあとに すぐに家に入らずに
何かしようと考えたが、
主婦の朝に それほど時間の余裕はない。

ゴミを出す。
洗濯物を干す。

それから、花や木に 水遣りをする。

これで、だいぶ空腹時に動いた感じ。

というより、
夏は これ以上 屋外にいられなくなる。

暑すぎて。

水遣りだって、夏は 朝のうちか夕方でないと
草花が 茹で上がってしまう。

暑すぎて。



いつも 夏は 午後よりはマシだから、
と 朝10時までは 外仕事をしていたはずなのに、
手術を経たあとは
9時を過ぎると もう 外にいる元気がない。

体力は そんなに なくなっていたのだろうか



とにかく、2004年の夏の朝は 
脂肪燃焼に だいぶ時間を使っていた。

これは 日頃 亭主には 不満たらたらな私も
亭主に感謝しなければならない。

家庭の事はともかく、
仕事には 頑張る亭主。

ちゃらんぽらんな 私の仕事振りも、
亭主が ちゃんと稼いでいてくれるからこそ。

ダンナサマ、これからも、どうぞよろしく。
これからも ちゃらんぽらんな仕事で いきますので。
(聞こえちゃいないだろうけど。)

ダイエット 2004(2)

2005-04-27 | ダイエット
歩くと そっちこっち 痛かった。

息子のお下がりのスポーツシューズがいけないのか、
とも思った。

でも 土の土手の芝草の上、
アスファルトの道を歩くわけじゃない。

なんとか 体重を落とさなくては、
運動を含め、何にもできない、と思い、
多少痛くても ぐっとこらえて 歩いた。


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芝桜は、どの色も好き。
白も ピンクも 濃い桃色も。
そして 混ぜて植えてあるのも好き。
悩んだけど、この色に決めた。
だいぶ増えてきて、
薄紫 一色の この芝桜が いま 凄く綺麗。

