ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

怒涛の更年期症状―不眠と鬱

2004-09-27 | 更年期
「わたし、覚えてないんだけど、
 去年の冬は、毎日 何やってたんだっけ?」
亭主に聞いたのが、この前の冬。
亭主の答えは、こうだった。
「お前、毎日 寝てたろうよ。
 夜 眠れない、とか言って。」

ああ、そうね、そうだった。
毎晩、眠れないんだった。

眠りにつくとき。
暑くなる。
汗を書く。
例の、裏返しにした下着を着て、
長袖のパジャマを、脱いだり、着たり。
布団を、掛けたり、剥いだり。
 
そうして やっと眠りについても、
夜中に目が覚める。
目が覚めると、暑くなる。
パジャマを、ぬいだり・・・が始まる。
いったん 暑いのが収まってからも、
しばらくは 背中が暑い。
背中が暑いと、眠れない。
あっちを向いたり、こっちを向いたり。
(しかし、術側を下にして横になっては リラックスできず、
 眠れない。)
寒い部屋の中で、背中は 空気に触れるように、
しかし 肘や手首は 冷たい空気に触れないように。
痛むから。

いったん目が覚めると、暑いうちは寝付けない。
ひとりベッドの中で、ふ~ふ~、もぞもぞ、バタンバタン。
暑くなくなっても、なかなか眠れない。
暗い事ばかり 頭に浮かんできて、
ひとり ベッドの中で 
じーーっといろんな事を考える。

もちろん 隣のベッドには 亭主が寝ているわけで、
ひとりぼっちでは ないはずなのだが、
心理的には いないも同じ事。
起こして 我儘を言いたい衝動に駆られる時もあるが、
明日の朝の事を考えると、それはできない。
子供達を起こして 朝ごはんを作り、
駅まで車で送っていかなくてはならない。
我慢する。
そうして、暗い事ばかり、考える。
そのうちに 新聞配達のバイクの音が聞こえてくる。
亭主のベッドの傍らで 目覚まし時計が鳴って、
亭主がむりやり 体をベッドから引き剥がすように、起き上がる。
わたしがまどろむのは、その前後。

そんな繰り返しをしているうちに、
毎日 だいたい決まった時間に目が覚めるようになってしまった。
それが、午前3時ごろ。
これを「午前3時症候群」と呼ぶ、と何かで読んだ。
鬱の症状のひとつにあるのだと。
わあ、わたし、ぴったり! と思わないわけにはいかなかった。


後日 実家の姉が 
「私はこれを読んで ラクになったから、読んでごらん。」
と一冊の本をくれた。
『認知療法でうつ病が治った』高田明和著、リヨン社、2003年2月10日、1300円
この本によると、認知療法では、
「感情が 考え方を 決めるのではなく、
 考え方が 感情を決める。
 だから、考え方が ゆがめられている時には
 気分は 自分にとって 苦しいものとなる。
 これを変えるには 考え方を 変えるしかない。」
という立場に立っている、らしい。

ここだけは よくわからないが、あとは わかりやすく、
知らなかったことが 楽しく お勉強できた。

女性のほうが 男性よりも 2倍 うつ病になりやすい、
でも 自殺率は 男性の方が 約2倍 高い、とか。
これは、考え方が 感情に影響する事と 関係するのではないか、
どうも男性は 自分の考え方に固執する傾向にある、
女性は もともと考え方に柔軟性があり、
あまりつきつめて考えずに 方向転換すること
(要するに、ヒラキナオリ?)ができるようだ、
と うつ病の男女差について書かれている。

そして 女性にうつ病が多い理由は、
それまで体も脳も 病気から守ってくれていもの、
女性ホルモン。
この女性ホルモンが少なくなると、うつになるのです、
断言している。
生理の前から生理中、出産後、そして更年期。

おまけに、エストロゲンの分泌を注射で止めてしまった、
乳がんの ホルモン療法をしている、私たち。

鬱と ホットフラッシュと 関節痛などによる 私の不眠は、
ありがたいことに それほど長くは 続かなかった。
冬の次に、暖かな春が やってきたから。



更年期をやっつけろ!(2)

2004-09-25 | 更年期
乳がん全書の中には、更年期について書かれた部分がある。
乳がんが 更年期ごろから 発症率が高まること、
精神的にも不安定になりやすい時期であることから、
もう一方の乳房を 乳がんから守る意味も含めて、
更年期を上手に乗り越えることが とても大切だから。

この本にある10か条は、
「更年期を快適に! いい女であり続けるための10カ条」
というもの。

1) 良い仲間をつくる。

2) 家族と良い関係をつくる。

3) あるがままの自分を認める。

4) 愉快に体を動かす。

5) 人や社会に役立つ活動をする。
  
6) おしゃれ心を持つ。

7) 定期的に健康診断を受ける。
 
8) 睡眠を十分とる。
 
9) バランスの良い食生活を送る。

10)チャレンジ精神を持つ。


・・・やっぱり、無理なものもある。
でも これを読んだときには それなりに 感銘を受けたらしく、
アナログにも レポート用紙に書き写している。

乳がんを体験した人は、不安感がたかまり、
更年期の症状が強くなる場合もあるという。
更年期の治療には、漢方療法、心理療法など、さまざまあり、
うつ症状も 薬の服用でよくなることも多いらしい。
ホルモン補充療法も、早期乳がんや、
乳がんの治療後 長く経過した人で 再発リスクが少なければ
受けてよいだろうという。
これは、執筆者のひとりの産婦人科医が、45歳で乳がんにかかり、
手術後15年後に ホルモン補充療法を受け、現在も続けているというので、
説得力があると感じた。

ただし、今の私に 適用されるものではない。



もう一冊、《打倒! 更年期》の本が手に入っていた。
これは 実家の姉に 
「おもしろい本だから。」
とあげてしまったので、書名も著者名もわからない。
婦人公論に連載したり アンケートをしたりした結果を
まとめてある本だったと 記憶している。
くすくす笑いながら読んだ本で、
こういう明るいのがいい。
救いにも 薬にもなる。

著者は さまざまな更年期の症状に悩まされ、腹をたてて
書き始めたようだった。
その中に、漢方療法と 心理療法と ホルモン補充療法以外の
治療法がふたつ 書かれていた。
ひとつは 民間療法とも言うべきもので、
バッチ博士の フラワーエッセンスによるもの。
ロマンチックな 治療法だ。
もうひとつは、メルスモンという薬を注射する、という方法。

