ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

胃ろう

2006-03-30 | なんでもないこと
土曜日の同窓会・病院行きから帰宅して
私は亭主に聞いた。

「おばあちゃんの左足、見た?」

翌日曜日には義弟から電話があり、
私は義弟に聞いた。

「お義母さんの左足の事、知ってる?」

ふたりとももちろん知っていた。



なんでも 高熱を発して寝たきり状態になったあと
まもなく床ずれができてしまっていたのだそうだ。

足のむくみは その傷に細菌が感染したのだろうと。

なかなか治らないのは 栄養状態が悪いからで、
明日の月曜日の手術は
栄養状態の改善をもたらすから、
そうしたら よくなるのではないか、と。



それぞれ 実家を離れて暮らし、
それぞれに仕事をもつ義母のふたりの息子たちと嫁たち。

介護は義父とふたりの息子が担い、
嫁たちはあくまで協力者であったからか?
床ずれのことまでは聞き及んでいなかった。

私が不信感を持っていた「月曜日の手術」も
それなら納得がいく。

胃に穴を開けて チューブで栄養を送り込む、
そのための小さな手術だ。

それでも手術は手術、
義父もひとりでは心細いことだろう。

土曜日に病院を見舞った義弟も
日曜日には単身赴任先に帰った。

平日は 土日祝祭日が忙しい亭主が担当だ。

亭主は 実家に持っていくいろんなものを
玄関に高く積み上げて休んだ。

明朝に車に積みこんで行くつもりだ。



私のほうは
土曜日は
楽しく充実した日だったのに
身体は疲れたらしく、
鼻の中が 幾分膨れて痛みが出た。

体力の衰えた時期を見逃さない口唇ヘルペスの類だろうか?

10万キロ

2006-03-29 | なんでもないこと
私の車は 1000ccの、コンパクトカーと呼ばれるもの。

駅までの子供の送り迎えや
スーパーへのお買い物が主な目的で使う。

子供達が中学と高校にそろって進学する時期をはずして
その前の 娘が中学3年生に進級する春に買ったから
丸6年たつ。

高校進学を控えた娘が
毎日(!)駅前の塾に通うのを支えたし
息子の音楽教室(これも駅前)の送り迎えもしたし
とにかくコンスタントに乗っているので
近場をグルグルしているだけなのに
5万キロ近く走っている。



亭主の車は白いワンボックス。

初めの頃は
義父母が来た時に 一緒に晩御飯を食べに出かける時に
みんなで乗り込めるように、と選んだものだった。

たまに仕事で遠くへ出かけたり
ごくごくたまに亭主の実家へ行ったりと
一日で何百キロも走る事はあっても
逆に毎日車庫で寝ている事もあり。

購入して5年経っても
走行距離はたいしたことがなかった。



そう、我が家は 車はつぶれるまで乗るタイプ。

不思議と夫婦でそうだった。

義弟は2、3年で買い換えている。

それはそれでいいのだろう。

乗る人の嗜好が違うというところか。



例の(?)
忙しいばかりで儲からない仕事を引き受けてからというもの、
亭主の車はよく走った。

大荷物を積んで。

ワンボックスは荷物が積める。

仕事を依頼した人たちも 大助かりしたことだろう。



後から購入した私のコンパクトカーよりも 
走行距離が短かったこのワンボックス、
そろそろ買って10年を迎える所だった。

亭主によれば、
慣れ親しんで 手足となっている感覚だったと言う。

できれば車検をもう一度受けて、と思っていたが
走行距離が10万キロに達しようとしていたため、
新車購入の話になった。

そんな中、走りに走ってきたワンボックスの電気系統が故障した。

まさか 自分の運命を悟ったわけじゃないだろうけれど。

新車を選んでいる最中にも
車に乗らないわけにはいかない。

地元の頼れる車屋さんに修理を依頼したら
代車にワゴンRが来た。

まだ新しく、私のコンパクトカーの隣に置くと、
ワゴンRの方が大きい。

しかも、ロックしたりロックを解除したりすると
スモールライトがピカッと点く(笑)。

エンジン音だけは、軽自動車なんだけど。



私が軽乗用車を買ったのは
娘の幼稚園の送り迎えに使うためだった。

亭主が留守の時に
子供が急病になった時に 医者に連れて行くためだった。

軽がいいわ、と 可愛い 黄色い車を選んだ。

まだ当地に慣れ親しんでいなかったので
イバラキの 亭主の従兄弟の車屋に頼んで
いろんな機能満載の 大満足の軽自動車に乗っていた。



それが コンパクトカーを買う頃には
近所の車屋さんが頼りになるとわかったので
そちらにお願いした。

黄色い軽は 車屋さんで 代車として時々使われており、
我が家にもやってきた事がある。

可愛い(?)エンジン音と 座席の低さには
乗るたびに 驚かされる。

去年 免許をとって 
車の運転をしたい娘は 車を持っていなかった。

娘名義の農協の定期を解約して 中古の軽でも買えば、
という話にはなっていたが

何しろ 車がないと動きの取れない田舎の事、

そして なるべく遅く帰りたい娘の事、

(遅い時間に迎えに来てもらうと 親がブーブー文句をいう、
 タクシー代は数千円、
 加えて 
 遅い時間に親はもう体力の限界を超えて起きて待っていられない;笑)

