ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

愛しのおっぱい(2)

2004-08-31 | 乳がん
放射線治療に通う日々に リズムがついてきた。

大好きな新聞を読んでいて、
『ブラック・ジャックになりたくて』という本が出た、
という記事を読んだ。
間もなく、そのブラックジャックになりたかったという医師の
講演会があるという記事も掲載された。

亭主に行きたいと申し出ると、
許してくれた。
日曜日なので、ドキドキしながら 言い出したんだけど。
多分 子供の 運動会を除いて、
初めて 日曜日に、しかも 一人で 出かける。

2003年2月2日。
『乳房再建の最前線』の講演会は、
澁谷クロスタワーホールという所で 開かれた。
澁谷で降りるのは、久しぶりだったし、
初めての場所に 一人で出かけるので、
少し、ドキドキ。

講演は 『ブラック・ジャックになりたくて』の著者、
岩平佳子先生。
白っぽい髪の色がきれいで、パワフルなしゃべり方で、
ステキな女性。

いただいたパンフには、
よく太った赤ん坊に 乳房を含ませる 豊満な女性の絵があり
(ルノアール?)、
「乳房をうしなってしまったあなたへ、失うかもしれないあなたへ
 ――乳房再建について知っていますか?――」
とある。
「乳房を失ってしまったあなた」に、私は 入ってしまったんだなあ、
と思う。
こんなはずでは なかったんだがなあ、との思いがある。

乳房再建というのは、
そういうのがある、くらいの知識しかなく、
自分とは縁のない話だという認識でいたから、
初めて目にし、耳にする事ばかり。
ティッシュ・エキスパンダーとか
ソフト・コヒーシブ・シリコンなんて、
ほんと、聞いた事なかった。
腹直筋という言葉なら、最近では スパスパ、あるあるで
目にするけれど。

講演の後半では、スライドを多用して、
いろんな実例を 自分の目で見る事ができた。

だけど、私が 求めているような、
完全に左右の形・大きさの違いが わからないような、
完璧なスライド写真は むしろ少なかった。
プチ・成形などと呼ばれるものもあり、
広く行われるようになった形成手術だが、
乳房に関しては、まだまだ 完璧ではないことが 多いのだ。

その上、より自然な乳房を作るためには、
自分のお腹の筋肉や(ハイ、腹直筋です)、
背中の筋肉(広背筋というそうです)を移植するので、
新たに お腹や背中に 傷ができる。

費用がかかり、入院せねばならず、
しかも 傷が残ったり 不自然な形だったり、では
思い切りがつかない。

しかも、
私が その時続けて受けていた 放射線治療、
これは すぐに再建するのには 向かない治療だった。

私は、
すぐにでも 
今までと同じ おっぱいが 欲しかったらしい。
左腕の作業が できるようになるのと 同じ位、すぐに。

アメリカに比較すると、
がん治療だけでなく、
術後の形成手術についても かなり遅れている、日本。
保険がきく、きかないも、理解に苦しむものもある。
病気の治療の一環に 形成術がある、という認識の芽が、
やっと、ほんのちょっぴり 出てきたところ、
という感じ。
全摘出の人の場合は、
やはり 違いが歴然としているので、
より 重要度が 高いとは思う。
温存手術の人の 資料は、それにしても、まだ少ない。

スライドの中にあった、
アメリカの 乳がんで手術した女性達の ヌード写真集の明るさに
救われたような気持ちになりつつも、
私は 大いに がっかりし、
また、どっと 疲れて 帰宅した。

寒い、寒い、冬の日曜日。
完璧な乳房再建は、難しい、と悟った日。
がっかりして ホールを出てきて、
それでも 本屋に立ち寄って、帰った。



放射線療法

2004-08-29 | 乳がん
2003年1月20日。
放射線の初診。
始まる前から 終わる日を 数えていた。
ところが今日は 説明とマーキングのみ。
さっそく 一日 終わる日が ずれた。

放射線といえば、原爆とおなじ、
なあんてことは 考えなかった。
やるのが 当たり前と 思っていたから。
被爆するのが怖いと、嫌がる人もいると 後で知って、
ふ~ん、てなかんじ。
ニブイだけか。
放射線治療は 食事制限がないって事を
喜んでた。
のーてんきオバサン。
 
放射線治療室は 地下にあって、
そういえば 少しばかり 厳重そうな感じ。

マーキングでは、上半身裸で、
両手を 頭の上で組んで、
まな板の上に乗って、じっと動かないでいる。
情けない姿だ。
ところが 技師のおじさんは、
音楽をかけて、鼻歌交じりで、
あちらへ こちらへ、飛び回っている。
結構ハードな 仕事のようだが、
とても楽しそう。
時間がかかったけど、おかげで我慢できた。
胸には 赤い線と黒い線が引かれた。
消えないように、お風呂でこすっちゃいけないんだって。


1月21日。
放射線治療 第一回目。
皮膚のピリピリなど、な~んにもなかった。
あっという間に終わった。

入院中、私の下着のシャツを見ると、
看護士が 「あれ?」 てな顔をする。
「裏返しなの?」
「いいえ、これが わたしの表なんです。
 縫い目が 肌に当たると、ごろごろして 痛いから。」
すると みんなに心配された。
放射線治療で 肌がひりひりすることが あるからと。
案外 心配するほどのことは なんじゃないか?

週に2回、放射線科の医師の 診察を受けつつ、
放射線を 胸にかける。
角度を変えて、2回。
これを、月曜から 金曜まで、5週間、25回。

帰りに バス共通カードと JRの定期券を購入。
憧れてた、SUICA にする。
私が定期券を使うなんて。
なにしろ 外に 出ない生活。
娘が生まれる 一ヶ月前までは 定期を使って
私鉄、国鉄、地下鉄と 乗り換えて 通勤していたけど、
こちらに来てからは 
イトーヨーカドーに 月に一回 買い物に行きたい、
が口癖の私。
毎日 電車に乗って お出かけなんて。
通いきれるかどうか、不安がすこし、
ドキドキ、わくわくも 少し。

ところが、間が悪く、
リニアックという機械を一台、
新しくて良いものに 交換工事中とかで、
一台しか 稼動していない。
毎日1~2時間、待たされる事になった。
朝9時に 家を出て、
駅前の駐車場に 車を置いて
電車・バスを乗り継いで病院へ。
病院で 放射線を浴び、
バスで 駅まで。
帰りに 駅前で お昼を食べ、
電車に乗る。
電車を降りて、駐車料金を払って 車を出し、
家に帰るのが 5時過ぎ。
一休みして、晩御飯の支度。
こんな日々が 始まった。
 
毎日同じような時間に 放治に来る人たちとは、
自然に顔なじみになる。
乳腺の患者が多い。
つまり、おばさんが いっぱい。
胸のピリピリは ちゃあんと始まった。
みんな、ガーゼのハンカチを胸にあてたりして、
それぞれに工夫していた。

