ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

お弁当

2005-02-28 | 考えたこと
‘アボカド’の事を 
‘アボガド’だとずっと思ってた。
幼い頃の息子なんて、
「ガボガボ」と言っていた。
種を取り除いた窪みに
コンデンスミルクをたっぷり入れて
おやつにするのが一番好き。

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2004年 4月。
息子が高校生になって、
お弁当作りがはじまった。

それまでだって娘が高校生だったのだから、
お弁当作りは 本当はあったのだが。



自分が高校生の時に お弁当なんて作らなかったのに、
「女の子なんだから、自分で作れば?」
という気分も少しあった。

男女区別(?)もはなはだしい。

それでも娘が高校に進学した時は
お弁当箱や クロスや カップや ふりかけなど
いろいろ集めて 気合を入れたのだった。

実際は ほとんど冷凍食品で ‘レンジでチン’だ。
プラス、なにか野菜を。
彩りも少しはキレイに、可愛く。
毎日同じものが続かないように。

で、続かなかった。お弁当が。



ひとつには 娘があまりにだらしなくて
お弁当箱を 自分の部屋に置いたままにしていたこと。

しかたがないので 別なお弁当箱に詰めて持たせると
それも返ってこない。

ミスタードーナッツのお弁当箱などがあったので
次々使って、
最悪、5個ぐらい 娘の部屋にあったはず。

これは 自分で洗ってもらわないと。



それから後は お弁当箱が帰ってこなければ
作らない事にした。

するとやっぱり返ってこないから、
前の晩に 準備をしなくなる。

それからはもう たとえお弁当箱があっても
朝の眠くてぼーっとした体と頭で
家を出る時間のカウントダウンをしながら
お弁当を作る事は できなかった。

私立女子高で 学食も充実していたから、
「あんた、自分のお小遣いで 食べなさい」
ということで、作るのを止めてしまった。

・・・・・・彼女はその後 
泣き泣き 小遣いの値上げを直訴してきたが。



息子のお弁当がまた始まる、ということで
凄く気が重かったが。

Living as a breast canser survivor の中に
毎朝 3人分のお弁当を作っている、
という方がいらして、
「一人分くらい、たいしたことないじゃないか!」
という気分になった。

今 お弁当作りが続いているのには、
その方のおかげがある。



それと、息子が お弁当を歓迎してくれているから。
学食より、おいしいらしい。

よく、学食が不味いと 不平をもらしていた。
私の作るお弁当の方が、数段 マシらしい。

息子の好きな菓子パンも学食で売っているが、
パンでは いくら食べても 腹持ちが悪いらしい。

毎日ろくな物を詰めてないので、
「どっちがいい?」
と聞くと、決まって
「できたら、弁当の方が ありがたい。」
と言ってくれる。

昔 息子に恋していた母は 
いそいそと ご飯の上に梅干を乗せてフリカケをかけ、
冷凍食品を‘チン’する。



しばらくして 気づいた。
息子が男の子だから、気楽に作っていた事に。

娘のときは、
‘私立女子高と’いうことで、
不必要に身構えていた所があった。
(県立共学校の出身です、ハイ。)

女の子のお弁当は キレイで可愛くて
栄養のバランスも取れていなくちゃ恥ずかしい、と。

きっと‘私立女子高’のお嬢様方は
自分でキレイなお弁当を作るだろう。

お母様がお作りになるお弁当は、
それは素晴らしいものだろう。

ご学友の皆さんとご一緒に食べる娘が
恥ずかしくないように。

そんな緊張に 肩に力が入っていたのだ。

あの子の友達に お上品な子がいるはずはないのに。

もちろん、お上品なお嬢様方や お母様方も
たくさんいらしたのだが、
娘の友達は <娘の友達らしい>子が 集まっていた。
でもそれは 後でわかったこと。



今では肩の力も抜けて、
小食の子どもの頃とは
別人のような食べ方になった息子のために
今日も ‘レンジでチン’。

見た目のキレイさもバランスも、無視。

しっかりお腹にたまるように、
ご飯をぎゅっと詰める。
そうしないと、怒られる。

隣組

2005-02-26 | なんとなく民俗学?
我が家から2キロ半ほど行くと、
小さい川がある。
上流で大雨が降ったりすると
川のカタチが変わる。
暖かな春を待ちわびている。


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田舎では ひとりひとりの存在の意義が
いろんな意味で 大きい。

そして、いろいろな行事に
必ず参加することが義務付けられている。

たとえば、自治体単位の 水路の草刈。
これは大変な作業なので、
参加しないと、悪口を言われる。
その前に、起こしに来てくれたりする。

怪我をしては大変と、
手術後は 娘が行ってくれるようになり、
ママは楽チンを決め込む。

以前は日曜の朝 5時集合だったが、
その年から 6時に変わった。
田舎にしては 大きな変化だ。



‘隣組’という組織が存在する。
自治会の中を
川上から上・中・下(かみ・なか・しも)に分け、
さら最小の単位の‘隣組’に分かれる。

隣組の組長が集まって 
‘組長会議’を開いたりもする。

自治会館の掃除をする時、
トイレ掃除を担当する。
汲み取り式。

連絡事項をふれまわる。
組員(?)の出産・初節句(ほとんどない)や入院の時は
お祝いやお見舞いを 集めてまわる。
(私の入退院は秘密裏に済ませたので、なかった)

お葬式の時は・・・最近は料理をこしらえなくても
いいようになってきた。

きんぴら、胡麻和え、酢の物、おひたし・・・
スローな食べ物で美味しいけれど、
お付き合いは大変。



昔々は 生活に密着した、
必要不可欠な制度だった事は 理解できる。

家の普請をする時に
‘仕事師’の掛け声に合わせて
隣組の人たちが協力して、
‘よいとまけ’をやったと聞いた。

「おとうちゃんの為なら、え~んや こら」
というやつだ。



実家の方では、
やはり隣組が協力して
川の葦を刈ってきて、
みんなで屋根を葺いていた。

仕上げは 特大の包丁を持ったプロが来て、
きれいな茅葺き屋根にした。

私が子どもの頃、
私の家の屋根の一部分を葺き替えたが、
それでも大仕事だった。

そうそう、忘れちゃいけない、
子どもの頃の田植えや稲刈りは
全部隣組単位で、
順繰りにお互い助け合って
やっていったものだ。

戦争中は 特別な必然性もあったかもしれない。
(私にはわからない、さすがにドラマの中の世界だ)