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腕は 曲げて 前後に振る、とか
忘れていた。

手は 歩き続けると だるくなるので
いつか リハビリ室でやったように
グー、パー、グー、パー、としながら歩いた。

今年は モモンガさんの『標』で 
歩き方を再確認させてもらってからは
腕の振りのほかに 姿勢にも気をつけている。

歩き方は知ってはいるつもりだったが、
必要以上に(犬の落し物を踏まないよう)
下を向いて歩いていたのに違いない。



今日のブログに何を書こうか、と考えながら歩いた。
これは、楽しかった。

実際 パソ子に向かうと、
忘れてしまっていて、書くはずの事を落としたり
書くはずのないことに 話が曲がったり
していたけれど。



多少寒くても 2キロも歩くと 温まってくる。

重ね着していって、途中で 一枚ずつ脱いで
腰に巻きつけて歩いた。
タケノコみたいだ。



雨のときは レインスーツを着る。
本気の表れ。

本降りの時は休むが、
小雨の時に休んでいては
梅雨の間に太ってしまう。

蒸れないよう、メッシュの裏のついた
ショッキング・ピンクのレインスーツを探して、
見つかった。
セシールだった。

でも これを着ることは 年に何回もない。
何回も着なくて済む事は、ありがたいのかも。



2004年の春に 初めて4キロ歩いたのだが、
痩せたい一心、毎日4キロになった。

4キロを40分で歩いたと思ったことがあったが、
考えてみれば 高校生の時の私のペースで
関節痛の今の私が歩けるはずがない。

あれは1時間20分、時計の見間違いだろう。

関節痛は 今は去年に比べるとだいぶいいが、
それでもだいたい1時間はかかる。



往きは 愛犬が頻繁に立ち止まって、
マーキング。

帰りには 愛犬も 何故か禁欲的に
ひたすら前に前にと歩く。

「サイの角のように、ただ独り歩め。」

そんな釈迦の言葉を思い出しながら歩く。

心の中では 
「牛の角のように ただふたり 歩め。」
に変換してしまっている。

私は 仏典はほとんど読んでいないので、
この言葉を知ったのは 中村元の本ではなくて
立松和平の著書でだった。

牛の角のように 毎日ふたりで 
ウォーキング・ダイエット。



それにしても、ただ歩くだけで 
数値が変わっていくなんて。

いままで 如何に運動不足だったかがわかる。

今年も、歩いている。

体重は53キロを目指している。

二十歳の頃には 50キロに届かなかったが、
いま思うと あの頃の私が
本当に健康だったかどうかは ビミョー。

モデルになるわけではないから、
体重は それほど減らなくていい。

体脂肪は できるだけ減らしたい。

できたら体操も休まずつづけて、
筋肉をもう少し付けたい。

そうして、お腹を引っ込めるのだ!

ダイエット 2004

2005-04-26 | ダイエット
散歩の相棒の近影。
美女に撮れてる。
毛の生え変わりの季節がもう少し続く。

彼女がいなかったら 私の散歩の足は 
もっと重いものになっていたはず。

ほぼ毎日 一緒にカロリーを消費し、
一緒に 便秘の解消をしている。



体重60キロは 妊娠の時に体験している。
その時も 膝や、弱点の足首に 痛みが出た。

関節痛が足のあちこちにもある私は
体重のコントロールが必要だと感じたので
とりあえず 安上がりに 歩くことにした。

2004年の春だった。

冬の間に 階段を使って 踏み台昇降運動をした。
以前に買ったワークアウトのビデオに合わせて
身体を動かしてみた。

足首が痛くて 我慢できなかった。

やはりこれは 体重を落としてから、という結論。



本当はプールで歩きたかったのだが、
プールに行くには 家を出ないといけないから、
すぐ近くの土手を歩くのが 一番だと思った。

まず 最強のサポーターとして
デジタル体重計を購入。

体重計は 洗面脱衣所に ひとつ既に備えてあるのだが、
可能ならばデジタルの方がいいらしい。

目盛りを読む時に、つい 体重が軽く見えるほうに
顔を振って 読もうとするから。

買い物の点数を集めてもらった体脂肪計が壊れたので、
これはチャンスと カラダスキャンという、
オムロンの体重体組成計を購入。

「洗面所のが 壊れたわけじゃないんだけど。」
と私が言うと、
「必要なものだから 買っちゃえ。」
と亭主。

かといって 壊れていないものを棄てることもできず、
古いのは 洗面所で現役を続ける。



さて この 体重体組成計、
続けて量ると 数値が変わる。

もちろん トイレに行ってくると 大きく変わる。

つい少ない方の数値を信じてしまいそうになる。

とにかく量る時間を お昼ごはんを食べる前に決めて
月に二度程度 乗っかってみる事にした。

このころにはもう長年の便秘体質を抜け出していて、
快便の後の時間でもある。



初めてこの体組成計で量ったのが 3月27日。

体重     57.2kg

体脂肪率   28.8%

内蔵脂肪レベル 4

基礎代謝   1234kcal

体年齢    45歳




とにかく、歩く。 足が痛くても、歩く。
少しでも お腹が凹みますように。

4月には 風邪を引いて体重が減ったりしたけど、
5月13日には

体重     56㎏

体脂肪率   27.9%



6月15日には

体重     55.4㎏

体脂肪率   27.7%

体年齢    43歳



7月14日には

体重     55.3㎏

体脂肪率   26.4%

体年齢    42歳



これは、嬉しい! 痩せる快感!!



8月30日
 
体重     54.9kg

体脂肪率   25.9%

内蔵脂肪レベル 3

体年齢    24歳

え? 24歳????? うそ~~~~!!!

まさか、と思って何度も量りなおした。
42歳だった体年齢、何の間違いかと思ったが
いきなり 24歳! これは嬉しい!!!