日々の楽しみは、
駅前のデパートで食べる、お昼ご飯。
これが一番の楽しみだから、何が食べたいか、
よーく 自分自身に聞くようになった。
そば・うどんが 多かった。
ファスト・フードは 食べたくなかった。

湯葉あんそば、 鍋焼きうどん、
味噌ラーメン、  天ぷらそば、
けんちんうどん、ほうれん草のスパゲッティ、
きのこそば、   梅紫蘇巻きかつ定、
カツ煮定食、   鴨せいろそば、
カツ丼、      ボンゴレ、
ジャコのピラフ、 キツネそば。

毎日、贅沢していた。
亭主には 内緒。
だって、お昼が楽しみだったんだもん。
安いときで キツネそば、577円。
一番高かったのが、梅紫蘇巻きカツ定食、1301円。

もう一つの楽しみは、
本屋さん。
デパートに一軒、駅ビルに一軒、この2箇所には 
良く立ち寄った。
そして 何かしら本を買った。
本屋に行くと いつも何かしら買うのだが、
毎日のように行っても、その習慣で何か買ってしまう。
一番高かったのが、これ。
『乳がん全書』福田護編著、法研、2002.3.26、2300円。
近くの本屋だったら、絶対買わない。
がんセンターの近くの本屋だったから、買えた。
この本は、わかりやすかった。
私の、お勉強の、はじまり、はじまり。









怒涛の更年期症状

2004-08-27 | 乳がん
思い出した、思い出した。
その年の暮れには、
姉が 料理を送ってきてくれたんだった。
カレーや シチューは どうだったかな?
覚えているのは お得意、ブタの角煮と、
スタッフド・チキン、これは 中に詰めたお米が
すごくおいしくなってるんだ。
忘れてたよ。
おねーちゃん、ゴメンネ。
やっぱり、たいしたものは
作ってなかったんだなあ。


寒がりの私が、
オイルヒーターを 弱~くするほど、
夜中に汗をかいた。
全身ぐっしょり 汗まみれ。
下着も、パジャマも。

入院直前、成長した息子に
新しいベッドを買うために 家具屋に行った時に、
亭主は 私に 新しいベッド・パッドを 
プレゼントしてくれた。
キャメルのパッド。
お高い。
信頼している店長が、
「私も 夫婦で使っているけど、これはいい。」
というので、突然 買ってくれることになった。
(ホントは、私は、セミ・ダブルのベッドを
 買ってもらったほうが、嬉しかったな。
 シングルは、小さい!)
キャメルのベッド・パッドぐらいじゃ、
どうにもならない。
暑い。

着替えると、今度は 衣類の冷たさで
手足が 冷える。
特に 手指の関節。
とりわけ、左手の 中指と薬指。
これ以上痛くなるのが 怖い。

2003年1月16日、
病院に電話して、
薬の副作用が出た事を告げ、
明日、リュープリンの注射の後に
外来へ行く事にする。

1月17日、
2回目のリュープリン注射。
その後、外来受付へ。
主治医は、
手の指の痛みの話に 顔を曇らせて、
「早すぎる。」
という。
副作用が 出るのが、早すぎるというのだ。

実は 私は 
二人目の子を出産した後、
軽いリューマチになっており、
元々そういう 体質ではあった。
リューマチ因子の数値は たいしたことは なかったが、
あちこちの 関節が冷え、
冷えると痛み、
特に 足首の 保温用サポーターは はずせない。
手指の関節が 朝は 固まって動かなくて、
バネ指にもなっていた。
七五三を控えた 娘の長い髪を 
幼稚園に登園する前に、 
結んだり みつあみにしたりするのに、
毎朝 必死だった。
いつのまにか 軽くなっていた。

主治医に
そういう体質である事を告げた。
入院中にも そんな話は したはずだと思ってた。
手術後 左手の ひじや手首が 冷えて痛んだ時だ。
手術の際に、術側の手を 吊っておくからだ、
と看護士にいわれた記憶がある。
その時は、ホットパックを 懸命にして、
気にならない程度にはなっていたんだけど。

すると主治医は 
それは 注射の副作用だ、と言う。
飲み薬の ノルバデックスは 弱い薬で、
注射の リュープリンは 強い。
それは 注射の 副作用だから、
やめるとすれば、注射を止める、
しかし そのかわりに 抗癌剤に 切り替える、と。
抗癌剤は、
髪がぬけたり 吐き気があったりの
副作用がある、というお話だった。
もう少し様子を見る事にして、帰宅。

抗癌剤というのは、言葉の響きが 恐ろしい。
せっかくホルモン療法が 適用になって、
抗癌剤を使わなくてよかったのに。 

その日の晩は、左足の親指の付け根が 痛んだ。
ほかに 副作用で 同じように関節痛になった人は、
どうしたんだろう?

1月19日の日記。
左手指の関節が痛む。
これがもっと痛むのが怖い。
全身に広がるのが怖い。
子供達が小さかった頃、
あの頃と同じ位の症状なら平気だ。
それ以上になったらどうしよう。
ベッドのなかで、不安でいっぱいだった。







はじまり、はじまり

2004-08-26 | 乳がん
その年末は 大掃除は、あきらめた。
完璧に 何もやらなかった。
御節料理も、スーパーで ごっそり買って 済ませた。
‘こづゆ’も作らなかったかな?
覚えてないなあ。
ところどころ 記憶が 跡形もなく 消えてて、怖いね。

年が明けてからは 忙しい日々が続くのだが、
仕事、干されてるから、暇。
テレビを見て、ネットサーフィンをして。
どこにも出かけないから、人に会わない。
どうやら私は 人に会ってないと、生きていけない?
正月の日記には、
「退屈な正月。
 必要とされていない寂しさ。
 引きこもりと言うべきか、
 押し込められと言うべきか。」
などと 書かれていて、
今週の私と 同じ事を 考えていたらしい。

2003年1月9日の日記に、
初めて 寝汗の 記事がある。
夜中に 暑くて目が覚める。
夜じゅう つけておく オイルヒーターの 温度設定を 
ぐっとおさえておくようになって、
やっと改善。
夜中や 朝方、必ず目が覚める。
寝る前や 目覚めた時に 
術側の肩と腕、それに 手足が冷えて不快。
更年期症状の、はじまり、はじまり。

1月10日
退院後 初の診察のため、がんセンターへ。
採血があり、リハビリ室へ。

リハビリの先生と、
リラックスして おしゃべりを楽しむ。
脇の下を中心にして、
胸、背中、腕、体側と、十文字に つっぱりがあり、
一番痛い 背中の線を 主にマッサージ。
人の手が 当たるというのは、心地よい。
リハビリの先生でなくても、きっと いい気持ちだろう。

時々 術側の 左胸のあちこちが 不定期に痛むし、
冷たいものを飲んだときに、
液体が体の中で 左胸のあたりに いったん溜まって、
それから落ちていくような感覚があり、
そんな話を ちょっとしてみたら、
皆さん そんな話をなさるそう。

リハビリの先生の話では、
私の主治医は、何についても、
「それが 収まるには、一年や二年は かかるんだよ。」
とよく言うのだそうで、
でも この 不思議な 胸の感覚は、
1年や2年で 本当に なくなるのか?
と、すごく不安。

毎日の体操の甲斐あって、
日常の動作に 不便は感じない。
もう来なくて良いですよ、と言われてしまった。
がっかり!