今 ここに残っている隣組は
本当に助け合っているのかどうか、
疑問がある。

疑問はあるが、
順番が回ってくれば、
受けなくてはいけない。

老人だけの世帯や
独居老人でも 引き受けてもらう。

2003年度、
数々のドジは踏んだけど、
なんとかやり遂げた、
二度目の隣組長。

亭主は仕事が休めないので、
私が一手に引き受けて。

終わって、本当に、ほっとした。

寺のムスメと神社のムスメ

2005-02-25 | 読書
いちご大福は お店によってかなり味が違う。
これは、あの養護教諭が 買いに行ったら売り切れで、
予約して翌日ようやく手に入れてくれたもの。
いちごの酸味と甘みを邪魔しない絶妙な味のこし餡が、
うっすらといちごを包み、ジューシー。
いちごの美味しさがそのままわかる。

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『「ジンジャの娘」頑張る!――美人神主の愛宕山だより』
(松岡里枝著、原書房、2004.3.30、1400円)
という本がある。

東京は港区、こんなところにマンションを持ってる、
なんて、嘘をついてみたいようなところに、
家康の命で防火防災の神を祭る神社として作られた、
愛宕神社の権禰宜(ごんねぎ)の女性が書いた本。

権禰宜というのは よくわからないけど、
‘権’というのは 「ごん」と読む。
だから権力の‘権(けん)’ではなく、
権僧正(ごんそうじょう)と同じく、
「仮の」という意味じゃないだろうか。

著者は神道学科を卒業、
広告代理店で2年間の社会勉強を修了し、
両親・妹と共に 創建400年の神社を切り盛りする、
働き盛り(?)の若奥様。

なんと、バーチャル参拝の発端、
寺社のホームページの草分け的存在が
このムスメだった。
http://www.asahi-net.or.jp/~GX8R-MTOK/


ところどころに絵文字、顔文字が見られ、
自分と妹とを「ゴンネギ・しすたーず」と呼び、
神社の世界を「ギョーカイ」と呼び、
いまどき!?と思うほど 
何ごとも手仕事に頼る神社の仕事を、
「マニュファクチュア(家内制手工業)」と呼ぶ。

その斬新で正直な感覚がユニークで、
そして「お寺とおんなじジャン!」とも思い、
とても面白く読んだ。



読んだ後、
こんな感覚を一緒にしゃべってわかってもらえる、
姉に電話した。

「ねえ、おねえちゃん、惜しかったよねえ。
 もう少し若けりゃ、私たちも
 <お寺の美人姉妹>で売り出したのにねえ。」

私の実家では 以前 父がそうしていたように、
たぶん今では義兄が 一人寂しく 夜なべ仕事で 
マニュファクチュアぶりを発揮しているはず。




お寺の子として生まれて、
損したことも得した事も 多分いっぱいあるだろう。

仏教学部に入った私は 今では得した事しか思いつかない。

そんな中、ただひとつ、困った、と思ったことがあった。
姉が三度、私は二度の 出産の時だ。

実家では 安産のお守りをお渡ししている。
(その時、出産する人の数え年を聞いて、
 <帳面:ちょうめん、死語?>に書き入れる。)

そのお寺のムスメが、安産とまでいかなくとも、
難産で苦しんだとか、言えないではないか。

これは、ちょっとした プレッシャーだった。
そう言うと姉は
「あんたも? アハハ、そうだよねー。」
と言っていたっけ。

「お寺」でも「神社」でもギョーカイのムスメは
多少は同じようなプレッシャーを
きっと皆さん感じている?



この本を読む前の2004年3月。
お彼岸に姉から電話があった。

「あんたぁ。あたしのムスメは、偉いどぉ。」
「なんで?」
「・・・彼岸の中日に子ども、生んだぁ。」
「あはははは」
「あははは」

姉夫婦の初孫は 女の子。
結婚式から一年と少し、
姉の予言(?)通り、
お彼岸の中日に合わせて 生まれてきた。
安産だった。

農業は博打だ!

2005-02-17 | 明るい農村
キレイに整地されて、
次の作物を待つ畑。
今度は何のタネを蒔いてもらえるのか?
ワクワクしているだろうか。
今度は何のタネを蒔こうか?
お百姓はドキドキしているかもしれない。



かつて農村に生まれて育ち、
今現在 農村で生活している。
一度も田畑を耕作した事は ないけれど、
そこでとれた農作物を 日々の糧としている限り、
関心を失うことはない。

農家の人には チャンチャラおかしい話かもしれないが、
農業について 思っていることを 時々綴ってみようと思う。



「農業は、バクチだよぅ。」
当地に来て、時々聞く言葉だ。
畑に何のタネを蒔くか。
それで 一年の収入の額に ぐんと違いが出る。

いわゆる、「当たる」か「はずれる」か、だ。
もし「当たる」と、
作った量(というか、広さというか)によるが、
莫大なモウケが出る。

もう何年も前になるが、
にんじんが「当たった」年があった。
にんじん農家は、にんじんの収入だけで
家が建ったという。
近所でも 多めに作っていた人は
新車を買ったりしていた。

このにんじんの当たり年は2年続いて、
3年目には暴落した。
多分 国内のよその土地のにんじんの作柄が悪くて
全体的な収量が 少なかったのが、
持ち直したのだろう。



普段から 他の地方や 
同じ関東でも ライバル関係(?)にある他の地域の 
収量の多寡は よく話題に上る。

去年は台風の被害などがあって、
一時期は 値が良かった(卸値が高かった)らしく、
農家の人は ホクホク顔だった。

さすがに 去年の台風被害は 尋常でなかったので、
はっきり言葉にする人はいなかったが、
よその土地の自然災害や 悪天候のおかげで
収入は 同じ作付面積でも グンと上がるのだ。

そして彼らは 働いても収入に結びつかない日が
自分達にも いつやってくるかわからない、
ということを 充分承知している。



テレビのニュースで、
キャベツが安くて喜んでいる頃に
キャベツ畑を トラクターで「かんまして」いる様子を
見た事はないだろうか?