そのほか、パソコンで あちらこちら、
私と同じように ホルモン療法による 更年期症状で苦しんでいる人の
体験談はないか、
説明してあいるホームページははないか、
探して回る。
自分と年齢の近い人も、治療法が違えば 全く参考にならないこともある。
「お気に入り」のファイルの中は、いっぱいになっていったけれど、
これだ!と膝を打つような 記事は、あっても ほんの1、2行。


そうこうしている内に、
《乳腺の和》のなかに、納得のいく、しかしショックな記事があった。
4週に一度の 注射のほかに、
毎日飲んでいる ノルバデックスという錠剤。
これによって、かなり強い更年期症状がでるらしい。
主治医の説明とは違う。
しかし主治医は 再三再四、そう説明してくれていたのだから、
彼はそう信じているのだろう、私は 違うかもしれないと思う、
しかしとにかく、私と同じように
更年期症状で悩んでいる 乳がん患者は、少なくないらしい。
なんだ、そうだったのか。
得心して、落ち着いた。


いろいろ うじうじ ひとりで考えて、
私は 乳がんの治療と 更年期症状の治療とを 
分けて考える事に決めた。
すっきりした。
ホルモン補充療法だけ 避けてりゃいいのだ。

じゃあ、どうするか。
漢方薬も 副作用はある。
信頼できる所で 処方してもらいたい。

何がいいのか。
自分の体に、心に、問いかける。
問いかけながらも、
何もしない日々が 続いていく。







更年期をやっつけろ!

2004-09-24 | 更年期
威勢のいい事を言ってはみても、時折ウツウツとしながら。
「更年期とは一般に、卵巣の機能が低下し始めてから 完全にその機能がなくなるまでの、
閉経をはさんで 前後10年間くらいを指します。」
「ならば、私は、更年期では、ない。」とか
「大声を出したい。何でもいいから歌いたい。」とか
「生きがいはなんですか?
 ありません。」とか
「誰にも会わず、ひとりぼっちで 淋しい。」などと
メモや日記に書き散らしながら、日々を送る。

メノポーズを考える会というのを知ったのは、新聞紙上で。
MENOPAUSE、更年期。
そのホームページに、私が知りたい事の一部分については、最も情報があった。
そのトップページに、「誰もが迎える更年期、 元気に過ごす10か条」というのがある。


1) 「更年期は気の持ちようと」と我慢しない。

2) 40歳になったら 更年期のことがわかる 婦人科などの専門家へ。

3) 医師には上手に訴え、上手に質問しよう。

4) 正確な知識と情報収集で 自分にあった治療法を見つけよう。

5) 更年期症状の改善は 適切な医療と 生活の見直しで。

6) 日常の健康作り(運動・睡眠・栄養・休養)を心がけよう。

7) 心の声に耳を傾け、「自分が何を望み、何が快適なのか」を大切にしよう。

8) 仕事・趣味・社会参加の輪の中で、本音で話せる友達作り。

9) 今からでも始めよう、パートナーとのいい関係作り。

10)これからこそ味わえる 人生の充実期を実感しよう。


いい事が書いてある。
はっとしながら、ふむふむと頷きながら、あるいは 「やっぱり・・・。」とか、
「無理ね・・・。」と沈んだ気持ちになりながら読んだ。
今読んでみても、変わっていない。
という事は、私は進歩していないらしい。
しかしこの10か条は、女性の更年期に限らず、
男性の更年期や 癌をはじめとする生活習慣病に対抗する、
不確実に見えて、その実 最も確実な 対処の仕方なのではないだろうか。
私は特に、第一項の 
「気の持ちようと我慢しない」に、大いに元気づけられた。

メノポーズを考える会では、ホルモン補充療法(HRT) に積極的だが、
それは リスクを考えた上での事、私には使えない。
私の癌が、女性ホルモンで 元気倍増するタイプだからだ。

主治医には 診察予定のない日も度々会っては 話を聞いたが、
主治医の考えは、ホルモン補充療法以外なら、何をやってもいい、が基本。
漢方も、サプリメントも、ヨガも、な~んでもいい、と言っていた。
女性ホルモンと同様の働きをするサプリもかまわない、とも言っていた。
さあ、じゃあ、私は 何をしようか。
ウツウツしつつ、わくわく、手探りで 探し始める。









怒涛の更年期症状―関節痛

2004-09-21 | 更年期
むかし、むかし。
私の髪が、まだ長かった頃。
ようやく仕事が面白くなってきた頃。
毎朝 地下鉄の階段を ホームから地上まで 駆け上がっていた頃。
ようやく、思い通りのメイク・アップが できるようになってきた頃。
私は ハイヒールが好きだった。

よく履くようになって
ときどき 足の親指の付け根が 痛み出し、
外反母趾になっては大変と、日を選んで履くようになった。
きのうはハイヒールだったから、きょうは ローヒールで、
きょうは帰りに飲みに行くから、
(帰り道で酔いを醒ますのに 地下鉄ひと駅ぶん歩く、)
ローヒールで、といった具合。

放射線治療に通い始めて間もなく、
外反母趾の時に痛む場所が 痛むようになった。
右よりも左が、特に痛い。
これも、昔の痛み方と一緒。

朝、靴を履く時から 痛い。
ラクそうな、まだ新しいウォーキング・シューズだ。
毎日、靴紐をゆるくしていって、ゆるゆるにして、
それでも痛かった。
きつめの靴は、痛くて泣きそうで、捨てた。
だが、スリッパを履いていても、痛む。

切りきりともみこむような、はっきりとした痛さだ。
かなり、痛い。
痛風の人が痛む場所に似ている。
佐藤先生に血液検査をしてもらったが、
尿酸値は かなり低い、痛風ではない。

びっこをひきながら、
しかも、そのときによって、右だったり、左だったり、
ひょこひょこと歩く。

それから、しばらく動かないでいると、
足の関節全体―足首、膝まで、スムースに動かなくなっている。
動き始めは、本気で「どっこいしょ」だ。
どっこいしょで立ち上がった後に 歩き始める、
これも、老人みたいに、よたよたと歩く。
しばらく歩いていると、一応 普通に歩けるようになる。

歩くと痛い。
歩かなくても、痛い。
何もしてなくても、痛い。
ソファでテレビを見ていると、突然、イタタタタ。
夜 ベッドで寝ていても、イタタタ。

痛む足を引きずって歩いていると、
暗澹たる思いにとらわれる。
ずんずん気持ちが暗くなる。
歩かなくては、どこへもいけないし、
何もできない。

そうして 放射線治療に通っていた。



恵比寿に 整体の先生がいる。
骨盤治療、と称し、
私は25歳ごろからずっと お世話になってきた。
こちらへ引っ越してきてから、
あまりに遠いので、別の治療院へ行ったら、
余計痛くなったので、
もう、私はこの先生一筋、と決めた、女性整体師。