外来の前に行くと、
手術同級生のふたりが 並んで座っていた!
少しだけ おしゃべりを 楽しむ事ができた。
いろいろ お話を聞くと、
術後の経過も、退院後の自宅ケアも まちまちのよう。
お二人は、ホルモン療法の注射は していない。

順に 診察室によばれては 帰っていく。
私の番が来た。
月経第一日目に リュープリン注射をしたが、
そのあと 月経がダラダラ続いたことを 話すと、
「2回目の 注射から もう 生理は なくなるからね。」
と主治医。
そこで私は 頭の中が 空っぽになってしまった。
更年期症状についての 心配事が 頭を もたげてきていて、
ほかにも いっぱい 
報告したい事や、聞きたい事が 山ほどあったのに、
ずべて すっとばしてしまった。
メモを持っていくべきだった、と悔やんでも、遅い。
とりあえずは 異常なしで ホッとして 帰ったのだが。

ホルモン療法で そんなにすぐに 月経がなくなるとは
思っていなかったのだ、私は。
知識が 不足していた。
治療に関して、かなり 受身だったし。
頑張らなくても 医者が 治してくれるもの、
と思っていたし。
それにしても、
主治医の前では 言いたい事の半分も
発言できない自分がいる。
小学生の時とおんなじだ。









リンパ節切除とQOL

2004-08-24 | 乳がん
入院当初に アンケート(?)に記入した。
「あなたは どんな性格ですか?」
というような問いに、
「能天気」と書こうとして、
「脳天気」か「悩天気」か 悩み、
「ノーテンキ」と書くのだけはやめて、
「のうてんき」と書いた。

手術後しばらくして、
佐藤看護士が 病室に来て
「趣味の事なんだけど、」
と言う。
アンケートに 
「趣味――ガーデニング」
と書き込んだ事を思い出し、
「ああ。ガーデニングです。」
と返事をしたら、
「ん、その、ガーデニングなんだけど、
 止めてください。」
と言うではないか。

びっくりして、とまどって、ちょっと むっとして、
でも なんとか 冷静に 考えた。
「私は 毎日が仕事で、どこへも出かける事がなくて、
 やっと見つけた趣味が ガーデニングです。
 止める事は できません。」
すると 佐藤看護士は、
「ん、じゃあね、ゴム手袋をして、
 けがをしないように、気をつけてね。」
と、あっさり引き下がって 帰っていった。

いなくなった後で、
「ああ、これが 聞いた事のある、
 クオリティー・オブ・ライフの 尊重、ってやつか、
と思って、くすっと 笑ってしまった。
笑った後で、やっぱり、いきなり止めろは ないだろう、
と 少し 腹が立った。
そして その後で 、なんでだろう と不安になった。

リハビリ室の前の 掲示板には、 
リンパ浮腫についての 記事が 貼ってあったし、
象の足のような 足をした人が 何人も
リハビリ室で 治療を受けているのを 見ていたが、
わたしには いまいち リンパ浮腫というものが
わからない。
まして、自分が リンパ浮腫になりやすいなんて、
考えが 及ばなかった。

私よりもむしろ、心配性の亭主の方に、
怪我したら怖いぞ、という考えが 浸透していて、
「気をつけろよ。」
とうるさく言われての、台所再デビューだった。


一番 ショックだったのは、
疲れる事。
たいした事は していないのに、
台所に 足で 立っている、それだけで 疲れる。
休み休み やるしかなかった。

夕飯の時間に 亭主が 仕事場から 顔を出す。
「ゴメン、あと30分くらいかかる。」
「よし、あと30分仕事してくる。」
暮れの 忙しい時期だったので、
仕事は きりなくあったはずで、
おかげで 私は 夕食が 遅くなる事に
すまなさを感じる事が 少なくて済んだ。

私の 出しの お味噌汁。
私の 切り方の 油揚げ。
たいしたものは 作らなかったけど、
それなりに ママの味の 食事だったはず。

けれど たった2、3日で 中断した。
包丁で 左手を 切った。
そりゃあ、今までも たまには そういうこ事もあったけど。
たった2、3日で だったので、
家族は ずいぶんがっかりしたのに 違いない。
今にも泣き出しそうな、娘の怒ったような顔は、
忘れられない。

しつこく 消毒もして、
丸一日ぐらいで 復帰してからは
順調だった。
豆腐は 左手の 手のひらの上で 切っていたが、
なにも まな板で 切ればいいんだし。
(今はまた 左手の上で 切っている。
 べつに、手のひらまで 切るはずもないし。)

炒め物や 揚げ物で 油の ハネが気になる時は、
今でも少し怖い。
夏でも 長袖の エプロンを(その時だけは)着けて、
コンロに向かう。
あるいは、
ちょうど かくれて食べていた アイスキャンディーを
親に見つかって、
体の後ろに隠している 子供のポーズで
調理する。

それにしても、
鍋が重い。
やかんも重い。
最近 新調したのが、どれもこれも 重い。
鍋も、フライパンも。
なんでこんなに重いのばかりを 買っちゃったんだろう。

それなのに、まるで 
意地を張るみたいに、
私は 今までどおりに 左手を 使っていた。
右利きの私は、複雑な動きを 右手で、
単純な力仕事は 左手で やる。
それを 通そうとしていた。
今までどおりに 何でもできると、
自分で 自分に 証明してみせたかったようだ。
1リットルの だし汁の入った 片手鍋、
これを持てなきゃ、なんにもできないだろう。
なのに、これがなかなか シンドイ。
意地を張って やってたおかげで、
今は 平気で 持てる。
けれど そうなるまでには 
腱鞘炎になったりして、
力の入れ加減、抜き加減が 難しい。
無理をするな、というけれど、
どこまでが“無理”なのか、
誰か 教えてくれー。


これだけは 作って食べたい、食べさせたいと
思っていたのは、
コロッケだった。
実は これは 私にとっての、‘オフクロの味’なのだ。
ジャガイモを つぶして、小判型に 丸めて、揚げる。
昔 母が作った 味と形。
手間が少し余計にかかるので、
あまり作ってもらえなかったけれど、大好き。
滅多に作らないけど、大好き。
コロッケを たくさん食べたらしい家族に、
母の味の コロッケを。
ウケタ。
思いきり、うけた。
「スーパーで 売っているのとは、
別の食べ物だよ!」