「ただでいいよ。」
と 黄色の軽をもらって 
娘は喜んで乗っていた。

いや、喜んではいないだろうけれど、
そりゃあ、助かるもの。

その黄色の軽も あちこち 順番に 少しずつ壊れており、
もうすぐ車検が切れる。

そんなこんなで
この春
我が家の車は 変革の春だった(笑)

ミミダコ?

2006-03-28 | 乳がん
3月7日発売の ESSE4月号(発行:フジテレビジョン、500円)に
ムーミンママのマンマ日記(http://blog.goo.ne.jp/mooming-mama)の
ムーミンママさんの体験談が載っている。

「早期発見がなにより大切です。 乳がんと子宮がん」

「女性の病気のなかで 
 とくに気になるのが、乳がんと子宮がん。
 
 年齢に関係なく、
 だれもがかかりうる病気です。

 でも、 早期に発見して早期に治療すれば、
 治せる病気でも あるのです。

 この病気を体験した読者の声と専門家のアドバイスから、
 早期発見のために私たちがすべきことを探りました。」(p171)

他にも 収納の工夫、お掃除、お弁当やおかず作りのヒントなどが満載!(笑)

ぜひ ご一読を!



検査を受けていても 発見が遅れる人もいる。

治療を受けていても 悪化する人もいるだろう。

けれど 大部分の人は 
早期発見できれば
治療の期間も(比較的)短く、
苦痛も(比較的)少なく、
再発や転移の心配も(比較的)少なく、
そして
治療による身体への負担も
治療にかかる経済負担も(比較的)少なくて済む。

(この「比較的」と書いた部分は
 実は「圧倒的に」と書いた方が正しいかもしれない。)

私の場合も、もう少し早く見つかっていれば
術後の乳房の変形が こんなに大きくなくて済んだはず。

再発の恐怖も 少なくて済んだはず。

同じ後悔を どうか 皆さんは なさらないように。



癌はもはや、
早期に発見できれば
(たいがいは)
完治できる病気なのだ。

みなさん、ぜひ 検診を!

「もし癌だったら 恐いから。」
なんて、
理由にならない理由で 検診のチャンスを逃さないように!

乳がんと子宮がん、
どちらも増えていて
しかも 若い人たち(20~30代)にも増えているという。

ぜひ 多くの人に 検診を受けてもらいたい。



そして 癌友のみなさん、
きょうも そして あしたからも
明るく生きてゆこう。

癌は ゆるやかな死をもたらす病気でもある。

人は生まれたからには みな いつか 必ず死を迎える。

一日 一日を (なるべく)悔いなく 生きてゆこう。

(なるべく)充実した日々を この世の思い出にできるように。

私の余命は 
まだ あと 40年と少しある(はず)だけれど(笑)。

病院へ

2006-03-26 | 考えたこと
女の子(!)だけの同窓会Ⅱ、
二次会は喫茶店でコーヒーとケーキだった。

幹事が手近で美味しいお店を見つけてくれてあって、
美味しくいただいたところで、
4時間かけて山梨から来たという女の子が席を立った。

それなら私も、と もうひとり席を立ったので
私もポンと立ち上がった。

もう少し、と思っていたけれど
ここで私も駅へ向かおうと。



駅まで3人で、そして駅の構内に入ってから
ふたりは上り、私は下りのホームに分かれた。

常磐線でもう少し先へ行き、
入院中の義母を見舞うためだった。

タクシーで向かった病院の 教えられた階の
ナースセンターの近くに 
義母の病室はあった。

義母はベッドの上でおとなしくしていた。



誤嚥事故以後にグループホームから移った老健で
高熱を出し、
その後も熱がなかなか下がらないので
老健と提携した近くの病院に入院していたのだ。

それからもなかなか微熱が下がらずにいた。

検査の結果、
どうやら誤嚥性の肺炎による発熱らしい、
とのことだった。

義母は流動食でも誤嚥を起こしたのだ。

発熱以後は 食べ物を受け付けないので
点滴で栄養をとっているとのことだったが

私が行った時には 点滴は何もされていなかった。



うとうとしていたらしい義母に挨拶をして
私は義母の手をとった。

院内は暖かだったけれど
薄い毛布の中の義母の手は冷たかった。

「お義母さん、寒い?」
と聞くと コクリと首を振る。

毛布を肩までかけてやり、
私は義母の手をマッサージした。

両方の手を揉んだり押したりしながら
取り留めのないおしゃべりをした。

義母の脳は どれほど正常なのか?