放射線治療が終わった翌日、
2003年2月28日、
私は 恵比寿へ向かった。
電車に乗っても、なかなかつかない。
東京は、がんセンターよりも、ずっと遠かった。

山手線に乗り換えて、駅からは、ほんのわずか 歩くだけ。
けれど、治療院に着いた頃、
私はへとへとに疲れきっていて、
口もきけないほどだった。
自分で何故だかもわからない。
こんなに疲れるなんて。
ほとんど座席に座っていたのに。

整体師は、
入ってきた私の顔色の悪さに、
生きた人間が入ってきたのか、
そうでない人間が見えるのか、
区別がつかなかった、と言った。

そして、
「最低でも週に一回はこないと、
 良くなるかどうか、あたしは
 保証はできない。」
と言う。
週に一度のお出かけ。
私のあこがれ。
「はい、来たいです。」
とだけ返事して帰った。

家に帰って亭主に話すと、
何とか了解を得た。
どうせ家に居ても何も手伝わないし。

そうして毎週通い始めてまもなく、
整体師に いつも思っている事を話した。
「これ以上痛くなったら、どうしようかと 心配で。」
整体師はいつになく力説する。
「あんたが 心配すれば 良くなるんだったら、
 あたしも 何にも 言わないわよ。
 だけど、心配しても 決して 良くなんないんだから、
 そんな、先の事、心配しても しょうがないでしょ。」
そうだった。
忘れていた。
心配するのはよそう。
涙がにじんできた。

心配してても何も解決しない。
心配するのはよして、なにか解決の方法を探そう。
そう思うようになった。



アテネ・パラリンピック開幕!

2004-09-18 | 考えたこと
きょう17日、
(明日未明?)
アテネ・パラリンピックが 始まります。
17日は開会式、
競技は18日、
自転車(トラック)、5人制サッカー、柔道、セーリング、
射撃、卓球、車椅子バスケ、車椅子フェンシングなどから
始まります。

きょう お話したいのは、
シッティングバレーボールのこと。
お尻を床につけたまま、小さめのコート、
低めのネットでプレイする、
バレーボール、らしいです。
まだ私も 試合を見た事がありません。
それどころか、
シッティングバレーボールという名前さえ、知りませんでした。

シッティングバレーボールの存在を教えてくれたのは、
栗田君という選手です。

高校一年の夏、
バレーボール部の部員として
活動を始めてまだ間もない頃、
彼は 事故で左足首を切断しました。

義足となった後もバレーを続け、
3年生の時には、関東大会にも出場!

現在大学一年生、
シッティングバレーのチーム、
東京プラネッツの一員として
週に一度練習に参加しています。

今回、代表チームの強化合宿に召集され、
アテネで 世界を相手に 戦う事になりました。
チーム最年少、次の北京も期待されているのでしょう。

同じ年の娘を持つ母として、
事故のニュースには 驚きましたし、
足を切断する事になった、と聞いて、
腹が立ちましたし、
(なんで足を切るんだ、他に救出の方法があるはずだろう)、
どちらかというと、本人より、
親御さんの気持ちを考えると、
胸の潰れる思いでした。

その少年が、
はにかんだような 爽やかな笑みを浮かべて、
パラリンピックの抱負を語っている写真。
胸が熱くなります。
ついでに、目頭も・・・。
(ホットフラッシュではありません。)

克服したのは、足の痛みばかりではなかったはずです。
バレーボール、好きだったんですよね。
よく・・・
よく、頑張ったね。
オバサンからは、もう、金メダルをあげたい。
ご両親も、同じ思いに違いないと思います。

オリンピックに比べると、
ずっと地味なパラリンピックですが、
是非、多くの人に、関心を持ってみていただきたいと思います。

NHK では、
総合テレビで 昼 2時ごろから 45分間、
教育テレビで 夜 7時半ごろから 再放送
があります。
日本の選手たち、そして 世界中の 
障害を克服し、毎日 戦い続けている選手たちを、
ご一緒に 応援しませんか。





怒涛の更年期症状―ホット・フラッシュ

2004-09-17 | 更年期
私の鬱は 風邪を引いた事が引き金になった。
「風邪を引かないように、気をつけろと、言っておいたのに。」
主治医と亭主の 両方から 文句を言われた。

が!
あれで 風邪を引かないで いられようか。

年内(2002年)に 寝汗をかくようになってから、
ずっと気をつけては いたのだ。
ところが症状はどんどん、思いっきり ひどくなる。

顔が、「ジワジワ」というのだ。
「ゾワゾワ」でもいい。
なんともなく、何も意識していない時に、突然、
顔が ジワジワっときて、
ジワジワ、ジワジワ、ワ~~~~~!!!!! っと、
熱くなる。
とんでもなく、熱くなる。

声に出して実況中継(?)したこともあるが、
ジワジワの段階で、「あ、来た。」とわかる。
来るな、来るな、来るぞ、来るぞ、来た~~~~~!!!!!
である。

顔が真赤になる。
汗が突然噴き出す。
噴き出した汗が、流れ始める。
流れた汗が、ボタボタとたれる。

ふ~~~っ、ふ~~~っ
口で息をしてしまう。
手で顔をあおるが、効き目は、ない。

その顔の熱さ。
大鍋にいっぱい お湯を沸かして、
フタを撮った瞬間に 湯気の中に、顔を突っ込んだ!!!
時の熱さだ。

じっとしていられないくらい、熱い。
上半身 暑いが、顔が熱いのは、とんでもなく、辛い。
何も考えられなくなる。
なにも手につかない、顔が熱くて。
汗は 拭いても、拭いても、噴き出してくる。

しまいには、じっと我慢して、
汗を衣服が吸い取ってくれるのを待って、
着替えるしかない。

タンスから出した衣類を着ると関節が冷えて痛むので、
体がまだ ホカホカしているうちに。



それでも、家の中にいるときは、まだよかった。
問題は、
外出先でのホット・フラッシュだ。
何をしていても、やって来る。
なんにもしていなくても、来る。

あるときは、デパートのエスカレーターの降り口で、
脇においてあったパンフレットに気をとられ、
「おっと。」
と思った瞬間に、来た。

はっとした時、どきどきっとした時、
あるいは 
ぼーっとしている時に、
ホット・フラッシュは やって来る。
頭が働かなくなるくらい、熱い。

電車の座席に腰を下ろしているときも、だ。
本を読んでいても、来る。
立って、吊り広告を眺めていても、来る。
うとうとしていて、目がさめたときは、必ず来る。

そうして、汗が、ブワ~~~~っ、 だ。

私は むち打ち症になってから、首が痛くて寒くて、
真夏以外は ハイネックを着ている。
真冬は、ハイネック以外は 着ていない。
その襟付近が、ぐっしょり濡れてしまう。