これからは 時々は 作ってあげるからねー。
――でも、それからまだ 一度も作ってない。





健康オタク

2004-08-23 | 乳がん
もともと あまりやってなかった、仕事は。
癌とわかって、
「やらなくていい。」
と言われる事が 多くなった。
「なんで。」
と抵抗して、いつもどおりに 生活しようと していた。
退院すると、
はっきりと、仕事を 干された。
亭主に。
それはそれで、ラクチンで いいんだけど。

数日、ご飯の支度が 終わるのを 待つだけの日々。
ウチの亭主は、はっきり言って、過保護。
幼い頃の、母のよう。
そして、私は待つ間に 何をしていたか。
テレビを 見ていた。

「ママの 仕事は、リハビリ」
と 子供達にまで 浸透されていて、
「何か手伝おうか?」
と聞くと、
「ママは リハビリしてなさい。」
と 娘にまで 命令される。
恵まれたリハビリ環境。
朝から、テレビや ラジオの 放送にあわせて、
体操、体操。

6時半からの ラジオ体操には 間に合わなかったけれど、
朝食の後は 何度も何度も
体操の機会がある。
ラジオ体操、テレビ体操、みんなの体操。
―――みんなの体操は、初めてだった。
体操した気がしない、穏やかな 体操だけど、
ひとつだけ、終わりの方に、
ぐっと 腕を斜め上に 突き出す動きがある。
これだけは 少し気持ちがいい。
けれど、手術をした 左側の腕には、
かなり やりがいがある。

左も 気持ちよく 伸ばせるようになると、
自信がついてくる。
なのに、部屋の壁を 指で 
尺取虫が 長さを測るように 這い上がっていくと、
脇の下が 苦しい。
腕の中に 筋が一本 入っていて、
それが 腕の中で ぴーんと張って、つっぱってるみたい。
その筋の周りが、動かした後は 痛い。
めげる。
腕を揉みながら、壁から 離れる。
「ママ、すぐにやめちゃう。」
と思われていたに違いない。

そして、
「どう?」
と 両腕を上げて 見てもらうと、
「だいぶ 上がるようになったよ。」
と言われるのだ。
自分では 左右同じ位 高く上げているつもりなのに。


子供に つきあってもらって、愛犬を連れて 
数回 散歩に行った。
養護教諭の家は 我が家のすぐそば、散歩コースのそば。
「ああ、リハビリ頑張ってるなー。」
と思って、見ていてくれたそうだ。
だが、時は 冬。
年末。
寒さもあって、それほど何回も 歩いたわけでは なかった。


入院中から、
夜寝る時以外は、なるべく ベッドで
横にならないようにしていた。
退院してからは、なおさら。
なのに、することがない。
普段は あまり見ないテレビが、お友達。
世は、ダイエットブーム。
まるまる、スパスパ、あるある、がってん。
いろんな番組を、かなり真剣に 毎日見ていた。
私だって、くびれが欲しいし、
お腹を 凹ませたい。
真剣!


また、
あれが カラダにいい、これが アレにいい、
という番組が たくさんある。
師匠の教えも忘れて、そうか、そうか。
と、これも真剣に聞く。
聞くのは 簡単だが、毎日作るのは 容易ではなく、
しかも 今作っているのは 私ではない。
2,3日すると、
あれを 作ろうか、食べたいな、食べさせたい!
という 欲求も 出てきて、
いよいよ お台所に 再デビュー。

オリンピックによせて

2004-08-22 | 考えたこと
連日 日本選手の予想外の活躍で テレビのスイッチが 
なかなか切れないでいる 私です。
録画じゃなくて、ライブで見たい。
名場面は 何度見ても 感動しますが、
じんわり 寄せてくる 静かな感動さえも、
ライブならではのものが あります。

特に、
特別好きでもない柔道で、
塚田真希選手の
「負けか!?」
と思った、次の瞬間の 逆転に、
感服しました。
金メダルです。

それまで 流してきた汗や
悔しさや 迷いや 後悔や・・・
いろんなものが 彼女にも あったでしょう。
そんなことを 
表彰台の上の 彼女の表情に 重ねて 考えると、
じ~んと してしまいます。

せっかくですから、君が代を聞きながら、
日の丸の掲揚を じーっと 見てから 休みました。

そして
日の丸を見ながら 思った事。
こうして 日本の選手が 活躍して、
君が代が流れて、
日の丸が 揚がることを、
東南アジアの ほとんどの国々は、
同胞の活躍、とばかりに 喜んで見てくれては いないのかしら。

私だったら、
高校野球では 
関東の高校の活躍、
それでなければ 東日本の 勝利を 期待して 応援しますし、
オリンピックでも 
ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカの 諸国ではなく、
アジアを 応援して見ています。
特に 東アジアの国々の活躍は、
身内の活躍のように 嬉しく思います。
イラクで 人質に取られ、犠牲となった民間人が 
今度は 韓国の人だった、と知った時の 胸の痛みは、
明らかに 欧米人の時のそれとは 違って、
やはり 身内の痛みのように 感じました。

それでも 東南アジアの諸国は 
日本憎し、の思いが強くて、
私が 今 感動している この場面で、
不快感を あらわに、あるいは 憎しみの瞳で、
あるいは 怒りの 言葉を発しながら 見ているのでしょうか。

台湾の 黄霊芝という 俳人は、
日本語で 俳句、小説、詩、短歌などを 表現してきたので、
公的な発表の 機会を失ってきたそうです。
日本語を使うこと、それが 批判の対象になるのです。

古田博司という人が いうには、
東アジア諸国において、
「近代国家の歴史は 日本への抵抗から始まったものであり、
 反日は 修正不可能な、いわば国是なのだ」から、
私たちは 敵意を持たれている、
「はっきりそう覚悟を決めてかかった方が良い。」
       
そうして彼は
「不協和音の原因は、彼らの側からの 
 バッソ・オスティナート(執拗に繰り返される低音)
 なのではないか」
という。           (2004.8.18 夕刊 10面)
バッソ・オスティナートという言葉は 始めて知ったけれど、
以前オウム真理教で 初めて耳にした サブリミナルのような
効果が あるのかしら。

反日が 国是。
バッソ・オスティナート。
執拗に繰り返される低音。
だとすると、日本が アジアの中で
まるで 鬼のように 嫌われる事態は、
そうそう変わりそうにない。
戦後の日本に起きたような、
価値観の器を ひっくり返すような 革命でも 
起こらない限りは。

願はくは、
スポーツの祭典などを通して、
彼らの 心情を 幾分かでも 和らげる事が できますように。
(ワールドカップの共催に際して、
 ウルトラス・ ニッポンと レッド・デビルズの間に、
 友情の 芽生えが あったように。)
彼らに 冷静に見る目を 持つことが 必要だと、
認識してもらえますように。
彼らの目に、現代日本人の ひとりひとりが
独立した 個々の 素晴らしい人間に 見えますように。
自立し、責任感を持った 日本人が 増えますように。
そして、
なにより、
世界に 平和が 訪れますように。