キャベツの卸値が安いので、
出荷せずに 
畑に実った まぁるいキャベツごと、
畑にすき込んでしまう。

「もったいない!」
と思わない人はいないと思う。

私は当地に来て その様子をつぶさにこの目で見た。
実に痛ましい風景だ。

けれど、一番心を痛めているのは、
丹精して作ってきたお百姓なのだ。



「箱代にもなんねえ。」
そんな言葉をよく聞く年がある。
大切な、デリケートな野菜を詰める箱は
がっしりと丈夫で、一箱何百円もする。

その箱に 収穫して きれいにした野菜を詰めて 
トラックに積み込み、市場へ持っていって、
得られる収入が、一箱 数百円。

箱代よりも安い年がある。
手間を考えると、
出荷はできない。

どんな気持ちでトラクターを操るのか。

立派に実った作物を出荷する時には
娘を嫁にやるよう、とまではいわなくても、
きっと 誇らしい気持ちで 箱につめているはず。

「こんな時もあるさ」と諦めているのかもしれない。



「値がいい」時には 
スーパーで私には買える値段ではない。
「今、○○が 値がいいんだよ。」
と喜ぶ顔を見ても 複雑な思いだが、
近所の人に お野菜をいただけるから、ではなく、
やはり お百姓には
「収穫の喜び」を存分に味わってもらいたいと思う。

雨が多すぎても少なすぎても 収量に影響する。
お日様がなければ 作物は生長しない。
誰のせいでもなく、
一年の苦労がフイになったこともあった。

それでも彼らは 今年も畑に タネを蒔き、
苗を作り、苗を植え、
肥料をやり、雑草を取り、
暑い日も 風の強い日も 底冷えする日も
畑に出るのだろう。

私たちは 彼らによって 生かされている。
食料自給率40%の日本の、
お百姓達に 敬意を表する。

クマ年生まれの男の子

2005-02-16 | こどものこと
娘が一日遅れで買ってきた、
息子のためのチョコレート。
安くなっていたとか。
「これをあげたかったのよ!
 クマ年生まれだもん。」



つまり、息子は クマ年生まれの男の子。
これは 息子が保育園児だった頃の話。



「パパは、○○年、
 ママは△△年、
 (ワタシ)は◇◇年・・・」
と、家族の食卓で 楽しいおしゃべりのひと時。

「(ボク)は・・・?」

息子の顔は、期待でいっぱいで、
ふくらんで見える。
(ワクワク!!!)

「(ボク)は、辰年ね!」



すると、息子の大きな瞳は みるみる涙でいっぱいに。

「どうしたの?」
みんな、びっくり。

ぽろりと 涙のつぶを こぼしながら、
息子は それでも はっきりと 不平を言った。

「(ボク)、クマ年がい~い!」
「・・・・・・」

一瞬の間をおいて、一同(といっても三人だけど)、
大爆笑!

本人は覚えていないこの話、娘も私も大好き。



ぬいぐるみのクマさんみたいに プクプクしていた息子。

こんなに可愛いエピソードをもつ息子だけど、
今では 可哀相なくらい低い声。
ウチ中で一番背が高い事だけが自慢?

大きな瞳はまつ毛も長くて、
しかもクルンと上向きにカールしている。
中学の時から使い始めた 眼鏡にさわりそう。

それなりに 高校生らしく(?)
悪いこともいろいろ覚えたけれど、
わたしの目には まだ プクプクの 
クマ年生まれの男の子に見えるときがある。

もうちょっと。
もうちょっとだけ、
素直でいてくれたらなあ。

ブラ・パッド

2005-02-15 | 乳がん
収穫を終え、
「かんました」後の畑。
ところどころに
黒い土が置かれている。
さらに「かんまして」、
次に備える。

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2004年 春、
義兄と姉が 遊びに来た。

休みがない職業なので、
滅多にないこと。

私が術後 風邪で寝込んだときは
姉は電車で来た。

ふたりで出かけることは、
ちょっとした冒険であり、贅沢でもある。



このころ、私は ブラの中に
せっせと いろんなパッドを入れてみていた。

退院した後にも 娘のパッドをもらったり、
いくつか新しく買ってきたり、工夫していたが、
いつのまにか 使わなくなっていた。

左右のおっぱいの大きさの違いが 実に微妙なので、
パッドが大きすぎたり、小さすぎたり。

がっかりして、めんどうで、
使うのを止めてしまったのだ。



それが 春になって、
もう一度 工夫し始めていた。

寒い冬が終わり、暖かな日差しがよみがえり、
薄着になりたくなる春。

告白すると、私は もっと 
身体の線がわかる服装をしたかったのだ!

・・・しかも、上半身だけ。

下半身のラインは、わからないようにするしかない。
せめて、下半身より細めの、上半身を。



そうして 工夫していたブラ・パッドだったが、
二つ組み合わせて 
なんとか 左右のバランスをとろうとすると、
どうやら 片方がずれてしまうらしい。

ずれたパッドが、ブラの上に出て、
襟の所へ顔をだしたり。

お腹周りの服をいじっていると、
ブラの上に出ていたパッドが、
床にポトリ。

この日 義兄は 我が家のトイレで
見慣れないものを拾い上げ、
「なんだろう?」と思いつつ、
手洗い台に上げておいてくれた。

恥ずかし~!
ちょ~~、恥ずかしい!!!



寒い日に頑張って植えたチューリップが
ちょうど見ごろで、
ことに 華やかなピンクの
百合咲きのチューリップを
姉に自慢できたのが、救いだった。

がんサバイバー

2005-02-14 | 乳がん
やった!!
咲いた!!!
私の窓辺の
ミニ胡蝶蘭。
優しい、儚げな色合い。

***********************************

2004年3月。
この試合に勝てば、
オリンピック出場が決まるという、
サッカー・オリンピック日本代表の試合。
私は ノートパソコンを膝に抱き、
スイッチを入れて キック・オフを待った。