電車の中で、ふ~~~っ、ふ~~~っ と言いながら、
コートを脱ぎ、
手で顔を仰ぎつつ、ハンカチで 
顔、首、襟まわり、手の甲、腕などを 拭く。
衣服の中では、背中を つーーっ、つーーっ と
いく筋もの汗が流れてゆく。

コートを脱いだくらいでは、涼しくならない。
コートの下は ハイネックのセーターとカーディガンの重ね着から、
ハイネックのカットソーに変わっていき、
でも寒いから、コートの上に スカーフや ストールをまとう。
座っている間、
たっている間、
コートを脱いだり着たり、
ストールを巻いたり、はずしたり。

冷める時は あっけなく あっさりと 冷めてゆく。
なんだったの?
って感じ。
寒くなったら、また、コートを着る。

駅のホームは、
コートを着ても、まだ寒かった。



嗚呼。
むかし、母が、「暑い、暑い。」とひとり騒いでいた時。
私は、うるさいなあ、くらいにしか思わずに、
冷たくしていたっけ。
もっと、優しくしてあげるべきだった。
ホット・フラッシュが、こんなに辛いものだったなんて。



これは たまらん、なんとかしないと。
書店で 更年期の本を探す。
手ごろで詳しいのを見つけ、
今度来た時に買おうと思っていたら、
次に書店に行ったと時、
更年期の本は、ごっそり全部 なくなっていた。
いや、はらたいらの 男の更年期に関する本だけは、
どの本屋にもあったが。

時の話題は「ホルモン補充療法で 乳がんになる確率が高まる。」
こういう本の消え方もあったんだ、と、書棚の前で 
呆然とする私。








怒涛の更年期症状―鬱③

2004-09-16 | 
姉が 電話口で話してくれことがある。
「不思議とね、ハーブの世話だけは、できるのよね。」
姉が欝で、食事の支度が できなくなってしまった時の話だ。
ふ~ん、と聞いていた。
「がんばれ」と言っては、行けないのよね、と思いながら、
「いいんじゃない。」
なんていいながら、
そばには いられない妹は、ただ話だけを聞いていた。

私もそうだった。
記憶が曖昧で、日記帳にも何も書いてないから
いつ そうだったのかは わからないけれど、
食事の支度ができないのだ。

台所に入る。
胸には空洞があって、
冷たい空気が流れていて、
しゅ~ん という音がしていて、
なぜだか、
何をすればいいのか わからないのだ。

何もする気になれないのに、
ご飯の支度をしなくちゃ、
とは思う。
思って台所に行くけれど、
何も手がつかない。

亭主に、
「きょうはご飯の支度ができない。」
と言いに行った。
亭主は、どうしたっけ?
「具合が悪いのか?」
と聞いたなあ。
泣きたい気持ちだったなあ。
「泣きたいの。」
なんて、私は言わなかったろうなあ。



ホルモン療法がなくなったと聞いた時、
亭主はおこった。
「なんでだよ。」
「先生が、欝で自殺したら、困るからって。」
この会話は、2回ぐらいした。
そして最後に
「なんで・・・。」
と、言葉を飲み込んだ。
欝になんか、なるんだよ。
私の胸の空洞に、そんな声が聞えてきた。

その後の亭主がどうだったのかは
よく覚えていない。
子供達が帰るのを 駅まで迎えにゆき、
帰りにスーパーで買い物をして、
食事を整えたりしていたはずだ。

「きょうは、作る。」
ぽそっと言って、食事を作る日があって、
そんな日が増えていったのだろう。
「きょうは、作れるか?
 おれ、あっち(仕事場)で
 仕事してきて、大丈夫か?」
うっとおしく聞いてくる日々が、結構 あった。



私の鬱は 強い注射のリュープリンの副作用だから、
注射はやめる。
飲み薬のノルバデックスは そんなに強くない薬だから、
これは 続けて飲んで。
そんなふうに言われ、
はい、と答えて帰ってきたのだ。

欝の薬は飲んでいない。
そうそう気持ちが軽くなるはずもない。

姉が言ってたように、
何にもやる気にならないのだ。

テレビを見てもつまらなくて、
うるさいだけなので、消してしまう。
新聞を読もうにも、
視線が紙面の上をすべるだけで、
なんにも頭に入ってこない。
本は読めない。
マンガも、文庫版は字が小さいので、
見ていられない。
読むのをあきらめたものが、たくさんある。

どうせ、わたしは、なにもできない、不必要な存在・・・。
自分という人間についての考え方も、
かなり、ひどかった。
もともと、自分自身に対するの評価は低かった。
いつも、何もしてないし。

食事の支度が出来るようになってきて初めて、
鬱から少し抜け出せたように思う。
鬱の気が薄くなってきて初めて、
食事の支度ができたのか。



あの日
下の方から ぞわぞわと 体を這い上がってきた何かに
私は 絡め取られてしまったが、
「それ」は 
いつも身近にいて、
どこかで私に引っ付いている。
さびしがりやの 子供みたいに。
体中を包まれてしまう事は稀だったけれど、
何処かへ消え去ってくれるわけでもなかった。

毎日何もできず、何もせずに
何かしらを考えていた。
それは 決まって 恐ろしい事ばかりで、
考えると 胸はいっそう冷えて
しゅ~ん という音は いっそう大きくなり、
心臓は どきどきしたけれど、
考えずにはいられなかった。
だから
その状況に身を任せていた。

そして最後に、
めんどくさい、と思った。
いろいろ ぐだぐだ 考えても、面倒だ。
人間、死ぬときゃ、死ぬ。
再発や転移してからの事は、再発・転移してから 考えよう。
B 型人間の復活だ。

それでも 「それ」が 
頭の上のほうから ほわほわと 何処かへ
飛んで行ってくれたのは ずっと後で、
私は足元に「それ」を引きずりながら 暮らしていた。
飛んでいった「それ」が またすぐ戻る、ということが
なくなったのは、
暖かくなってからだった。



今。
「それ」は 何処かに浮遊していて、
私が少しでも 下を見たり 後ろを向いたりすると
そばにやって来て、また引っ付こうと、待っている。
いや、いつも どこかにくっついている部分があるかもしれない。
きょうは、くっついている。
関節が痛むからだろう。