そのあと 食欲の秋を迎えて
多少の増減はあったけど、
体重は だいたい56キロ前後、
体脂肪率は 25~26%、
内蔵脂肪レベル 3~4、
基礎代謝 1210~1230kcal、

そんな感じで冬を迎えた。



そのままキープしていたかったのだが・・・。

寒くなると 外に出られなくなる私。

2004年の最後に量ったのは
12月18日

体重     56.7kg

その後は・・・・・・量っていない。



ああ、あのままずっと 何かの運動を続けていれば
良かったのに・・・・・・・。

なんで農家は朝が早いか(3)

2005-04-26 | 明るい農村
おらあ、毎朝 5時には起きて、
座敷 掃き出して
湯 沸かして
仏様に 茶 上げてっから
新聞見ながら 茶を飲んでんだけどよ。
ヨメは起きて来ねえで、二階でぐーぐー寝てるよ。


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最近のキャベツ畑。
まだへろへろとして ‘巻き’がない。
いつ頃 結球してくるのかな?

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爺さん、あんたんとこのヨメが、フツーなの。
あのヨメは ちゃあんと働いて 給料もらって来てんの。

そのうえ あんたんとこの あのわがまま息子に付き合ってんだから、
それだけでもう 表彰状ものだよ!

と言いたかったが、言わなかった、
となりの爺さんは バイク事故で あっけなく逝った。



年寄りが‘イエ’の実権を握っているから、
農村の発展が遅いんだ。

これは ひとつの真実。



それから、子育て。
子守は年寄りの仕事。

そうすると、考え方が変わるのが ヒト世代遅れる。

これも、真実。



自治会での発言権は60歳くらいで ようやくもらえる。

定例会に出席するのは 必須!!!の義務だが、
みな押し黙って 何も発言せずに 終了を待つ。

一部の男性の年寄りだけが 皆に聞こえるように発言し、
議事は進んでゆく。

ムラは 都会の人には 想像も出来ないくらい
遅れている。



朝早いのは 年寄りの特性でもある。

熟睡するのにも 体力が要るとか。
科学的根拠は知らないが、納得してしまう。

そして 年寄りが 様々な事を牛耳ってきたから、
農村は 朝が早い。

これも、真実。



朝星夜星(あさぼし・よぼし)と風さんがおっしゃった。

その言葉の通り、
朝は日の出る前から、夜は 日没まで 
農民は 田んぼや畑で 身体を使って 働いてきた。

‘働き者’は 無条件に尊敬する私。
それは 母がやはり‘働き者’信奉者だった影響がある。



みんな 
モノの少ない戦後から、
いや、
天皇家が東京にお引越しする以前から、
ずっと農民は そうして生きてきた。

とても大切な事。
とても偉い事。

でも 不必要なまでに 古い因習にとらわれている人も
まだ残っている。

金田一耕介が出てきそうだ。



古い 美しい風習は絶やさずに
新しい考え方を どんどん取り入れる、
そういうのは 無理なのだろうか。

なんで農家は朝が早いか(2)

2005-04-25 | 明るい農村
最近の当地では 
キュウリの箱を満載した軽トラックが
一定の方向へ向けて走る姿が
目立ち始めている。

ビニールハウスで栽培したキュウリだ。


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ブロッコリーの菜の花は
ほかの菜の花とは違って、
薄い色。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