待っている間に、
がん関係のいろんなサイトを 
次々「お気に入り」に入れて
ダーッと並べてあるのを、
あちこち拾い読み。

そしたら、何の都合か、
掲示板だけになったサイトがあった。

読んで見ると、面白い。

乳がん患者の集う掲示板なのだが、
内容がやたら明るくて、おかしくて、
衝動で書き込み。

「サッカー・ファンです。
 行けるといいですね、アテネ。」

書き込みをするのは、
元SEという義兄が作った
実家のホームページの掲示板に次いで、
実は、これが 二つ目。

がん関係のところに書き込むときには
違うハンドル・ネームにしようと思っていたのに、
うっかり「ジョルジュ」のまま 書き込んでしまった。



すると、たちまち、何人もの人たちから、
返事があった。

嬉しかった。

驚きでもあった。

本当に、繋がっているんだ、と思った。

それが、ブックマークのところにある、
‘Living as a breast cancer survivor'だ。



自ら「ラテン系」とおっしゃるRiel さんをはじめ、
みなさん、とても明るい。

乳がんだから、いつも眉間にシワを寄せて、
冗談を言ってはいけない、
というような雰囲気のホームページは
うんざりだったので、
新鮮だったし、本当に嬉しかった。

皆さん それぞれ 色々な葛藤を経て
その明るさにたどり着いたのだろうけれど、
暖かく迎え入れていただいて、感激だった。

サッカー日本代表は その夜 アテネ行きを決め、
私は 外に繋がる窓をひとつ 開けさせていただいた。



以来、ハンドル・ネームはジョルジュのまま、
ずうずうしく出入りさせていただいている。

面白い内容に 「プププ」と笑うと、
たいてい そばに 大学入学を控えた娘がいて、
「なに、なに?」と聞いてくる。

そうでない時には、
私から「ねえ、ねえ。」と声をかけて、
娘に読んでやっては、
ふたりでゲラゲラ声を上げて笑っていた。

掲示板以外の内容は マジメで重くて、
ちゃーんとしているのに、
楽しい掲示板なのだ。

乳がんでも、明るく楽しく生きていて、
やっぱり、いいんじゃない。



‘Living as a breast cancer survivor'
の名前を教えたら、
娘は「サバイバー?」と言って、
ケラケラ笑った。

実は私も、「サバイバーとは、大げさな」
と感じていたのだったが。

でも、
「サバイバー」と自らを呼ぶと、
前向きになれるし、
力が湧いてくるし、
なんでもできそうな気がしてくる。

実際、「がん」と宣告されて
頭の中が「死」の文字で一杯になった人は
少なくないはず。

辛い治療を経て、いや、続けていて、
いくつもの山を乗り越えてきた人たちには
「サバイバー」は尊称だし、
「サバイバー」だからこその
明るさや強さがある。

たくさんのパワーを分けていただいて、
今の私がある。

『精神道入門』

2005-02-12 | 読書
サブ・タイトルが、「こんな私も修行したい!」。
帯には、「ウィークエンドは解脱しよ。」、
握りこぶしを作って、「いいぞ、修行!」と叫んでいる
著者の小栗左多里は、マンガ『ダーリンは外国人』
を描いたマンガ家。
こ~~んな 軽いノリで修行について書かれると、
・・・・・・嬉しい。(幻灯舎、2004.6.24、1200円)



『実践する!仏教』との一番の違いは、
著者が行ったところや 問合せ先が、
一切ないという点。

内緒にしておいたほうが、
面白おかしく描けるということもあるだろう。
たいてい、正直な感想を述べると、
遺憾な顔をされてしまうものだし。



著者は、瞑想、写経、日帰り座禅、滝、断食、
お泊り座禅、お遍路、それに内観の修行をしている。
(これだけでも、相当、エライ。)

始めにひとりで瞑想と写経を体験した所で、
「癒しへタレ」の杏子ちゃんが 混ざる。

「私、座禅がしてみたいんだけど・・・・・・」
「ああ、座禅は前やったことあるよ」
「いいなあ。 辛い? 何か変わる?」(p56)

杏子ちゃん。
人間って、そんなに簡単に 変わるもんじゃないと思うよ。



この本の特徴は 何といっても
漫画家の書いたものである、ということ。

言葉で説明できないようなところも、
そこはプロ、
マンガでうま~く描いてある。

ゆっくり歩きながら瞑想をしつつも、
雑念に次々襲われて
「脳みそがクラッシュ寸前」な著者。

滝に打たれる修行を(ホンの少しだけども)
やり遂げて、充実感に浸る、
「びしょぬれ天使」の杏子ちゃん。

断食のあとの 朝の
「米粒舞い踊る重湯」をいただいた後の、
女性四人の満足しきった顔、顔。

これらは 鋭くも面白おかしいマンガを描いてきた
著者の、得意ワザなのだろう。
一目でナットクしてしまう。



「修行。
 なぜ、修行がしたいのか。

 私の場合はたぶん、
 幸せじゃないと感じる瞬間があるからだと思う。

 普段は穏やかにくらしているけれど、たまに、
 嫌なことや 辛いことも ふってわく。 

 そうすると 仕事も手につかないし、
 いい年して グズるし、
 やさぐれて 寝てしまったりする。

 そうして次の日、
 「なんて自分は人間ができてないんだろう」
 とまたさらに落ち込むのだ。
 
 「きっと修行すれば、 
 何事にも動じない人間になれるに違いない」

 「そんな人間になれれば、苦しみがなくなるだろう」

 苦しみがない・・・・・・なんてすばらしい世界なんだろう。
 それを「幸せ」と言うのではないか。

 そう、結局私はもっと幸せになりたいのだろう。
 修行すれば幸せになれるのではないか。

 あるいは、「自分には何かがたりない」という思い。
 
 しかしこの「足りない」感は、
 「だから自分は幸せでないのでは」という気持ちに
 通じているように思う。

 修行すれば、「足りる」のではないか。
 
 そして幸せになれるのでは・・・・・・・。
               (「はじめに」より)



わかる、わかるよ、そのカンジ。

でも、解脱は、多分、そんなに簡単じゃない。

まあ、いいか。
こうして 軽~く マンガにしちゃってあるし。
(マンガは、一部分)



このへんのところは、
『実践する!』の「はじめに」に、

「これまでの人生を振り返り、
 仕事や家庭以外にもう一つ、
 自分の支えとなるものを求めているように思える。」

とか、

「これからの人生を、どのように生きていくべきか」と
 真剣に悩んでいること、
 その道しるべとなるものが、
 もしかすると仏教の中にあるのではないか、
 と期待していることである。」

などとあるのと、
意味はほとんど意味は同じなのではないか?




千葉氏が「仏教」をキーワードにしたのに対し、
小栗氏は「修行」とした。

その体験から得られるものは
ひとそれぞれ。
両方の著者の体験の場に居合わせた
脇役の人たちの様子も、それぞれで、
面白い。

一番面白かったのは、
どうやら同じ場所で
滝に打たれたらしい二人の著者、

千葉氏は夏に行き、
「寒い時のほうが感動が大きい」と聞いて、
「次にここを訪れる時は、
 もっと水量が多く、
 寒い時期を選ぼう」
と思い、

秋に行った小栗氏は
「夏にもう一度チャレンジしたい!」
 とマンガの自分に語らせている。

で、おふたりに、「次」は、本当にあるんだろうか?