そんなときは 今でも、
「つまんない、つまんない、つまんない、つまんない・・・・・・。」
「やだなー、やだなー、やだなー、やだなー・・・・・・。」
などと 胸の内でつぶやきながら 生きているのだ。

「それ」は 勝手にむこうからやってきて
ひっつこうとしているものなのだから、
向こうが 離れていってくれるのを 
私としては 待つほかはないのだ。
その辺に見え隠れしていると、いらいらするけれど。

また捕まえられたとしても、
もう それほど怖くはない。
共存していけそう。
だたし、頭からすっぽりと 包まれてしまうのは、
もう なしにしたい。









怒涛の更年期症状―鬱②

2004-09-14 | 
「その日」の前日、
がんセンターの帰りに
私は ホームドクターの佐藤先生の元を訪れている。
先生は、わたしが乳がんとわかってから、
いっそう 優しく丁寧に診てくださるような気がする。

術側の手の指に ささくれができて 赤く腫れて痛んだ時には、
がんセンターに電話して 了解をもらってから、
佐藤先生に 化膿止めを処方してもらった事もある。

「このごろ手の指の関節が痛いんです。」
「痛み止めや 炎症を抑えるお薬を 処方しますか?」
「いいえ、まだいいです。」

「このごろ足の、この辺と、この辺が痛みます。」
「お薬はどうしますか?」
「まだいいです。」

そんな会話が増えていた。

そして、とうとう、
「このごろ私、欝っぽいんです。」
と言ったのだ。
「軽い抗鬱剤を出しときましょうか?」
わたしは ちょっと考え、やはり 断った。
まだ、お薬を飲むほどではない。

その時は、そうだった。
私が鬱でお薬を飲むなんて、
そんな事になるはずはない、とも思っていた。
母や姉が 時々飲んでいると言う、
抗鬱剤とか、睡眠剤とか、
私に必要になるわけがない。



翌日、
「その日」、
いつものように、放射線治療のために、がんセンターへ。

冷たい靴に足を入れ、
冷え切ったハンドルを握り、
駅のホームに凍えて立つ。

「ああ。きょうも 欝っぽいなあ。」

じっと、耐えて、耐えて、耐えて。

病院に着く。
顔は上を向かない。
ガクンと下を向いたまま歩く。
ちょっとした挨拶でも、ぎこちない笑顔。

ぞわぞわと 下のほうから 全身を包み込もうとする感情がある。
つかまりそうだ、つかまりそうだ。

なんとか 放射線治療を終える。
あとは、帰るだけだ。
もう少しだ。

ところが。
廊下を歩いていて、
涙が出そう。
出ない。
でも泣きそう。
泣きたい。

あれっ。
涙が、ほんとうに、出そう。
こんなの、初めて。

ああ、
もう、我慢が できないや。

わたし、
ほんとうに、おかしくなっちゃった。

もう、普通にできない。
もう、笑えない。


私は、外科外来受付へ向かった。
助けてほしい、と 思った。

わりと好きな、話しやすい、顔見知りの看護士がいた。
いつも、忙しそうだ。
おかけになって、お待ちください、と言われた。
椅子に座って待っていたら、
私のところへやって来て、
幼稚園の先生みたいに、
しゃがんで 目線を低くしてくれた。

欝っぽいんです、とでも言っただろうか。
すると 色白の 肌の綺麗な看護士は
眉間に大きなしわを寄せて、
「ああ。」
と言った。
「辛いですよねー。」
わかってくれてた、わかってくれている、と思った。
だけど、心のどこかで、
あんたにわかるわけないだろう
とも思っていた。
そして私は それきり口をつぐんで そっぽをむいた。


主治医の診察室に呼ばれて入った。
「どうした?」
と言いながら 私の顔を見た主治医は、
「あーーっ。
 やめ、やめ。」
と叫んだ。

「もう、ホルモン療法は、やめ。
 そんな、鬱になってまで、
 治療 続けることなんか、ない。」

「そんな顔して。
 自殺したりしたら、大変だから。
 ホルモンの注射は、やめ。」

「ねー。もう、これも、これも、やめちゃおう。」
と言いながら、
主治医は コンピューターの画面から
私の リュープリンの予約を 消した。

そして、今後の治療方針を話すための日を決めて、
私は 診察室を出た。

ああ。
「佐藤先生から、抗鬱剤を処方してもらって、いいですか?」
と聞きに来たのに。

これが、私の、「その日」のできごと。


その日のあとも、
私の欝は、
もちろん、快方には なかなか向かわなかった。







怒涛の更年期症状―鬱①

2004-09-14 | 
「その日」がいつだったのか、定かでない。
たぶん 姉が帰った 2003年2月17日以降、
私の欝は いっそう鬱らしくなっていったのだ。

熱が下がった後も、
私は体がぼーっとしていて、仕事も家事もできなかった。
少し体を動かすとへとへとになってしまい、動けないのだ。

家族は、
「今は ママの放射線治療が 一番大事」
と、また いろいろなことを 
無理をしたり 我慢をしたり することになった。

私は何の役にも立たない、穀潰し。
それどころか、
我儘で 手のかかる、荷厄介。
自分の生きている意味が 見つからなくなっていた。


先月亡くなった田原節子さんは
亡くなるほんの少し前、
乳がん または 癌関係の
フォーラムか何かに 出席なさっていた。
体調が悪いのをおして、
車椅子での出席だったそうだ。
そうして、
「人の役に立っていると思うとき、
 生きていると実感する」
とおっしゃった。

その通りだと思う。
人は 人の役に立ちたいのだ。
人は 人とのかかわりにおいてのみ、
自分の存在を実感できるのだ。

私は放治に通うのみで、
人の役にたたず、
人とほとんどかかわらずに日々を過ごし、
自分に存在価値を見出せなくなっていた。


夕方家に帰ってから、晩御飯とお風呂の時間を除いて、
する事がない。
私は ノートパソコンで 乳がんについて 検索し始めた。

乳がんは、再発・転移しやすい。
乳がんは、10年経たないと 安心できない。
乳がんが20年後に再発した人がいる。
ホルモン療法で生理を早く止めた人は、痴呆になりやすい。
40歳以上の人の乳がんは、高リスク群に入る。
私の癌は、・・・大きい。

怖かった。
調べれば調べるほど、
怖くなった。

知らなかった、
乳がんについて、あまりにも。
手術後は、あんなに楽だったのに。

怖いけれど、
読みすすまずにはいられなかった。
ひとつひとつ 知らなかった事を知るたびに、
怖くて体が震えた。

胸には大きな空洞ができていて、
冷たい空気が通り抜けていた。
空洞の隣では
心臓の拍動が 大きく、早くなった。
指先が震える。
頭の中では、シューンという音がしていた。