軽トラックに積んだ 箱詰めした野菜は、
市場へ向かう。

市場に付くと、人は 軽トラックから
降ろし安い場所に 野菜を降ろそうとする。

降ろしやすい場所から 野菜で埋まっていく。

だんだんに 広い市場の 奥の方に 
降ろさなくてはならなくなる。



仲買いの大型トラックが 買いに来る。

仲買いは 積み込み安い所から 大型トラックに 積み込もうとする。

だんだんに 奥の方に入らなければ 積み込めなくなる。
 
広い市場の 取っ付きの場所に置かれたものから先に
野菜は 積み込まれてゆく。



野菜は 取っ付きに置いたものから先に売れる。

取っ付きに置いたものの方が、高い値段が付く。



同じ野菜を、同じ手間をかけ、同じ土壌で作り、
同じ作柄であっても
置いた場所によって 収入金額に差が出る。

農家は 少しでも多く収入が欲しいと思うと、
早朝の市場へ向けて
軽トラックを走らせる事になる。

米を作っていた 実家のある地方では
あまり目にしなかった光景だ。



農村には 異常なまでに 身体を酷使して 働く人がいる。

農家って、こんなに大変だったんだ、と
私は当地へ来て ビックリしてしまった。

実家で過ごした日々には 
まだ子供で 目に映らなかったのかもしれない。

全国で 農民は 同じように身体を酷使し、
同じように 競争し、
同じように 天候を心配しているのだろう。



やはり、願はくは、

天候が安定して、

働いただけの見返りを 耕作者にもたらさんことを。

世界中の農民に 勤労の喜びと 収穫の喜びとを。

世界中の人々が 朗らかに お腹を満たさん事を。

朧月夜

2005-04-23 | 考えたこと
菜の花畑に 入り日薄れ・・・

この季節、
この小さな川を渡るたびに この歌を口ずさむ。

この歌と 菜の花の香りは 
幼い頃の実家の‘オカ苗代’の近辺の
菜の花畑を思い出す。

‘アブラナ’と呼んでいたが、
油を採った記憶はない。

やはり お浸しにしたりして食べる菜っ葉を畑に作り、
種をとるための花をさかせていたのだろうか。

マライア・キャリーが どんなに歌がうまくても
ナイス・バディーでも
この歌の風情を歌い込むことは できないなあ、と思う。



この小さな川の菜の花は
地元ではちょっとした名所だと思う。

一面の菜の花、とくりかえす 印象的な詩があったが、
まさに、そんな風景だった。

歌を歌わない時は
「いちめんの菜の花・・・・・・」
とつぶやいていた。

昨年の夏のたびたびの大雨で
川岸がえぐられ、切り立ったように削られて
菜の花の咲く場所が すごく少なくなってしまった。

すごく残念。



子供たちが小さい頃から
菜の花の時期には ここに来て
菜の花に囲まれた子供たちの写真を撮りたいと
念願していた。

ところが実際は 今年に入って初めて行った。
これが二度め。

子供は大きくなってしまった。
あの子たちが小さいうちに行きたい所、
したいこと、やってあげたい事は 山ほどあったのに。



とろけそうにいい香りの菜の花は、
どこか切ない 胸締め付ける匂いでもある。

そして『朧月夜』の歌を歌うときも
同じように胸は締め付けられる。

なんで農家は朝が早いか(1)

2005-04-22 | 明るい農村
あれは放射線の順番を 
地下の廊下の長いすで
待っていた時のことだろうか。

にんじん農家に嫁に行った友達が
朝が早くて苦労をしている、
という話が続いていた所へ
私が口をはさんだ。



「近所の私の友達もね。」
結婚したて、最初の妊娠、
気苦労の中で、嫁ぎ先(ウチの、ごく近く)では 
カブを作っていた。

舅・姑が起きて働いている時に、
嫁がグーグー寝ているわけにはいかないと
頑張って朝早く起きていたが、
辛かった。。。

という話。



それを聞いた人が、
「あらー、カブもなの?」
と言った。

にんじんやカブに限らず、
農家は全体に朝が早い。

早いような先入観もある。

けれど、実は、本当に早い。


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写真は まだ寒い頃にシンちゃんにいただいた 
ほうれん草の束。
巨大な束だった!!!