『実践する!仏教』(2)

2005-02-10 | 読書
遅くなったが、読了したので。
これは、とてもマジメな本。
著者の性格が表れているものと思われる。
ちょっとアソンデいるのは、
タイトルに入れた「!」だけ。

真面目に これから 修行の第一歩を 
踏み出そうという人のために、
最後の迷いと躊躇を 優しく吹き払ってくれる本。



やってみたい。でも 知らないし。
飛び込んでみたい。でも ドキドキ。
入り込んだあとに 後悔しないかしら。
私みたいのが 入っていって いいのかしら。

仏道修行?
そんな風に考えると、とんでもなく 場違いな気がして
腰が引けてしまう。

でも、ちょっとだけなら、やってみたいのよね。

そんな人のために、著者が
公開講座で仏教を学んだり、
精進料理を学んだり、
写経にトライしたり、
法要に参加したり、
座禅会に参加したり
 (これは、約一時間のコース、
  一泊二日コースに、
  三泊四日コースまで。 
  場所もいろいろ)
それに
水行で滝に打たれたり!!!

全部 自分でやってくれているのだ!



滝に打たれるなどなどの修行は、
『精神道入門――こんな私も修行したい!』
の漫画家(と呼んでいいのか?)、
小栗左多里女史もやっているのだが、
『実践する!仏教』のエライところは。

あしたから、いや、できたら今すぐにでも
修行に行きたい!という人にもわかりやすく
修行の種類、場所、問合せ先、アクセス、料金、
もう、丁寧に書いてあって、
ほんとにご案内していただけるところ。

著者が参加した以外の、
一般シロートが参加できる道場についても、
細かく教えてくれていて、
「思い立ったが吉日」と腰を上げる事ができる。



当然、著者の修行体験の場となったところは、
エライさんの名前も肩書きも 本物が書いてあるので、
逃げも隠れもできないカンジ。

文章に責任を持つのも、結構辛そうだ。

おまけに、臨済宗天竜寺派国際禅道師家とか、
親鸞仏教センター所長とか、
和太鼓の林英哲氏とか
との対談が入っていて、
内容にふくらみを持たせている。

対談の中からも
修行と直接関係ない
著者の何気ない言葉のはしはしからからも
いろんなことが汲み取れて、
付箋がいっぱいになってしまった。



私は「座禅も写経も足が痛くなるからやだなー」とか
「滝に打たれるのだけは、寒いし冷えるしできないなー」
とか思う罰当たりだが、
おいしい精進料理は、食べたい。
できたら人が作ってくれたヤツを。

女性週刊誌には 私みたいなズボラ主婦に向けて、
美味しい精進料理が食べられて、
風景が美しくて、
温泉に泊まれて、
おまけに付近に見所がたくさんあるお寺を巡る旅、
なんて企画もある。
お寺に泊まって食べるという特集も見た事がある。

健康によさそう、ということで、
精進料理が 見直されているのだろう。



写経も座禅も写仏も静かにブームを続けている。
近隣の寺院の掲示板をよく見てみると、
月に一度程度はやってる、というのがみつかる。

読経も最近は「ネットで般若心経を読もう」
みたいのがあったり。

法要に参加したいという人に
たとえ檀家でなくても、
嫌な顔を見せる寺院は少ないだろう。

仏教プチ修行は、
あなたがやろうと思えば、
すぐできる。

この本は そんなあなたに
ガイドブックとして
とても心強い味方になってくれる。

テーブルウェア

2005-02-09 | 考えたこと
今朝は、参った、寝坊した。
出かけようとしたら、車のフロント・ガラスは、
靄が張り付いて凍っている。
道路にでたら、視界10メートルの濃霧。
ノロノロと行き、ノロノロと帰ってきた。
食卓で新聞を読んでいる頃、息子からメール。
「無事に電車に乗りました」
電車のダイヤにまでは 気が回っていなかった。

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2004年2月、ある日の午後。
私は治療院のハシゴのあとで
姉と新宿で待ち合わせて、
東京ドームへ出かけた。

後楽園球場は来た事があったが、
東京ドームになってからは、初めて。

“テーブルウェア・フェスティバル2004”
を見にいったのだ。
大人になってから初めて ふたりでデート。

今年も14日まで、もてなしの食空間を提案する、
暮らしを彩る器展が開催されている。

広いはずのドームが、
いくつものダイニング・スペースに仕切られ、
さまざまなテーマの食卓に コーディネイトされている。



テーブル・コーディネイト。
私はすこうし はまった時期があって、
この催しは ずっと前から見に来たかったのだ。

姉が「どこかに行きたい」と(いつものように)言うので、
この年初めて さそって やってきた。
姉は姉で 新宿の治療院の帰りだ。



素敵なデイスプレイ。
タメイキがでそうなのもあれば、
明日から真似できそうなもの、
(今夜はふたりともそれぞれに外食)
時にはこんなテーブル・セッティングで
食事したいと思わせるもの。

あるいは
テーブルの上はさほどでなくて、
むしろ 仕切られた部屋と言うべき
そのスペースの、インテリアの方に
視線を惹きつけられてしまう、
素敵な提案も。



賞を受賞した作品には その札がついていて、
「なるほど」と思わせる。

が、「?」「なんで?」「どこが?」
「そんなにイイかな?」と思うのもあるのは、事実。

これは、趣味のモンダイだから、と
気にせずに歩いていたら、
姉が立ち止まって、
「そっか!」と叫ぶ。

「祭壇だ。」と言う。
「?」と、私。
「祭壇だよ、これ。ほら。」

指差された部屋のコーディネイトは、
黒と銀で シックにまとめた、
派手さはないけれど 大人っぽいムードの食卓。

・・・ナットクした。
これは、私達姉妹には、
ご葬儀の祭壇に見える。

今歩いてきた通路を振り返って見ると、
やはり 受賞したのに 姉と私が納得しなかったものは、
私達の目には「祭壇」のようなのだ。

他の人には、シックなテーブルに見えるんだろうなあ。



素敵なお買い物スペースもあったけれど、
趣味と予算の兼ね合いで、
ふたりともチケットだけを土産に帰る。
姉は オールド・ノリタケに魅せられて、
私は 姉の前で方向音痴を露呈して。