わからないけれど、
全てがダメになっているわけでもないだろう。

「息子はねえ。文系でねえ。数学がねえ。

 せめてもう少し 英語ができたらいいんだけど。」

「娘はねえ。

 今、息子が通ってる同じ塾で、
 アルバイトで先生をしてるのよ。

 中学生に、英語を教えてるの。」



離れて暮らしていてさえ 
この人とはいろいろあった。

一緒に暮らしていたら違う感情が湧いていたろうけれど

最近では 義父が車を運転して 我が家にやって来る、
という事もなくなって久しい。

まして アルツハイマー、
まして 熱を出して入院中とあって
私は精一杯 優しい嫁になった。

時々顔を見せる看護士や看護助手らしい人にも
嫁として挨拶をし、

挨拶で中断されては また 義母に語り続ける。

義母は 私が話す娘や息子の話を
綺麗な潤んだ瞳で じっと私を見ながら 聞いてくれた。



義母の両手がほかほかになったところで、
「お義母さん、寒い?」
と聞くと 義母は 首を横に振った。

私は満足して 今度は義母の足をさすった。

毛布を上げて右足を見て、軽くさすった。
足は冷たくはなかった。

今度は左、と ベッドの反対側に行き、
左足をさすろうと 毛布を上げた。

びっくりした。

義母の右足は パンパンに腫れて、
今にもパンクしそうだったからだ。

少しさすってみたが、
さすりながら「やってもいい?」と聞くと
手を揉んだ時とは違って、首は横に振られた。

これだけ浮腫んでいたら だるかったり
触っただけでも不快だったりするのだろう、と
無理はしなかった。



帰りの時間には まだ少し間があったので
もう一度 手を揉んだ。

はじめの頃 うつらうつらしていた義母も
だんだん顔つきがハッキリしてきていた。

「あ゛~」と声を出した事も2、3度あったが
何を言いたいのかは わからなかった。

ただ 義母の手を揉んでいる私の手を
もう一方の手でつかまえては
力強く握り締めてきた。

何かを訴えたいのかもしれなかったが
表情は暗いものでも悲しいものでもなく
静かな、そして明るいものだった。

義母の言いたい事がわからないのは悲しいが
機嫌がいいのは私も嬉しかった。

そんなこんなを1時間半ほどして
「じゃあね。」
と別れた。



この日は土曜日、
義弟が 単身赴任先から 戻って来て
義父を連れて病院へ見舞いに行ったはずだったが
私とはすれ違いになって 会えなかった。


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画像フォルダに 偶然 取り込んであった 椿。

これまで あまり目立たない存在だったが
私が注目してから
綺麗な花を咲かせてくれるようになった気がする。

その割には汚い?(笑)

いつ頃開花するのか わからなかったが
これで 
2月末から3月末が花の季節だと やっとわかった(苦笑)。

女の子?(笑)

2006-03-24 | 考えたこと
お正月が過ぎて こんな葉書が届いた。



「女の子だけの 同窓会 2


 ○○○○○卒業のお姉さまがたへ

 2006年、あけましておめでとうございます。

 いよいよ40代ともお別れが近づいてきましたが、
 皆様 ますます元気で ご活躍の事とお慶び申し上げます。

 まもなく半世紀を生きようとする勢いの私達。
 
 この勢いを さらに加速させるために、
 またもや 女の子だけの同窓会を計画しました。

 みんなで集って ますます元気になりましょう。」



懐かしいふたりの女の子(!)の名前が幹事として書かれている。

これは行きたいでしょう!(笑)



期日は 2月の土曜日。

予定表を見る。

あ~、やっぱり。 忙しいや。



それでも亭主に参加を許可してもらえたのは 
私が癌になったおかげ。

そして、苦労して育てた娘が大きくなって
その日 手伝ってくれたおかげ。

当地に来てから 休日がなく(ついでに健康診断も受けた事なく)、
当然、クラス会や 同窓会は 出席したことがなかった。

いろんな意味での幸せをかみ締めつつ
上野から常磐線に乗る。



利根川を渡ってイバラキ県に入るとすぐに取手駅。

取手を過ぎると 急に田舎の風景になる。

けれど 駅舎は 近年 急に近代化して 
駅の周りの風景も 大きく変わった。



姉を見舞う時にバスに乗り換えた駅で降りる。

遠くから来る人への配慮か、学校があった場所ではなく、
常磐線の駅の近くのすし屋が会場だった。

エスカレーターに乗ると
後ろから呼び止められた。

私の後ろと その後ろ、偶然 同級生だった!