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ほうれん草は 双葉が ひょろ~んと長い。

ひょろ~んと 左右に長いのが 芽生える。

ほうれん草を出荷する時には
畑から収穫してきたほうれん草の山に囲まれながら、
まず 落ち葉や 雑草や ごみを 取り除いて、
黄ばんだ葉や 土や 根、
それに‘ひょろ~ん’の双葉を取り除いて、
根元を揃える。

これを当地では ほうれん草を‘つくる’という。

きれいに‘つくった’ほうれん草をいただくと、
やはり始末がしやすいので、うれしい。



カブやにんじんは、畑から引き抜き、
出荷する前には きれいに洗わなければならない。

野菜に付いた畑の土が
まだ朝露の湿り気が残っているうちにしないと、
きれいに洗えないのと聞いた。

だから、カブを作っているときには
普段よりぐぐっと朝が早くて、キツかった、
というのが、近所の友達の話だった。



聞いた話だから、確実ではないが、
農家が 消費者のわがままに合わせて、
手間をかけているのは、事実。

以前に 『まがりキュウリ』で書いたことがあるが、
かすかに曲がったきゅうりを 選別でハネる。

長ネギも太さによって 等級が分かれる。

なんとも面倒な話だ。

海外の市場で 
観光客が一般の人に混じって買い物をする時、
新鮮な野菜や果物が 
大きさも形もバラバラで売られていて、
しかも味が濃くておいしい、
なんていうテレビ番組を見ていると、
羨ましくて仕方がない。

日本では 見た目はきれいだけれど、
味も香りも薄くなってきているように思っているので。
(どうやら、栄養成分まで 薄くなってきてるらしい。)



本当に 早朝に引き抜かないと カブやにんじんは
洗っても 泥がきれいに落ちないのだろうか?

キッチンがドロドロになるのは、そりゃあ、確かに、
嫌なんだけども。

年寄りたちの畑

2005-04-22 | 明るい農村
息子に「クマ年生まれ」というネタがあるように、
娘には「パパとママが年を取った時の畑」というネタがある。



写真はいつも散歩する土手の下、河原の側の畑地。

黄色い帯は 多分 菜の花、
緑の部分では 多分 牧草を育てている。



一級河川の河川敷の管理は、国土交通省。

自治体が一括して借り上げて、希望した者に貸してくれる。

借りていた人が体が利かなくなると、「もう要りません」、と返す。

こうして 所々 虫食いのように
荒地に戻る畑が出てくるようになって 久しい。

以前なら たいてい 隣の土地の耕作者が引き継いでくれたものなのだが。

我が家のすぐそばの河川敷では 
もう耕作者がいなくなってしまった。



一度耕作をやめてしまった田んぼは、
元の収穫量に戻すまでには 何年もかかるという。

畑だって、こんな荒地になってしまったら、
きっとすぐには 元通りに野菜を収穫できないだろうと思う。

けれど 荒地は 最初は少しだったが、
だんだんに 増えてきている。

日本タンポポが 日本中のあちこちで
西洋タンポポに取って代わられて、
もう元には戻らないように、
これから 荒地が減る事はないのではないだろうか。

そんな気がしてならない。



娘の話というのは、彼女が小学生になった頃かと思う。

私は大きくなったら ‘オトナ’になる、
パパとママは もっと大きくなったら、
お爺ちゃんとお婆ちゃんになる、と
やっとと理解できた頃の話。

「パパとママが お爺ちゃんとお婆ちゃんになっても、
 ウチには畑がないよ。
 どうする?」
と、心配そうに聞いてきた娘。

不安のあまり、泣き出しそうだった。



何の事だろうかと、いろいろ聞いてみると、
知ってるお友達のお爺ちゃんやお婆ちゃんは
みんな畑で仕事をしている。

なのに、ウチには畑がない。

パパとママが年を取っても、
畑がないと パパとママが困るだろう。

そんな可愛い心配をしてくれていたのだ。

今でもからかうと、娘は
「私、あの時、ほんっきで心配してたんだから!」
と怒る。



大いに笑わせてもらったが、
確かに娘の言うとおり、
近所の 娘が知ってる子供たち
(年上、年下、すべての知ってる子供たち)には
お爺ちゃんか お婆ちゃんか または その両方がいて、
本当に全員 畑で仕事をしていた。