I love きもの

2005-02-08 | 考えたこと
この畑のキャベツの外皮は紫色。
ほうれん草やネギに
品種がいろいろあるように
これもキャベツの品種の違いだろうか。
霜は一面に降りてくるのに。

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姉と私が
初めて着物を買ってもらったのは、
私が小学校の高学年の頃。
黒地にかすり模様が入った、
ウールのアンサンブルだった。
 
わずかな柄違いの おそろいの着物2着をもらい、
「あたし、こっち!」と好きなほうを選んだ。

身長はそのころ確か
姉と変わらないか 私の方が大きいくらいで、
同じサイズの既製品だったと思う。

まだまだ我が家は貧しかったけれど、
余裕が出始めた頃だったのだろう。



その後 母は 浪費癖の父に対抗すべく、
まとまったお金があるとすぐに
姉や私に 着物を誂えるようになった。

姉も私も着物が好きで、
正月には せがんで母に着せてもらった。

「着物着んなら、もちっと 早ぐおぎでもらわねえど。
 忙しんだがら。」
といいつつ、母も いそいそと 着せてくれる。
帯を結ぶ頃には、母は 汗だく。



そんな私たちを見て、
たったひとりの男である父は
面白くなさそうだったけれど、
着付けが終われば これもまた
毎年 姉と私を カメラに収めてくれた。

年数が経つと、色が変わってしまうカラー写真。
2代目のカメラだ。
高度成長の波が、いばらきのあの辺の農村まで
ようやく届いた頃だったんだなあ。



2004年の一月も末の頃、
慌しさも一区切りついて落ち着いた頃、
私は タンスの中を探検した。

母が詰めてくれた、糸で織られた、私の財産。
仕付け糸もそのままのもの、
見た記憶のないもの、
ぎっしりと詰まっている。

その中で 二十歳の頃の私が好きだった、
臙脂色の地の鬼ちりめんをひっぱり出した。

かなり赤い色なので、あわせるものは地味にして、
ドキドキしながら 自分で着てみる。

名古屋帯なのに、うまく結べない。
術側の腕が 背中の側だと
上がりづらいのと、力が入りづらいのと。

それより、着付け方を 忘れている。
高校生の頃は 結構自分で着られたのに。

泣きたい気持ちであきらめて、
半幅帯でごまかす。



娘に「着物、着ない?」と聞くと、
「いいよ」との返事。

あのウールのアンサンブルの次に作ってもらった、
小紋を二枚見せると、
赤っぽいのではなく、黒地のがいいと言う。

いそいそと 着せる。
足りない小物もあるけれど、
あのころの母と同じように、
フウフウ言いながら、汗だくになりながら、
必死で着せてやる。

娘が まんざらでもなさそうなのが、嬉しい。



出来上がると、亭主が喜んで
写真を撮らなくちゃ、と動き出す。

庭で、土手で、
愛犬をいれて 家族で撮影会。

フリースを着込んだ息子にも
アンサンブルぐらい、着せたかったかな。



カルチャー奥様になったら、
着付けも是非やりたい事の一つ。

今風のレトロな着付けも、
崩しすぎなければ、悪くない。

いや、目下、問題は 娘の成人式だ。

亭主は、みんなおそろいのような格好は
馬鹿みたいだから、するなと言う。

娘は、振袖ぶんのお金を、
海外留学に使わせてくれるなら、
イラナイと言う。

母のタノシミには 気を遣ってくれない。

ストレッチ

2005-02-07 | 健康オタク
耕作面積の広い農家の悩みに、
兼業できないということが
あるかもしれない。
この蔵の持ち主は
今ひとりで頑張って野菜を作っている。

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ホットカーペットの上で‘とぐろ’をまいて生活していて、
当然のように太った。
かといって 寒い戸外へ出る気はしない。
どこかへ出かけるのは 亭主がいい顔をしない。
市民プールは 改修工事中。

2004年1月、
私はホットカーペットの上で
‘とぐろ’を解いて、ストレッチをすることにした。

その前にいくつか、痩せそうな体操もしたのだけれど、
右足首が少々弱いので、
体重を右足で支えるような体制をとると、
何をしても 負担が大きくて 右足首が痛む。

座ったままでできる、いろんなポーズを
お風呂上りに、結構頑張ってやってみた。

ママの太り具合が異常だったせいか、
家族も笑わず、からかわずに 見ていた。



そのうち、息子が 
「そんけーするよー」と言い出した。
息子は、身体が硬いのだ。

私は、生涯でこれほど身体が柔軟になったのは、
初めてではないかと思うくらい、柔らかくなった。

ネットで真向法のやり方を見て、
少しずつ自分のやり方を修正したり。
真向法って、「まっこうほう」と読むなんて、
知らなかった。

ついでに術側の腕もストレッチ。
サボると伸ばした時に痛むようになる腕。
退院した時は必死だったのにね。



それから腹筋も。
腹筋をしてもお腹はへこまない、と
テレビ番組でやっていたけれど、
これをやると、「やった!」という気がするので。

毎晩、たった30回だけど、
こんなのが毎日続けられるのも、
今回が初めて。

やってみてわかったのは、
腹筋はある程度付けておいた方が、
起居動作が楽にできる、ということ。

寝そべった姿勢から起き上がる時も、
「どっこいしょ」でなく ひょいと起きられる。

背筋は頑張りすぎると私の場合、
腰の分離症の辺りが痛むので、適当に。



これらを始めてすぐ、
お腹がしっかりしたようなきがした。

始めるきっかけのひとつに、
たった一度の尿漏れがあったのだ。
たいして腹圧がかかったと思えない時に。

これはショックだった。
風邪を引いたあとだったので、
全身の筋力が 低下していたのだろう。

心配はすぐに消えた。
ほっとした。
(あのころ、くしゃみをしてなくて、よかった。)

女性は尿道の形状から、尿漏れを起こしやすい
とはいえ、
まだこんな若さで 尿漏れパッドでもあるまい。

子どもの頃から、体は硬く、体力もなく、
運動オンチの私でも
ちょっとの体操で 失った機能(オオゲサ?)を
もう一度 鍛えて 復活させる事ができるなんて、
カンゲキだった。