愛しのおっぱい

2004-08-20 | 乳がん
こんなタイトルを つけると、
乳房全摘出を した人みたいで、
気が引けるけど。
乳がんの 手術をしたと 言っても、
乳房温存だったし。
抗癌剤は 使わなかったし。
だから、髪が抜ける事も なかったし。

だいたいが、
乳腺外科の患者が、がんセンターの中では、肩身が狭いような所がある。
手術の翌日には 点滴も取れるし。
だから、すたすた 歩きまわれるし。
みんなで 集まって、おしゃべりに 花を咲かせてるし。
一日に 4人ずつ 手術するから、
同級生が 必ずいるし。
なんせ、女性ばかりだし。
「探検」とか「お散歩」とか言いつつ、
病院の中といわず、外といわず、団体で のっしのっし 歩いて。
みんな みんな 明るくて 元気だし。
「私、がん患者です。」
とは、威張れない感じ。

それでも 私の癌の経験は これだけで、
他の人との比較は まったく 無意味。
私の おっぱいも、これ一組しか ない。


退院後 最初の 試練は、
家族に おっぱいを 見せることかと思う。

最初の数日は、
亭主が ご飯を 作って、
子供達が 配膳を 手伝って、
その間 私は お風呂に入る、
という 生活になった。

我が家の お風呂前後の 裸体披露度は、
セミ・オープンといったところ。

実家の 両親は、テレビの部屋で テレビを見ながら 服を脱ぎ、
すっぽんぽんで 洗濯する衣類を 手に持って 
風呂場へ 行った。
帰りは 当然、すっぽんぽんで テレビの部屋へ 戻って来る。
完全なオープンタイプ。
子供が 女二人だったから、できたのかもしれない。

私たちは、
着衣のまま 脱衣所へ行き、
出てくる時には 
パジャマに 完全に 着替えていたり、
フル・ヌードで 出てきたり、
セミ・ヌードで 出てきたり。
脱衣所のドアも 閉まっていたり、開いていたり。
セミ・オープン。

私が お風呂に入る前後に 
ハダカで 洗面脱衣所に いる時に、
亭主や 息子が タオルを取りに、
あるいは 汚れ物を ランドリーバスケットに 入れるために、
入ってくる。
または
開け放した ドアの向こうの廊下を 
ダイニングに 向かうために、あるいは 部屋に向かうために、
通る。

その気配に、
初め 私は 正直、ビックリして、ドキドキして、
戸惑った。
あわてて隠すべきか。
手術した 胸を。
最初のその時が、隠そうとしても 間に合わなかったので、
以後は 平気なフリをした。
しばらくは ドキドキしながらだった。

男二人には、
見せまいとすれば 
見せずに済んだはず。
が、一度 見せてしまえば 開き直れるので、
退院後まもなく 見せてしまって、
後は 気が楽になった。
努力も 必死も 勤勉も 不得手だが、
開き直りは 得意科目。

娘は、入院中に 傷口の消毒に 居合わせて、
「どれどれ。」
と 声に出して、ベッドサイドに 見に来た。
あとで、どうだった?と聞くと、
「ふうん、って感じだった。」
とのこと。

娘には、女として、
こんな病気があり、
母親が 罹患し、
結果、片方の乳房がこうなった、
と しっかり 見ておいてほしい気持ちがあった。
意外に早く 見てもらえて、
恥かしい気持ちも 戸惑いもあったが、
よかったと思う。



入院中の 主治医の回診の時に、
「ここが へこんでるんですけど」
と言ってみたことがある。
乳輪に沿って、弧を描いて、
へこみがある。
はじめは 目立たなかったが、
日を追うに従って はれがひき、
乳房が 少し しぼんだ感が あった。
乳輪に沿ったへこみは、いっそうくっきりしてきていた。

その時の 主治医の 態度と 言葉は、
何度も 思い出される。
主治医は ちょっと せっかちな感じの人で、
早口でしゃべるし、
体の動きも きびきびして すばやい。
だから 余計に 人に冷たく当たるように 感じられるのだろう。
私が 問いかけた言葉に、
主治医は、
「それは、あなたの癌が 大きかったんだから、しょうがない。」
とだけ言って、
さっさと 部屋から 出て行ってしまったのだ。
逃げるように 出て行ったような 印象が 残る。

「あなたの癌が 大きかったから」
それじゃあ、まるで、私が 悪いみたいじゃないか。

泣きたい気分になった。

でも
繊細さとかは とうに どこかに 
置き忘れてきた私には
涙も あまり 残ってなくて、
泣きたくても 出てきてはくれない。





MY 乳がん―退院

2004-08-18 | 乳がん
その日の日記には、
明け方に見た 夢の事しか書いてなくて、
次は 元旦になる。

2002年12月23日(月)、天皇誕生日に 私は 退院した。
ひとりで 退院手続きぐらいは できるけど、
家まで 荷物を持って 電車で帰る 自信はなかった。
亭主は 土・日・祝祭日は
普段から 仕事で忙しく、
迎えに来るのが難しい。

本当は 前日の日曜が 退院日だったが、
迎えに来れない。
この日は なんとか 空いていたので、
この日を 退院日にした。

子供を 出産した時も 同じだった。
娘が生まれたのは、春のお彼岸前の 土曜日。
退院予定が お中日。
同じ日に 出産した人が 一日早く 退院するのに、
「忙しいから もう一日 余計に 入ってろ。」
といわれ、
お中日が過ぎてから 退院した。
お寺の娘にも、意外な 苦労がある。

さて この日は 
亭主の仕事が 年中無休が 原則なので、
娘を 留守番に 残して、
息子と 亭主の 二人で 迎えに来てくれた。

息子を 「カワイイ」と言ってくれてた 看護士が 
ちょうどこの日 いたので、
息子とのツーショットを 撮った。
二人とも ニコニコ楽しそうで、
ママの 癌の手術入院の 退院の日とはいえ、
いい記念写真になった。

手続きや 挨拶をすませ、
腹ペコで 退院。
三人で 和食の店に 入った。
最近は 和食の ファミリーレストランが あるので、
嬉しい。
しあわせな お昼ごはん。

スーパーに寄って 家に帰る。
こんなに 家を空けるのは、
出産以来。
なぜだろう。
嬉しいんだけど。
恥かしい気持ち。
愛犬にも 吠えられずに 帰宅できた。

「今日は ママは 休んでな。」
と言われて、
優雅に 待っていると、
「このごろは いつも こんな 晩御飯を 食べてたんだよ。」
的な 食事が 用意された。
ご飯、油揚げの味噌汁。
千切りのキャベツ、スーパーのコロッケ。
ささやかだけど、
心のこもった 晩御飯。

ほわほわと 体の芯が ゆるんでいた。

こんな 幸せな ひとときに、
私の 「戦いのゴング」は、
静かに、密かに 鳴らされていたのだった。(!)