土地を(あまり)もってない人は、
河川敷の畑を借りたり、
よそのウチの畑を借りたり、
あるいは 集荷場で仕事をしたり、
とにかくお野菜にかかわった仕事をしていて、

ウチみたいな 純粋な消費者としてしか
野菜とかかわらない家は、ほとんどないのだ。



それが ここ10年ほどで、
畑で働く人口が ぐっと少なくなった。

ジャガイモを作ると美味しいという、
河川敷の畑が
荒地に戻ってきている。

年寄り達が みな もっと年を取って
鬼籍に入ったり、
施設に入ったり、
元気ではあっても 体が利かなくなってきたのだ。

広報誌に「耕作者募集」と載せても、
街中からは離れているせいか、
家庭菜園を作ってくれるという人は 
現れてはいないようだ。



こうして畑地が減って 荒地が増えれば、
少しずつだが 生産量は減っていく。

ぼんやりと暮らしている私も、
未来の農業を心配せずにはいられない。

農業のみならず、食料自給率が上がらない、日本の未来も。

私の顔

2005-04-22 | なんでもないこと
これは、最初に見た時に どっきりとした、
『バガボンド』第16巻の表紙の小次郎の顔。
他人とは思えない!



『バガボンド』(講談社)とは、井上雄彦のマンガ。

原作は吉川英治の『宮本武蔵』。

このマンガの中の小次郎は 
聾唖者として描かれている。

我が家には 1~20巻まで揃っている。



母の言うとおりに鼻を整形していたら、
こんな顔になってたかも。

いや、眉と目の間は もっと離れている。

そう、内田光子、あのピアニストに似てるかも。

だたし、鼻を整形すれば。



美しい顔には憧れるけれど、
整形手術は受けないだろうなあ。

小学校の文集発見!

2005-04-20 | なんでもないこと
実家を探検していたら、
私が小学生の時の文集が出てきた。
後ろにクラスと名前が書いてある。
ヘタクソな字。


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ヒヤシンスに、シャーベット・オレンジのがあった。
珍しい色だと思う。
オレンジ色の鮮やかなパンジーと合わせてみたら、
ヒヤシンスはイマイチ目立たなかった。

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低学年の生徒の作文が、
かなり優秀で、しかも面白い。



1ねん   はたけへ いった こと

 きょう おばあさんと はたけに とうもろこしを とりにいきました。
 かえりに ばったを つかまえました。



1ねん   りょこう

 りょこうで かしまの みなとを つくって いる ところを みて きました。
 かえりに うみで みんなと およぎました。
 うみは きいろや あかの ぼうしが いっぱいで きれいでした。



1ねん   ようとんじょう

 ごごから ようとんじょうへ うしを みに いきました。
 くにおちゃんの おとうさんが ぎゅうにゅうを しぼっていました。
 うしは こうしも いました。
 おとうとが えさを やりました。
 えさは ほしくさでした。



多いテーマは
えびがにとり(これは、アメリカザリガニ)、お手伝い、
プール(全ての小学校にプールが設置されたのはずっとあと、
‘お出かけ’しなくては プールに入れなかった)、
ボール投げ、旅行、お祭り、盆踊り、遠足、魚釣り、などなど。

古きよき時代の子供たち。
自然の懐の中で遊びまわっているように見える。

しかも、作文も上手。
先生の手直しが入ったのか。




私の作文は 『国立博物館』というタイトル。

  「あ、着いた、ほら。」
  「変わった建物だな。」

  とうとう着いた。国立博物館。
  どんなものがあるんだろう。

  六月十日、私達は 東京旅行で国立博物館に、
  見学に来たのだ。

  国立博物館は 日本式の石で造った大きな建物と 
  緑っぽい中国式のような建物と、
  一番古いくすんだ建物と 
  三つがならんでいた。          云々。