それなのに、嗚呼、夏の終わりに、
体操を止めてしまった。
続けていれば良かったのにと思いながら、
また ホットカーペットの上で
硬くなった身体を 伸ばしている。

身体が柔らかいと 怪我が少ないのは、
スポーツ選手に限らないだろう。

同じ運動をしても 身体が柔軟なほうが
消費エネルギーが大きいと聞いた気がする。

飽きずに こつこつ、
これ、一番の苦手だけれど、一番の近道。
今夜も明日も、こつこつを、ガンバル。

リンパ浮腫(2)

2005-02-04 | 乳がん
当地には「○○様」と様付けで呼ばれてきた
豪農が何軒かある。
農地解放やらなにやらで
今では「豪農」は死語になったと思う。
それでも古くて大きな母屋や 
いくつも残る蔵のたたずまいに
昔日の繁栄を偲ばせられる。
写真は夜明けのゴミ集積所。

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私は妊娠中も、ほとんどムクミを知らずに過ごした。
リンパ浮腫という病名も、聞いた事はなかった。
入院したがんセンターのリハビリ室の入り口の掲示板に
新聞記事のコピーが貼ってあり、
それをしげしげと眺めたけれど、
ピンと来なかった。



手術後 ドレーンがようやく取れて 
遅まきながらリハビリ室に出入りするようになると
まるでぞうさんのような手足の人が
何人もいらっしゃるので驚いた。

その手足の太さに。
それが一人じゃないことにも。

そしていくらか理解した。
リンパ浮腫は なるのは簡単でも、
治すのは 簡単じゃなさそうってことを。



リンパ浮腫は
乳がんで私のように 
脇の下のリンパを取った人(腕)や
子宮ガン、卵巣がん、前立腺がんで
リンパ節切除(足や下腹部)、
あるいは 放射線療法のあとにも
起こりうる障害で、
以前(20数年前)には
医療者にあまり感心を持ってもらえなかったらしい。

QOLという言葉の認知度が示すように
今は 命があるというだけでなく
どのような生活ができているか、
深く考えていくようになってきて、
浮腫は 無視できないものになった。

無視できないどころか、
ぞうさんの足で車椅子に乗って
リハビリ室にやって来る人たちは
とうてい普通の暮らしに戻れるようには見えない。



私のように サボろうと思えば
年末でも働かずに ご飯が食べられる者はいい。

腕さえ下げないようにしていればいいのならともかく、
足の場合は。
足を下げずにフツーに暮らすことは できない。

そのうえ 切り捨てたいようなダルさがあったりしたら、
これは かなり 悲劇だ。



がんを切り取って 命の危機がなくなれば
それでいいかというと、そうはいかないものだ。

少なくとも 落ち着いてくれば
“もとの生活”に戻りたい。
戻れない、となれば、
「なんで?」と思う。

ところが 浮腫が起こってしまうと、
腕なら スポーツどころか、
ペンや包丁ももてず、字もかけず、
物を持ったり握ったりもできなくなる。

脚の場合、
歩けなくなる!

そして、衣服、靴、アクセサリー、
そういった身につける物も
制約を受ける。

早ければ ひと晩から数日のうちにむくんで、
早めに積極的にケアしなければ、むくんだま、
あるいは免疫機能の低下から
細菌感染を起こし、進行することもあるという。

命に関わるものではないと
見過ごしていいはずはない。



また、外見上の変化は 
精神的に苦痛をもたらす。

私はどうも動作が荒く、
自分の手を反対側の手で傷つけるような
ドジをしょっちゅうしている。

術側の左手を右手の爪でひっかいて
傷つけたり。

いつか左手のささくれが 赤く腫れた時からは
懲りて 極力傷をつけないように
気をつけてきた。

右手の爪は 必要最小限にしか 伸ばさない。
マニキュアは 
塗らなくなった。

亭主はマニキュアに対して寛大で、
来客に対しても ド派手な色でなければ、
むしろキレイでいる事を好んだが、
まあるく短く切った爪では
あまりつけたくない。

そしてそんなふうな爪の手に似合う
ブレスレッドを私は好まない。

したい格好、したいおしゃれ、
つけたいアクセサリー。
 
そんなの、
命が助かるかどうか、という大問題の前には
どうってことない些細なことなのだけれど、
あれも、これもと 
自分で楽しみを狭めていきそうになる時には
ため息がでるほど
大きな問題なのだ。

外に出たくなくなったり 
うつのきっかけになったりもするという。

若くてオシャレを楽しみたくて
しかも都会に住んでいるような女性には
今の私などよりも
ずっとずっと大きな苦痛なのに違いない。

どうかそんな人たちがいたら
その苦痛を 他愛のないものだと
笑わないでほしい。

精神的な苦痛は 目には見えないものだから。



以前は術後の約5%に、
最近では25~30%に発症する、というのは、
ムクミ感を自覚した患者も
カウントしているのではないか。
『リンパ浮腫がわかる本
 ――予防と治療の実践ガイド』
(2004.8.15、法研、1500円)
には、そう書いてある。

私は、結局、「なんにもしない」で治ったので、
勘定にはいれてもらっていない。



弾性包帯、弾性スリーブ、弾性ストッキング、
リンパ誘導マッサージ・・・。
ケアはやはり 根気が必要なようだけれど、
この本によると、
かなり重症のひとでも 手術なしで
かなり改善されるようだ。