銃後の食事

2004-08-16 | 乳がん
2002年12月21日(土)
今日は、息子が 遣わされて来た。
ところが、寝過ごして 上野まで行ってきたとかで、
昼過ぎに、ロッテリア持参で。
午後4時、お風呂!!
5時ごろ、娘が 学校から 帰ってきて、
病室で カードゲーム。
今日は 二人とも バスで 病院から 帰る。

22日(日)
朝食後、息子が
(今日は 乗り越さずに)やって来る。
午後2時、お風呂!!
夕方 娘が来て、カードで 遊んで、
病院から バスで 帰る。
今日も 亭主は 忙しい。
JRの駅まで 亭主が 迎えに来てくれて、
それから 三人で 外食するとのことだった。

普段 外食が 大好きな 子供達だが、
すごく いやそうだった。
私たち親は 外食を続けると すぐに 飽きてしまうが、
子供達も 同じようだった。

先日 実家の 姉が来てくれた後、
姉から 料理の 差し入れが あったらしい。
姉の 得意料理、しかも 季節は 冬。
カレーと シチューと、ブタの角煮。
クール宅急便、ありがとう。
亭主や 子供達には、
初めての、
食事らしい食事だったそうだ。
おねえちゃんの、カレー。

それから あらためて、
外食は いやだ、ということで、
疲れも ピークに 達していたしで。
病院から 早めに 帰宅して、
亭主の得意な 油揚げ入りの 味噌汁を 食べるようになった。
亭主の 味噌汁は、
削り節で だしをとる。
おわんの中に 箸を 泳がすと、
お箸に 細長い 削り節が いっぱい付いてくる。
美味しいので、子供達にも 好評だったようだ。

以後、
なるべく おかずを 買って帰って、
おうちで ご飯、になった。
やっぱり、これが、一番美味しい。
きっと、スーパーの お惣菜では あっても、
体にも 優しかったのに
違いない。

そして それ以後、
姉は
私の家族からは、
救世主扱いとなる。

亭主は、例によって あの性格なので、
娘に おコメを 研がせたりは していなかったらしい。
確かに 子供達は ふたりとも 
地元の学校では なかったので、
朝早くて、帰りも遅い。
でも 非常時であるにも かかわらず やらせないのは、
亭主の性格。
そして ひとりで 追い詰められていくヤツ。

それでも 食事改革の後は、
娘も できることを するようになったらしい。
夜中に クリーナーはちょっと、
ということで、ダイニングの床を せっせと 
雑巾で 水ぶきした、と いばっている。
「お米だって 研いだよ、わたし。」

毎日 学校から 病院に 帰り、
病院で 三人 待ち合わせ、
そこから 家に帰る。
なんとか 味噌汁を 作って、
「どうだ、パパの 味噌汁、美味いだろう。」
「うん、うん。」
とかいいつつ、
チンした コロッケに キャベツを千切りにして 付けて、
食べる。

後は、順番に お風呂に 入り、
その間 洗濯したり、洗濯物を 畳んだり、
あるいは 生乾きのものを 乾燥機に入れたり。
お風呂を出たら、
くたくたで 眠りにつくのみ。

朝は、
起きる時間を 6時から 6時半に 変え、
焼いたパンや 切り餅を 持たせて、
駅へ向かう 車の中で 食べさせる。
これは、
困った事に、いまだに 続いている習慣。
朝ごはん、家で食べないと、
味噌汁が 飲めない。

 
私の 友達からは、
彼女の地元の 有名な お店の、
レトルト食品詰め合わせが 届いた。
これも、レトルトとは 思えない 美味しさ。
これは 私が退院してから、
楽をするのに 利用させてもらった。

MY 乳がん―リュープリン

2004-08-15 | 乳がん
2002年12月20日(金)
6時半 起床。
月経になった。
きっちり25日周期。
結局これが、最後の 月経になる(と、思う)。
主治医の回診があり、抜糸。 今夜は、シャワー、OK。
放射線と ホルモン療法による 治療を お願いした。
でも、昨日の 今日で、
こんなところで、
お願いしちゃうのかな?

昼前、亭主と娘が やって来て、
亭主は 息子の 中学のPTAへ(初めて)向かう。
娘は 持参した 鍋焼きうどんを、コンロで調理して お昼に。
い~い においが ただよう。
午後、息子が やってきて、これも 鍋焼きうどん。
3時、リハビリ室へ。
少し痛かった。

4時ごろ、
薬剤師による 注射と 飲み薬の 説明が あって、
N医師が ホルモン療法の注射をしに 来てくれた。
これが そのあとしばらく お世話になる、リュープリン注射。
N医師は 腕か、お腹か、どちらにしますか、と聞くので、
お腹を指定する。
痛い注射らしいけど、
皮下脂肪が 多いほうが、痛くないみたいです、というので。
「お腹の 皮下脂肪なら、自信あります!」
「ママ、いばれないよ。」
皮下脂肪の おかげで 痛い注射が 痛くなくなるんなら、
いばりたい。
注射のあとは、お腹のその部分が、ボウと 温かくなって、
それが 気色悪いが、
体調は 格別 変わった事は なかった。
まだ、この時は。


亭主が 息子の 通知表とともに やって来て、
まあまあの 評価。
娘の通知表は 昨日 渡されたはずだが、
どうやら 病床の 私に 
ショックと ストレスを 与える内容だったらしく、
話題に 上がらない。
ママには 内緒にするらしい。
余計に心配。

シャワーを 浴びて(!!!)、
汚れ物を 亭主に持たせる。

別に、病棟の 洗濯機を 使って 自分で 洗濯して、
乾燥機で 乾かして 自分で 畳んでしまってもいいんだけど、
洗濯は、自宅で、俺が。
これは 彼の ポリシーなのだろう、多分。


それから、胸帯 と言うものがあって、
それを いつも 胸に着けているんだけど、
私は 晒しの、胸の側が 何重にもなってる、
はじめて見る へんてこなヤツの方が、
大きな腹巻がたのものより
気持ちが良かったので、これを愛用。
困るのは、これを 洗濯して 乾燥機で 乾かすと、
よれよれになってしまって、 それをそのまま
身につけようとすると、
よれよれの へろへろで、
ジョークとしか思えない程で、
どうしようもないこと。
畳む時に よく伸ばせば 平気なんだけど。

亭主は 
「これは、乾燥機にかけると、どおーおしょおーもなく 
 なちゃうんだなあ!」
と言ったかと思うと、
次からは なんと、アイロンを かけてきた。
洗濯物を 干すのが 好きな人だとは 知ってたけど。
アイロンも、そうか、実は 好きだったんだ。