これで、六年生の作文だ。

全部で18行。

リキが入ってなかったのが、今見てもわかる。



思わず持って帰って来てしまったが、
どうしたものか。

棄てるに棄てられない。

里帰り 2005.4

2005-04-20 | 考えたこと
昨日 久方ぶりに実家へ帰ってきた。
やはり正味三時間くらいしか居られないが、
お彼岸にできなかった墓参りができた。

母の顔を見、姉夫婦の顔を見、犬と猫とをいじくる。
皆<それなりに>元気。
(義兄と猫は太りすぎ。)




写真は、駅へ送ってもらう途中の景色。
当地と変わらない風景だが、
平らな土地はすべて田んぼ。
薄くかすんだ筑波山がこの方向に見えていたが、
写っていはないようだ。

田んぼは‘田おこし’もまだのところが多かったが、
ワセを植えるのだろう、早くも水の入った田もあった。




母の山野草を撮ろうとデジカメを持って行ったが、
母は不眠に悩んでおり、
シンビジウムも山野草も 放棄してしまっていた。

それでも わずかな畑や広い庭の草むしりを頑張っている。
<それなりに>、元気。

母は山菜を採りに行くのは 一人では行けない。
昔から。
姉とはシカトし合っているし、
膝は痛いし、
もうしばらく採りに行っていないらしい。

私がそばに暮らしていたら、
家事も仕事も二の次に、一緒に採りに行きたい。

できないからこそ、そう思うのかもしれない。



私の行きつけのスーパーには
最近 切花の他に 花苗や山野草の苗を置いている。
黒いビニール・ポットには
地元野菜の生産者の名前の
バーコード・シールが貼ってある。
お野菜の他に、
こんなものも作っているのか、と思う。

先日は一人静の苗を買ってきた。
母への土産にしようかと、
‘山野草の土’を使って 
山野草に似合う小さな鉢に植えたが、
花はもう終わってしまった。

実家に変ええるつもりの日が
延び延びになってしまったのだ。



明日は実家へいよいよ帰れるか、という日に
買い物に寄ると、
二輪草の苗があったので、買い求めた。

‘山野草の土’を使って いい加減なプラ鉢に植え付け、
気を使いながら電車を乗り換えて
持って行った。

母はさっそく鉢皿に載せて
客間(と、呼ぶのかな)の座卓に載せた。

以前は自分で咲かせた
カラマツ草や花煙草、岩南天、などなど、
いろいろな山野草が花や実をつけると
その鉢を座卓に載せ、
愛でてみたり 自慢してみたりしていた。

小さな蕾が開く頃には 
もっと天候は安定しているだろう。
そしたら 母ももっと元気になるかもしれない。



リラックスの下手な母は 
睡眠のとり方も下手なのかもしれない。
山菜や山野草にウキウキできる体力と
気力と 友人とが 母と共にありますように。

予防接種

2005-04-18 | 考えたこと
先週、ブログの記事の更新をサボっている間に、
愛犬の狂犬病予防接種があった。

今年からいままでとは違う場所で行われる。

新しい接種会場は 愛犬にとっては 
選挙の時にだけ 連れて行ってもらえる場所。

いつもは行かない道を、
薄桃色のかたまりに向かって、
私も軽い興奮とともに歩く。

桜は はらはらと散り始めていた。



接種会場に着くと、
愛犬はびっくりしたようだった。

当然のことながら、
周りは犬でいっぱい。

室内で飼われているような、
お金もかかりそうな名犬は
獣医のところへ行くらしく、
大き目の雑種が多い。

軽トラックの荷台で 
大声で吼えっぱなしの大型雑種も何頭もいる。

その吼え声にビビりながらやってきたら、
建物の前は いつもと様子が違う。

チックンとお尻に痛みを感じる、
年に一度の あの 恐怖の場所だ!