太るのもよくないそうだし、
根を詰めたり 寝不足が続いたりも
浮腫のきっかけになると書いてある。

適度にスリムな、健康ながん患者を目指そう。
日本語として矛盾があるだろうか。

節分に思い出だす事

2005-02-03 | 昔語り
こんなものを買ってきた。
200円ぐらいだった。
節分の軒飾りだ。
大豆の木(?)と、ヒイラギと、
楊枝にさした目刺が一匹。



大豆のまめがらの音と
ヒイラギのとげと
イワシの臭みで
鬼を寄せ付けないようにするという。

「イワシの頭も信心から」のフレーズが大好きな
教授がいたっけ。

猫は寄ってきてもいいわけだ、
米や壁を食い荒らすネズミを
やっつけてくれるから。



節分が近づくと。

父は古い茅葺き屋根の家の土間で
稲わらを使って 縄をなった。
手作業で長く“なって”いった。

その「縄ない」の作業を見ているのは、
面白かった。
足の指に縄を挟み、
両手をこすり合わせて 
次々に 新しいわらを足しては
縄を撚っていく。

そうして出来た縄に 半紙で作ったピラピラ
(ヘイソクというのかな)
を何本もぶら下げ、
目刺ではなくもっと大きなイワシの頭を付けた。
栴檀の実の殻もぶら下げた。

今は栴檀の木も虫にやられてなくなったから、
義兄は何か別のものをつけているのかな。



節分の夜。

父は小さなお堂に明々と明かりを灯し、
太鼓をたたいて祈祷をする。
そのあとで 

「鬼はァ外、鬼はァ外、
 福はァ内、福はァ内、
 鬼わあ~~ソトォォ」
「福はァ内、福はァ内、
 鬼はァ外、鬼はァ外、
 福わあ~~ウチィィ」
と唱える。

最後は特に大きな声で唱えて
その時に豆をまくのだ。

大きな枡に大きな手を突っ込んで、
いっぱい撒くので
気持ちいいような、
もったいないような。

父がお堂から家に戻ると、
母と姉と三人で父に合流して
豆をわけてもらい、
そこから全員で 玄関から各部屋、
風呂もトイレも土間も勝手口も
全部に豆まきをする。

東西南北の掃きだしからも
まいたような気がする。
東西南北、すべてに掃きだしがあったのだ!
(寒いわけだ)

姉と私は 時々 枡の中の豆を
こっそり食べながら まいて歩く。

「風邪鬼は外」、「泣き虫鬼は外」
と言われつつ 
私の鬼を追い払ってもらう事も多かった。

姉と私はキャーキャーいいながら
まいたり ぶつけたり 逃げたりして
楽しんでいた。



そんな節分の様子を
クレヨンで絵に描いた記憶がある。
小学校の低学年、
逃げ惑う私自身の口を 
まだ赤いクレヨンで描いていたころだ。

私が父に豆をまかれて、
頭を押さえて逃げているところ。

よく描けていると
母が喜んでくれた絵だった。

難しい父の法衣の色を
クレヨンでよく表現できた、
ということらしかった。

父の法衣は 階級が一番下の色だった。

日本中が豊かになって
実家もそれなりに豊かになって
食べるものに困らなくなったのに
柩に収まった父は
やはり 一番下の階級の法衣を着けていた。



実家の近所の人にも 
寺に豆まきに来て、
それから自分の家に帰って豆をまく、
という人たちがいた。

それは年々減っていったかもしれない。

当地では実家の辺りよりも
古い風習が残っている。

節分には当主がお寺に豆をまきに行き、
当主の帰りを待って 家族で豆まきをする、
にぎやかな声が 近所から聞こえてくる。

家によって 豆まきの時間が すごく違う。



我が家も我が家なりの豆まきをする。

父の豆まきの方法を
亭主に教えたのに、
亭主は 自分流にアレンジしてしまった。
それはそれでいいか、と
家族みんなで 一緒にまいて回る。

まく時間も、その年によって いろいろ。

まいたあとは お楽しみ、
大豆を食べる。

モモンガさんの「標」で
落花生をまいたり食べたりする節分もある
と知った。
落花生を食べるのもいい。
まくときは 鞘のままのヤツを
まくんだろうか???

とにかく、そろそろえさのなくなった
野鳥たちには、大後馳走だ!
(もしかしたら、鹿や熊や狸や狐にも)


節分は 寒くて、あたりまえ。

子どもの頃から
私はよく 風邪を引いて 節分を迎えていた。
今年も 丸一日と半、寝込んでいた。
まだ腰が痛い。

娘の帰宅を待って、
豆を ぶつけてもらおうかしら。
特に、腰の辺りに。

『キッパリ!』

2005-02-03 | 読書
読売の朝刊 第2面の「顔」は
私のお気に入りの欄だ。
今日の「顔」の欄に
執筆した自己啓発本が100万部を突破した
上大岡トメさんが 
キッパリ!ポーズの写真入りで紹介されている。

著者は、「自分を変えたい」と悩んでいた時に
「大きい変化は 小さい変化から」
との一文をある本で目にし、
「これだ」と思った、とのこと。

購買層と見ていた20~40代女性のみならず、
ビジネスマンからの反響もあって、
発売以来増刷を重ね、
年明けに100万部を突破したという。

そのうちの一冊は、ココにある。

「7千部売れればいいと思っていたので、
 うそでしょ、という気持ち。
 不幸せではないが、
 このままではいけない
 と 思っている人が多いのでは」
との言葉が記事の中に見える。

そのうちのひとりが、ココにいる。



この本を買う時は、ちょっと躊躇した。
中山庸子さんの本より、
若い人向けみたいに見えて。

何ヶ月も逡巡して、
いろいろいくつも自分に言い訳を作って
やっと買えた。
ばっかみたい。



「たった5分で自分を変える方法」
という副題の通り、
怠け者の私には 有益な啓発本なのだが、
この「天高くこぶしを突き上げよう!!」ポーズを
なかなか思い出さない、ということが
今朝判明したわけだ。

内容は・・・
01) 脱いだ靴は、そろえる。

04) 光るものを磨く。

06) 今日出したものは、今日中にしまう。

などのトーゼン!(だけど、なぜかできない)
なことから、

12) 自分の気持ちを、
    紙に書き出す。

16) 迷った時は、
    勇気がいる方を選ぶ。

などなど、ちょっと「う~ん」と
考えてしまうことなどもある。

ほかにもいろいろ、
ちょっと小さく「はっ」とする
提案があふれて、
チェック欄までついている。



私がチェックして付箋をはさんだのは、
「おわりに」の中の

「変わらないものと 変わっていいもの、
 この世には 両方あると思います。

 変わっていいものは 
 どんどん変えたほうが 楽しい。

 自分の可能性は もっとあるのに、
 ブレーキをかけているのは
 自分だったりする。

 自分のブレーキが はずれたら、
 もっと自分が好きになるよね。

 変わりたい、と思った瞬間から
 実はもう、
 変わり始めているんです。

 目標があると変わるし、
 変わっていく過程は ワクワクする。

 だから どんどん
 新しい自分に会いに行こう。」
 
というところ。


ああ、やっぱり、今の私にも有益な本だワ。。。

ところでこの「天高くこぶしを・・・」のポーズ、
著者は「テンコブポーズ」と命名してるけど、
私はここで 
「キッパリ!ポーズ」と命名しようと思う。

100万部も売れたんなら、
それで充分わかってもらえるんじゃないかな。