気持ちよく 洗濯して アイロンを当てた 胸帯を 
いつも爽やかに 着用できて、
幸せでしたよ、だんな様。
この点に関しては、完璧に(あなたの好きな言葉ですね)、
感謝してます。

MY 乳がん―医師からの説明

2004-08-15 | 乳がん
2002年12月19日(木)
夕方、主治医(執刀医)からの 説明があった。
本当は 病棟の 相談室で 行われるはずだったけど、
この日の夜に 催される クリスマス会のために、
椅子が ぜ~んぶ エレベーターホールの方へ 
移動しちゃってて、
「じゃあ、いいや。」
てなわけで、病室で 行われた。
息子が 例によって ベッドで 熟睡していたので、
談話室の方へ たたき出して。

リンパを 全部 取っちゃったよ、と言う話は、
手術後 間もなく 亭主から 聞いていたはずだし、
主治医の 回診の時にも 聞いていたはずだし、
リハビリの先生からも聞いている。
そんなはずは・・・という思いは、確かにあった。
それでも 普段 忘れていたのは、
忘れたいと思う事を、本当に 忘れてしまえる特技を
駆使した結果か。
忘れていても 結果は変えられない。
この日のお話は、忘れたい事が多かった。

思っていたより 広範囲に、癌は 点々と 飛び散っていた事。
だから、大きく 切り取った事。
取りきれたと思う事。
癌が 残っている可能性があるので、放射線治療をすること。
ホルモン療法が 効果的ながんであること。
エストロゲンの働きや 分泌を 抑制するので、
更年期障害の症状を呈す 可能性があること。
リンパ節は 14個取ったが、
そのうち 2個に 転移していた事。
最終的には 自分で 治療法を 選択できる事。
                         などなど。

癌の大きさについては、日ごろの 楽観主義が 少しばかり、
へこむ。
でも、もし 抗癌剤で 髪が抜けるようだったら、
うんと素敵な かつらを作ろうと 思っていたけど、
ホルモン療法なら、そんな心配はない。
吐き気や 口内炎なんてゆう 苦労もない。
やっぱ、私って、ラッキーなんじゃん。


クリスマス会では、
キャンドルサービスが あって、
サンタさんが 病室に来てくれて、
カードを もらったり、握手をしたりしている所を、
カメラでパチリ。
エレベーターホールで クリスマスソングが 歌われ、
歌はともかく、
オルガンと バイオリンの 演奏が 良かった。
事務の人や 看護士さんは、
昼休みなどに 練習を 重ねてきたんだそうだ。
イベントは、なんであれ、
特に長期の入院患者には 救いになる。
特に クリスマス会は ビッグ・イベントなわけで、
感激に 涙を流す人たちも 多いらしい。
私も 元気な分、そろそろ 退屈していたので 
嬉しかった。
「入院中に イベントに当たるというのは、
ラッキーなんですよ。」
お世話になった看護助手の 言葉だ。

そう、私は 癌にはなったけど、ラッキー・ウーマン。




MY 乳がん―お見舞い

2004-08-11 | 乳がん
2002年12月15日(日)
今日の日の出は、空の下方に 雲があって、遅かった。
11時ごろ、娘が来る。
昼食後、娘が うとうとしている時に、
義弟夫婦が 子供を連れて 来てくれた。
花と、千羽はないけど千羽鶴、婦人雑誌などを 携えて。
メいっぱい おしゃべりを 楽しんだけれど、
二人とも 明日は 出勤、
遠いので 二時半ごろ 帰ってもらう。

日曜は 忙しいので、今日は 亭主は 来ない。
来なくていいか、来なくていいかと、
うるさく聞かれ、べつにいいよ、と。
疲れて へとへとに なっている 亭主を見るのは、
哀れで、忍びない。
帰りの 車の運転も、すごく心配。
それに、なにがなんでも 毎日 病院へ行くぞ、の姿勢を 見せられると、
義務感からなのかい、なんて 
イジワルなことを 考えてしまう。

息子が 少し 熱を出しているらしい。
睡眠が足りないと、頭痛と 熱に表れるヤツ。


16日(月)
朝の医師の回診。
胸の管が とれるのは、明日だそう。
がっかり。
実は、ここ数日、同級生のいる 病棟には
遊びに行ってない。
もうひとり 管が抜けないでいた人の、
管が抜けてから。
自分だけ付けていると、「どうして?」と、悲しくなる。

手術から 一週間が過ぎ、
緊張が 取れてきている。
同時に、姿勢が 悪くなった気がする。
腰まわりの 筋肉が 弱くなった気がする。
背筋を 伸ばそう。
胸を張ろう。


午後、シーツの交換をしてもらっている時に、
亭主と娘が来る。
間もなく、
実家から 姉が やって来た。
姉には 内緒にするはずだったが、
姉が やった 日帰りの 摘出は、どう考えてみても
私のこの乳がんとは 違う。
内緒で 入院しちゃったけど、どうしよう、
なんと 言おう、
と悩んでいたところだった。
来てくれて、嬉しかった。
会うのも久し振りだし、きょうも メいっぱい おしゃべり。
英語の 再テストで 遅くなった 息子も やって来た。


17日(火)
7時 起床。
回診の時に 私の執刀医・主治医の 医師の姿は なかったが、
カテーテルが ぬかれた!!!
上半身を 拭いてもらったあと、即、下半身シャワー。
午後、お風呂で (自分で!!)シャンプー。
パジャマを 濡らしてしまった。
今日は 3時から 講堂で クリスマスコンサートの ある日だ。
カテーテルと バッグなしで 聞きに行くと、
同級生に会った。
「いつ取れたの!?」
すぐに気が付いてくれた。
自然に 顔が ほころぶほど、嬉しい。

コンサートから 部屋に戻ると、
亭主が ソファで うとうと。
ベッドでは 今度は 娘が 熱を出している。
息子の到着後、今日は 早めに 3人は 病院を出る。


18日(水)
7時起床。
退屈な午前中。
昨日 管が取れたので、
今日 午後から リハビリ室へ。
思ってたよりも 動く。
リンパを14個取ったとは思えない、とも言われた。

部屋に 帰ってみると、
私が カミング・アウトした 友達が 来ていた!!
彼女は、私とは 違うコースを 卒業している。 
私と ほぼ 同時期に 結婚し、
上が 女の子、下が 男の子で、歳も近い。
でも 住んでいる所は 遠い。
太平洋側から 内陸の 海なし県まで、
来てくれるなんて、全然思っていなかった。