受付まであと少し、という場所まで来て、
鉄の意志で もう一歩も進まないぞ、と
抵抗する愛犬。

係員が見つけてくれて、
私のところまで来て 受け付けてくれた。

愛犬はますますパニックとなり、
押さえようとする私はしりもちをついた。

すぐに出るようにポケットに入れておいた料金を渡す。

注射器をもった白衣の人がやってきて、
私はしりもちをついたまま
必死で愛犬を押さえ、
やっとのことで接種を済ませる。

そのあと鑑札やシールの入った袋を持って、
また 係員が私のところまで来てくれた。



愛犬は 力は強いけれど 気が小さくて、
これまでの予防接種も 怖さで固まっているうちに
すんなり終わっていたので、
この抵抗にはびっくりした。

きっと 今日も選挙だ、と勘違いしていて、
「えっ、嘘っ、
 選挙じゃないの?
 いやっ、お注射、キライ!
 だまされたワーっ。」
とでも 思っていたのではないかしら。

昭和30年代

2005-04-11 | 昔語り
今 何故か 昭和30年代がブームらしい。

書店で モノクロばかりの写真集を見た。
愛・地球博の‘メイとさつきの家’も人気が高く、
入場の予約方法を変えるとか。
春の全国交通安全運動のポスターのダイハツ・ミゼットも
懐かしい雰囲気。

私の中で 昭和30年代は 
セピア色の 記憶の断片でしかない。
もっとも、昭和40年代の記憶だって
前半は おぼろなのだが。


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色とりどりのヒアシンス。
満開の桜は 白黒写真で見ても
その雰囲気を感じる事はできるけど、
そのほかの花の写真は カラーでないと。

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書店で見た写真集は、
「いやん、私、こんなに古い人間じゃないワ。」
と言いたくなるような、雰囲気。

でも30年代は、確か、
戦後の雰囲気をを引きずっていたように思う。

「もはや戦後ではない。」
何代目の首相だかが そう発言した頃はまだ
田舎は 思いっきり 戦後。
というか、戦前。

高度成長の波は まだ届いていなかった。



実家の辺りは 稲作が中心だったから、
一升いくら、という 物々交換経済が残っていたし、
電気は灯りくらいしか 使うところがなかったし。

私が生まれた頃は 
つるべで井戸水をくみ上げていたというし、
煮炊きはカマドだった。

電話は 近所の商店のオバサンが走って呼びにきたし、
(なんか電話の横のハンドルを 
 くるくる回していたようだった。)
そのあと農集電話というのが出現したけれど、
これは不便なシロモノで、
一般電話に切り替えるきっかけになった。

もう、まるっきり、メイとさつきの世界。

そういえば あのアニメ映画は
娘のお気に入りだったけれど、
本当は親のノスタルジーをかきおこしたので
一生懸命ビデオに録画したのではなかったか。
(当時のレンタルビデオは 録画できちゃったのだ。)



メイとさつきが 冒頭で乗っていたオート三輪も、
未舗装の国道を走り回っていた。

車の台数が増えたら 国道も舗装されたけど、
きっと40年代に入ってからだと思う。

白黒で撮った記念写真、
我が家はミゼットではなくて、
ラビットというスクーターだった。

コロモの裾をひるがえしてお勤めに行く住職、
最近でも見かける。

その次が中古のセダン。
クラウンだった。
お金持ちになった気がしたものだ。



日本中が、
今日より明日は豊かになる、という確信と希望に
あふれていた。

けれど、‘きょうの食べ物’は そう豊かだったわけではない。

「米の飯を喰いたければ、野良さ出て働け。」
そういう土地柄だったから、
父も母も 田んぼや畑で 汗を流した。

寺に農地が残されていたのは、幸いだった。
(もちろん、ほとんどは 解放されていた。)

働けば働くだけ、収入は増えた。
(お寺は、違うけど。)

両親も寺の収入を補うために
懸命に働いていた。



年に一度しか収穫できない米。

だからいつまでも 「盆勘定、暮れ勘定」の習慣が残る。

父は子供を養うために 勤め人になった。

寺は母が支えた。

全国にそんな寺が多かった時代。


物や食べ物の豊かさは 今とは比べようもないが、
近頃 やたらと そんな昔が懐かしい。