主治医には、私の症状や私の気持ちは、
知っていてもらいたい。
私はこうだ、と訴えたい。
こうだとどうなのか、教えてもらいたい。

放治が終われば、通院は月に一回になる。
放治の間に 聞きたい事は全部聞いておきたかったので、
私は度々 外科外来受付に行っている。

質問をすると、内容によって、
待つ事になるが、時間は大丈夫か、と確かめられ、
主治医の診察室に入れてもらった。

ある日、
私は 書き散らしたメモを一枚にまとめて持って行き、
主治医に渡した。

「生理が止まった事による 女でなくなったような 喪失感
 乳房がひとつ ぐちゃぐちゃになってしまった悲しみ
 関節痛が これからどこまでひどくなるかという 大きな不安
 上半身が 突然熱くなったり汗をかいたりする不快
 膝から下が とにかく冷えて辛い
 夜中に必ず目が覚める
 毎日 生きているのがつまらない 
 時々 突然泣きたくなってしまう
 自分自身に 存在価値が全くないという苦しみ
 私には友達も理解者もいないという孤独感
 さまざまな症状が 母親(70歳)にそっくりになっていく恐怖
 胸のくびれは 夏になったらかぶれてしまうのではないか?
 誰の役にも立っていないという無力感   」

主治医は、リュープリン注射の 副作用だと言う。
ホルモン療法をやめて 抗癌剤に替えると、
「大変だよー。
 髪は全部抜けちゃうし、
 吐き気はするし。
 大変だよー。
と言う。

私は 何と言って 帰ってきたのだろう。
もう少し考えて見ます、とでも言ったのだろうか。
日記は つけていなかった。


「わたしは いつまで 生きられるのだろう。」
過去におけるほとんどのがん患者がつぶやいたであろう疑問を、
あろうことか、この私も抱いていた。


放射線療法(2)

2004-09-10 | 乳がん
2003年2月13日。
パワー不足。
自力で 病院へ行って来れそうにない。
今日も放治を休む。

亭主は忙しいので、今日は 連れて行ってはくれない。
私の顔を見て、
「心配だ。」
と言っては、怒った目でにらむ。
放治を休むことで 癌が再発しないだろうか、
と心配してくれているのだろうが、
余計に力をそがれる。
自分でも、なかなか風邪が治らない自分に、
嫌気がさしているのに。

2月14日。
ようやく熱が微熱になる。
今日は自分で放治に行く。
外来処置室で リュープリン注射。
健側の右腕に、看護士がしてくれる。
腕にも皮下脂肪がたっぷりあるせいか、
特別痛くはない。

帰宅すると、実家から姉が来ていた。
姉だって主婦なのだが、
こちらの主婦が 何もできなくなっていたために、
来てもらったのだ。
こんな事は、初めて。
亭主は 味噌汁を作る暇がなかった。
助かった。

2月15日。
この日は特別忙しかった。
土・日曜、祝祭日が忙しい我が家では、
週休二日が普及してくると、
土曜日と日曜日の 忙しさの差が なくなり、
時として 土曜日の方が忙しかったりする。
この日は特別忙しい日だったので、
手伝いを何人か頼んであった。
私はラクができるはずだったのだが。
家事さえできない。

ようやく平熱になったけれど、
歩くと、体が 揺れる。
ふわふわと、雲の上を歩いているみたい。
重心が取れない。
まっすぐ歩けない。
情けない。

姉に家事一切をやってもらい、
ソファで デレっと過ごした。
洗いものが終わった姉が ソファに来て、
「つめもみ療法」とかいって、
爪の半月の両脇あたりを もんでくれた。

姉も お寺の奥さんという 休みのない仕事をしていて、
私たちは 普段は 滅多に会えない。
山と積もった話がある。
歩く力も出ない私は、それでも おしゃべりを楽しみ、
あははと笑っていた。
笑ってはいたけれど。

あはは、と息を吐き出して、
次に息を吸う。
息を吸っている間に、つまらなくなる。
そうして、ため息をつくのだ。
なぜだか わからなかった。
わからなかったけど、おしゃべりをし、笑いながら、
つまらなくて、ため息をついていた。
ため息をつきながら、首は痛いぐらいに下を向き、
顎は 胸に刺さりそうだ。

そんな私を見て、姉は
「そのため息がなあ。なくなればなあ。」
と言う。
自分では 気に留めていなかったので、
変な事を言うなあ、と思っていた。 


実は姉は、深い鬱の谷間から 生還してきた後だった。
ときどき鬱っぽくなるのは 以前からだったので、
話を聞いても 私は 深くは 考えていなかったし、
薄情にも 忘れてしまっていたけれど、
その鬱の谷間、今回は かなり深かったらしい。
私が 鬱だとわかったのだ。
本人はまだ気づいていなかった。

乳がんの手術をした事や 手術による傷や 乳房の変形は
たいして 自分を痛めつけていると 思っていなかった。
だから、姉に いろんな事を話した。
乳房再建の講演に行って聞いた事、感じた事、あきらめた事・・・。
「元気な方のおっぱいを、
 手術した方の大きさに合わせて 小さくすると、
 保険がきかないから、40万もするんだってよ~。」
姉は 私が それらによって 傷つき、
鬱になったと思ったようだ。

姉は 精一杯 働いて、
17日に 私と一緒に 駅へ向かった。
姉は 実家へ、
私は 放治のために、がんセンターへ。


亭主の仕事はその後も 忙しかったけれど、
なんとか 乗り切ってもらった。
私も フワフワと
平熱と微熱を 行ったり来たりしながら、
なんとか 放治に通った。

カレーそば     八宝そば
ラーメン      カレーそば
ラーメン      けんちんうどん
サンドイッチ    鍋焼きうどん
天ぷらそば     

この天ぷらそばの日が、
最後の放治の日。
2月27日。
中に入るとすぐ、
今日が最後である事を 告げられる。
「最後の治療、いきます。」
と言って、技師が 放射線治療室から出て行った。
び~~~と いつもの音が鳴る。
嬉しさがこみ上げてきて あふれ、
両目から 左右に流れた。
治療中だったので、
ぬぐえなかった。










ホームドクター

2004-09-09 | 乳がん
我が家のホームドクターは、佐藤先生という。
佐藤先生の父上が、以前近所に開業していたので、
そのご縁で通うようになった。

胸に痛みがあったり、しこりを見つけた時に行った アノ総合病院
との 違いは、
・入院できない
・往診してくれる
・医師はひとりだけ
・いつ行っても、たいてい空いてる
・こちらの顔と名前と体質のあらましが 頭に入れてもらってある
などだろうか。