リハビリ後の 軽い疲労のため、
私は 昨日までみたいには 多弁では なかったけれど、
彼女の 楽しいおしゃべりに、
我が家は 大盛り上がり。

さて、彼女が 私からの 告白を どう 受け止めていたか。
なかなか 会えないし、彼女は (私と違って)忙しいので、
メールで ちょっと 聞いてみた。
「あなたに関しては、受け止める覚悟があったから。
 病気以外でもね。
 そういう 間柄だと 思ってます。
 ビックリは したけどね。
 だから、重い、というより、
 私にできる事 あるかな、でした。」
という、返信メール。
こんな友達がいてくれて、本当に、ありがたい。
こんな所に 自分のことが 書かれてたら、
また 彼女、びっくりしちゃうね。
今度 会ったら、おしゃべりを 堪能するぞ。

MY 乳がん―入院中(2)

2004-08-10 | 乳がん
2002年12月14日(土)
午前3時に 目が覚めて、そのまま 眠れず。
5時に 起きだして、カーテンを 開ける。
夜明け前の空の 美しいグラデーションを 楽しむ。

9時 娘が来る。
T 医師の回診があり、
私の胸から ホチキスの針のようなものを
パチン パチン とはずす。
私は フランケン・シュタインか?
胸から 出ている カテーテルは、
月曜か 火曜日に 取れるでしょうとのこと。
まだまだだ~。

さすがに 今日は 眠たくて、
娘には 勉強をさせて、(今日は、私が)ベッドでひと眠り。
散歩もし、体も拭いた。

午後
亭主が 来て、
息子が 学校から やってくるのを、寝て待つ。
子供達は 私のベッドで 毎日 代わる代わる 熟睡しているが、
亭主は なぜか それまで 遠慮して
ベッドは 使わなかった。
気持ちのハリが 一本、切れるような 気がしていたのか?


私が乳がんとわかってから 亭主が買ってきた本の中で、
私が気に入ったのは、
『「乳がん」といわれたら』(「女性のための医学」シリーズ①
~ひとりで不安にならないで~、2002.3.10、 婦人生活社、1200円)
という本の中の、
「バドバカがん患者の ネバーエンディングストーリー」
という、バドミントン命!の、元気な 若いオバサンの お話(p71~84)。
カラッと 明るい調子で書かれた文章は、
告知を 
「闘いのゴングが 鳴らされた」
と表現する 前向きさ。
笑いながら 読んでいて、
「癌って、別に、悲劇じゃ ないんだ、やっぱし。」
と悟った ワタクシ。
それでも この人は、それまで泣かなかった分を
一挙にとりもどすほど よく泣いたそうだから、
私は もっと ニブイのかも。

また、その本の 別の人のページ(p65)にある、
娘さんが 書いてきてくれた 手紙の文章が 印象的だった。
  「お母さん、元気になって 良かったね。
   ばあちゃんと お父さんは とても疲れています。
   お母さんが 一番 元気です。」


私の家族も、その状態に なっていた。
優雅に 暮らす ママ。
疲労困憊の パパ。
毎日 眠たい 子供達。

亭主は 亭主なりに、
子供は 子供なりに
それぞれ 悩みつつ、必死に 毎日を
(睡魔と闘いながら)送っていたんだろう。

娘は、それまで 私が パソコンの ‘お気に入り’に
ためておいた HP のなかの いくつかに、
「お母さんが 乳がんで 入院したけど、
 私に できることは なんでしょう?」
みたいな 質問を してみたとか。
最近知ったんだけど。
回答を 見たかどうかさえ 忘れたそうだけど、
そんな場所が あるってこと、
それ自体が、救いだよね。

世界遺産と修行

2004-08-09 | 食生活
先日、大学時代の友人から ひさびさに 電話を もらいました。
彼女は コースは 違うけれど、同じ 仏教学部で 学びました。
卒業後 専門学校に入り、
現在は 校正、編集、あるいは ライターとして 忙しい日々を 送っています。
子供の年齢が近く、悩みも 似てる部分があります。

例によって、話題は そこかしこ、
とりとめのない 長電話と なったのですが、
彼女が 話題に出した、
世界遺産関連の NHK の番組、
私も 同じものを 見ていたみたい。

1,2週間前、NHK で ほとんど一日中 
世界遺産の 番組を 放送していた日がありました。
午前中、
私が それに気づいて チャンネルを 合わせたときは、
比叡山の 話題でした。
それを 彼女も見ていて、なんのかんのと 言っていました。

私が、その番組の中で 面白いと 思ったのは、
多分大学を 卒業したての 若い 修行僧の 話で、
ひとりが 
「体重は 減りました、肉とか 魚とか、玉子も
 ないですからね。」
と言い、もうひとりは 
「体重、ちょっと増えました。
 前は 食事を抜くことも あったけど、三食 きちんと
 食べますから。」
と言っていたこと。

修行中の 精進料理で 体重が増える人は、少ないと思うけど、
ちゃあんと いるんですね。
正しいダイエットは、ここらへんを 目指せばいいのかも。

永平寺かどこかで、くる病だか 脚気だかに なると、
修行者として 一人前と みなされる、という話が ありました。
昔の話だとは 思いますが、
自分達で 作って 食べて、
過不足なく 栄養を 取って、健康でいられる、
というのは、大変な修行に ちがいありません。

もしかしたら、すり鉢を 使う 料理に、
秘密が あるかも、というのが、私の 推理です。
ごまあえ、
くるみあえ、
しらあえ、
おまけは、やまいも。
すりばちで あたる 料理は、
こくがあって、やさしい味のものが 多い気がします。

私の母は 会津の 出身ですが、
すり鉢は、年に一度 割ってでも、新調しろ、
と 教えられたそうです。
会津では 新鮮な 海の幸は 望めなかったので、
ふんだんにある 山の幸を 使う料理と、
それらを 生かす 調理法が 歴史の中で 
培われたはずです。
そのひとつに、
すり鉢を使った料理を、面倒がらずに作って、
たくさん食べよ、という 知恵があったのでは、
と 想像しているわけです。

割れなかったら、わざわざ 割って 捨てても 惜しくない、
それほど すり鉢を 多用せよ、
それが 会津人の 健康の 源であった。
なんとなく、合ってる気がしませんか?

話が少し ずれましたが、
精進料理の、胡麻豆腐。
美味しいですね!
多量の 胡麻を すり鉢で スリスリして 作るんですよね。
白和え、あまり 作んないですけど、
大好きです。

すり鉢で 胡麻を あたるのは、
もう ベテランに なりましたよ。
これ、億劫じゃなくなったのは、
トンカツ屋さんの おかげなんです。
大量の 胡麻をするのは、やっぱり、修行でしょうけど。

ところで、
新たに 世界遺産に 登録された、熊野三山。
行って見たいですね。
友人にも、
「きんぷせんって、山伏の 本山なんだってよ。
 行ってみたいねー。」
と言ったんだけど、
ホントは、那智の滝に もう一度 行きたい。
団体旅行で 行かされたことがあるんだけど、
それでも すごく 素敵な 場所でした。
行きたーい!