わー、きゃー 言いながら エスカレーターで上まできたら
「○○じゃないのか?」と、
私の旧姓を呼ぶ声。

「せんせい・・・・・・・。」

もう、声にならない。

懐かしい担任の男性教師が、
小柄な体格と綺麗な声だけはそのままに、
ひかえめだった髪はいよいよたよりなく、
若々しかった肌はシミだらけで(笑)
そこに立っていた。

それにしても、私って、そんなに変わってないのかな?



私の学年は 女の子(!)が44名だった。

そのうちの14名が出席した。

ひとりだけ、42歳の時に 心筋梗塞で急死している。

私とは小・中・高と同じだったし
部活で一緒だった事もあって その時のトラウマは
まだ少し残っている。



14名とは まあまあの出席率だと思う。

うち リコンしたのが3名、
夫と死別したのが 3名、
夫に苗字を変えてもらって婿取りして地元にいるのが3名。

子供の受験で来られない、という人が多かった。

子供は 小さい子は小学生、
一番大きい子(?)は27歳だとか。

話せば見えてくる、昔と変わらない笑顔。

いい年の大人になって、
立ち入りすぎない配慮もできて、
でも 遠慮はしない。

話は尽きない。

料理よりも おしゃべり!



女の子だけ、というのに 
恐れずに来てくれた勇気ある先生が3名、
声をかけたのが 全員男性の先生だったらしい。

女の子だけ、というのに
なぜか図々しく参加してきた男子がふたり。

なんなんだ、こいつら(笑)。

後日 送られてきた写真を見て
♪だーれが生徒か、先生か?

ほんと、男の人って 老けるの、早いわね。

というか、老けると誰だか、わかんないのよね。


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ノートパソ子が帰ってくるのを待ちかねて
事務所のデスクトップで記事を更新。

やっぱり足元が冷えるんだ、ここ。

絨緞ひいとけばよかったかなあ(笑)。

パソ子、再再再再入院!

2006-03-20 | なんでもないこと
そろそろいい加減に新しい記事も写真もアップしたいのに
パソ子のスイッチがオンにならない(涙)。

どうやらコードがいかれてるらしいので
新しいのを買ったら 一万円近くした(涙)。

それなのに パソ子は 
ウンともスンとも言わない(涙、涙)。

それで今朝 本体を持っていってもらった。



やっぱな~。

このデスクトップはな~。

キーボードのタッチがな~(涙、涙、涙)。

それに、おいてある場所が寒いし。

deleteキーの場所も違うし。



世界は 春を迎えて 華やかに成ってるってのに。クヤシイ。

もう一度ただいま

2006-03-07 | なんでもないこと
亭主の実家に行って おさんどんをしてきました。
まだみんな実感がなくて
それでいて 気分が変に高ぶっている所もあって
興奮気味? 元気いっぱいです。
義父のおしゃべりをたくさん聞いてきました。
お返事は 明日できると思います。
ゆっくり楽しみながら お返事したいと思います。
亭主の実家には ドライヤーがないので
髪を洗いませんでした。
二泊が限度です。
髪がベトベト~~~(涙)
入院した時に もう二度とこんな頭にはなりたくないと
思ったんだった、
と思い出しました。
早くお風呂に入りたい。
おやすみなさい。

ただいま

2006-03-03 | なんでもないこと
ご心配をおかけしたみなさんに こころからお礼を申します。

ありがとうございました。

昨夜遅くに戻りました。
戻った途端に忙しい。
ああ、週末だったわね、という感じです。
長男の嫁としては はなはだ 頼りない人間だったと思いますが
とにもかくにも ご葬儀は終わりました。
いくつかブログネタもありますので そのうちにご披露できるでしょう(笑)。
今はほっとしています。

これからのことを考えると どうなっていくのか、心配がいっぱいです。
これから義父は ひとりでどうするのでしょう???
親不孝な長男も少しは考えるでしょうから
ヨメはどう影響を受けるのでしょう?
リポートは続きます、という感じかな?
亭主の実家に行ったり来たり、が増えると思います。
これまで デレっと過ごして来た私も
少しは忙しくなるかしら?

週末の忙しさを まずは乗り切って
来週を終えれば・・・また週末が来るじゃないの!
まあ、ぼちぼちと やっていきます。