だいぶ前のこと、近所の若い奥さんに
どこの医者にかかっているのか、と聞かれたことがある。
「どこどこの、佐藤先生よ。」
「ああ! あの医者、ヤブでしょう!」
が~ん!
知らなかった、ヤブだったのか。

それでも アノ総合病院は 
元気なときじゃないと かかれない、と知っているから、
変わらずに通っていた。
そして、思った。
この先生でいい、と。
ヤブでもいい。

息子を抱いたまま
幼い娘を 小さい丸いスツールに座らせると、
娘の目の位置にまで 小さくかがんで、
「○○ちゃん。 こ ん に ち は 。」
と 最初のごあいさつ。
気難しい娘が 怖がらずに お返事をしてる。

小児科は 標榜してないのに、息子は 生まれたての頃から
たびたび やっかいになっている。
息子みたいに 小さいのは、ご迷惑では、と聞くと、
「きちんとした専門病院の方がいい場合は、
 私から どちらの病院にでも 紹介しますから。
 どうぞ 気になさらずに。」
と おっしゃって、
ずっと、家族四人で お世話になってきた。

実際、ここから 他県の病院や アノ総合病院などに
紹介してもらって 移った人も 近所に大勢いる。
あるおばあさんは、
自宅療養していたスキルス胃がんの夫を
アノ総合病院に入院させるとき、
佐藤先生が 救急車を呼んでくれて、
「私が一緒に乗っていきます。」
と自ら救急車に乗り込んで、一緒に行ってくれた、
どんなに心強かったか、
と何年たっても、ありがたがっている。


最近、「ゲート・ドクター」という言葉を
目にした事がある。
地域の医療機関において、
診察し、診断し、
適切と思われる医療機関に 紹介状を書いて
回してくれる医師のことで、
診断の正確さや 決断の早さなどが 必要とされる。
それによって
大病院の 殺人的(!)混雑を 救う、という
使命もある。
自身の収入面などを 第一に考える医師には
勤まらないに違いない。

佐藤先生に そのような意識が
あったかどうかは わからないが、
充分 ゲート・ドクターの役割を
長く果たしてこられた。

我が家は全員、
お腹を壊しても、風邪を引いても、
佐藤先生である。


私は 4週間に いっぺん、
アレルギーの 薬を いただきにゆく。
入院前にも、いただいてきた。

退院後に 行った時は、
乳がんのことを 話した。
隠してもしょうがないし。
知っていていただかないと困るし。

「なんという先生ですか?」
と聞かれ、主治医の名前を告げると、
知っている先生だ、とおっしゃる。
「山口県出身のかたですよ。」
そんなこと、知りませんよ。
「早口でしゃべる先生なんですよ。」
と私。
「そう、そう。」
同じ医大の出身で、
同じ病院で働いた事も あるらしい。
へー。
こんな事もあるんだ、偶然ねー。

2003年 2月10日、
佐藤先生の治療にもかかわらず、
私は 放射線治療を休んだ。
これで 放治の最終日が またずれた。

2月12日、
まだ微熱がある。
今日は外来へも行く。
病院へ行く事はできても、
帰ってこれる自信がない。
亭主に車で連れて行ってもらう。

マスクをしたまま、診察室に入る。
いつものように、
テキパキと 話がすすむ。
しっかり聞かないと、
早口なので、聞き漏らしそうで、緊張する。
4週間に一回の リュープリン注射を 続けたいと告げる。 

話が終わり、ほっとして 立ち上がった時に、
「インフルエンザじゃないだろうね。」
と声がかかる。
「私のホームドクターは・・・」
余分な話になると思い、言い出せなかった佐藤先生のことを
かいつまんで 口に出すと、
「ああ、○○男ちゃん。」
とおっしゃる。
「どこに行っちゃったかと思ったら、
 そ~んな所にいたのか。」
同じ病院で、アルバイトをしていたらしい。
研修医時代のことなのだろうか。

親近感がわいたけど、
先生の話の聞き取りづらさは、
それからも変わらなかった。




 

『青春と読書』

2004-09-08 | 読書
『青春と読書』という、集英社の PR 誌が あります。

PR 誌というのは、高橋三千綱氏によると、
「未来の読者に向けて、この本を推薦しますとアピールしているわけである。そこでは露骨に広告をうたれるわけではなく、エッセイふうに味付けをされている。だから定価九十円で売られている。」(『青春と読書』2004年9月号 p2)

この90円が もったいなくて、なかなか買えない。

出版社のPR 誌には
岩波書店の『図書』、創文社の『創文』、
東京大学出版会の『UP』、吉川弘文館の『本郷』、
講談社の『イン・ポケット』などなど 多数あり、
これが なかなか あなどれない。
学術論文として扱ってもらえるものあり、
連載をまとめて出版し、ベストセラーになるものあり、なのです。
私は以前 『イン・ポケット』を 定期購読していましたが、
読み応えたっぷりでした。

この『青春と読書』、行きつけの書店では、
カウンターの上、『これから出る本』のとなりあたりに 
平積みにされ、
「ご自由にお持ちください」状態になっているんです。

ある日、
手にとって パラパラとめくると、
『がんばらない』で有名になった
鎌田實氏の『あきらめない』が連載されていたので、
思いきって 
「これ、いただいていいんですか?」と聞くと、あっさり、店員が
「どーぞー」。
それ以来、
なるべくもらってきて、お風呂で読みます。

「本誌定期購読のご案内」なんてページが あるんだから、
カウンターに積んで、勝手に持って行っていいのか、
とも思うのですが、
結局、「あ、この本、面白そう。」と思った本は、
どこかの書店で出合うと 購入する事が多いので
(特に、文庫本)、
まんまと 出版社の罠に 引っかかっている私です。

最近では、
多田富雄・柳澤桂子両氏の往復書簡とか、
木田元氏の『新人生論ノート』、
あと 『救命センターからの手紙』の著者、
浜辺祐一氏の『救命センターからの手紙Ⅱ』などを
楽しみにしていました。


ところで昨日は、
早朝 治療のハシゴに出かけ、
早めの時間に 治療を終わらせて、
東京都現代美術館に行ってきました。
「花と緑の物語展」を見たかったのです。
地下鉄半蔵門線に乗った記憶も、
清澄白河駅で 降りた記憶もないので、
初めて行った美術館かもしれません。
駅も 美術館も とてもきれいでした。

途中 風の中で 雨が降ってきて、
入るのをためらいましたが、
行ってよかった。

展示の切り口も、上野公園専門の私には
とても新鮮だったし、
なにしろ 出展されている作品の ひとつひとつが
なかなかで、
私の大好きな コローの絵もあり、
帰りの時間を気にしつつ、
興奮して見てきました。

帰り道に お稲荷さんがありました。
一度 通り過ぎたのですが、
「子育て稲荷」と書いてあるので 気になって、
ちょっと後戻りして お参りして来ました。
「子」と呼ぶには ちょっと大きいけど、
ウチの高校生の ドラ息子、
生まれる前から おとなしく、
生まれた時から 手のかからない、
可愛い、いい子だったんですが、
ちかごろ、どうも・・・。
「素直な、よい子になりますように。」


そうして、夜。
疲れた体を
(何のために 治療に行ったか? 聞かないで。)
湯船に沈めて、
これも お気に入りの連載、
津本陽氏の 『月とよしきり』を読む。

平手造酒が 悪旗本を切るために、新助とともに 
日暮れに 外へ出て、
「霊巌寺と 本誓寺という 二つの寺にはさまれた道を
 西に折れ・・・・・・」(同p72)

おや?
お寺の名前に 見覚えが・・・。
すると、造酒が泊めてもらっていた親分については、
「深川一帯を縄張りとする大親分」と、書いてある。

あのお稲荷さんの入り口には、
「深川稲荷」と 提灯に書いてあった気がする。
では、霊巌寺、本誓寺というのは、
私が途中 前を通ってきた、あのお寺だあ!

ひとり、湯船の中、興奮してしまったので、
ぜひともここで ご報告したくて。

「お寺」、やっぱりちょっと、気になるんですね、私。






2004-09-06 | 
一昨日の新聞に、真赤なカルメンの衣装の 木の実ナナの広告が
ありました。
シオノギ製薬の、抗うつ薬の治験協力者募集の広告です。

曰く、
 「あなたの理解が、『うつ』からの出口でした。」
 「うつになるといろいろなものを失ってしまいます。
  笑顔、睡眠、元気、意欲・・・。
  一番つらかったのは、家族や友人との距離が遠くなることでした。
  『もっと早く言ってくれたらよかったのに』。 言いたかったけど、 
  怖くて自分からは相談できなかった。
  『そう言えば、つらそうな顔してたよね』。 つらくて助けてほし 
   かったけど、うつを知られたくなかった。
  これ以上、迷惑をかけられないと思い込んでいた。」         
                                     


最近、私は すこ~し鬱になりました。
プチ鬱です。
夏の疲れ。 
お盆前後の仕事の疲れ。
亭主の実家に行った時の、精神疲労。
オリンピックを見るための夜更かし。
8月最終週から学校が始まる、息子の朝の送りのための早起き。
睡眠不足。
生活リズムの乱れ。
このブログが、どんどん楽しくない時期の内容に、突入していくこと。
直接的には、週に一度の私の遠出の 治療院のハシゴの日に、
外出禁止になった事が 原因だったかと思います。

あさっては 東京に行けない、となった日から、
どんどん、目線が下がる。
ぐううう~ん。と音がして、口角が下がる。
すごーく 「へ」の字の 口です。
ため息が多くなる。
何もしたくない。
日を追うごとに、つまらない。面白くない。

ああ、鬱だなあ。
自分でわかったのですが、家族は誰も気づかないみたい。

思い切って、亭主にカミング・アウト。
「私、ちょっと、欝っぽい。
 今日は、ぐでぐでしてる。」
「夏の疲れがでたんだろう。
 マンガ読んで、寝てろよ。」
嬉しかった~。

そして、しめしめ、とばかり、
マンガをかかえて、ベッドルームで、ぐでぐで。
食事は、チョー手抜き。
こ~んなにラクチンしていいなんて。
もっと、早く言えばよかったかしら。

ぐでぐでの日々は、残念ながら、二日と半で 終わってしまいました。
ぐでぐでが 効いたのか。
規則正しく 早起きを続けたのが 良かったのか。
亭主が 遊んでる私を 責めないのが効いたのか。
ぐんぐん良くなってきてしまって、
プチ鬱とは オサラバできたのでした。


広告の中の文章が続きます。
 「うつには、うつを理解して、気づいてくれる人が必要です。
  だから、あなたの周りのサインに気づいてあげてほしいのです。
  うつには、相談しやすい環境が必要だから。」
 「あの人をうつからとりもどそう。」

去年の2月の私は、
自分が欝だということに まったく気づいていませんでした。

欝の始まり

2004-09-05 | 
渋谷まで出かけて、完璧な乳房再建の難しさの知って、ショックを受けて 疲れて帰ってきて、
次の2月3日は、いつもより 寝坊した。
日記には、「節分も淋しい」なんて書いてある。
 
2003年2月4日、
朝、駅の階段を登るときに 右ひざが痛んだ。
この日の日記。
「ゆうべは いろいろ考えて、ねむれなかった。
 初めてだ。
 答えは 出ない。」
何を考えてたのか。乳房再建を、多分もう あきらめていたと思うが。


このころ、
書きなぐったメモがある。
電車の中で書いたものが ほとんどだと思う。

「私は 何になりたかったのだろう
 私は 何をしたいのだろう
 私は 何をやりたいのだろう
 私は どう生きたいのだろう」

「つまらない つまらない つまらない」

「私には 友達が いないのだ」

「そうだ、私は 普段 緊張する事がないのだ。
 電話のベルにも 緊張しなくなったし。」

「思索。哲学すること。」

むちゃくちゃな内容だが、思った事をそのまま 文字にして、
小さな手帳に 小さな字で、精一杯 丁寧に書いている。
忘れたくない思いだったのだと思う。

「自分らしく生きるためには エゴイストになれ、
 というタイトルの本があった。
 ドッキリして 悲しくなった。
 私に必要なのは、こういう本だと思った。
 だけど 本当に 自分が やりたいことや
 自分に必要なものが わからない。
 こんな悲しい事ってあるだろうか。
         ※渋谷駅前の子供の本のお店で見つけた。
          私、こんな本のお店を したかったなあ。」

「絵を描きたい。 
 歌をうたいたい。
 語学が好き。
 イーゼルがほしい。」

「2月です。
 これからの さまざまなことを
 計画したいと思います。
 いろいろなことを、無理をせずに。」

「泣きたいくらいつまらない。」

「私は 頭は 悪くないのだ、と 思いたい。」
 
「どうせ○○できっこない、
 というふうには 
 あきらめないこと。
 できないかもしれないけど、
 やってみよう。」
 
「あなたの夢は なんですか?
 
 --夢をみつけることです。
 いつかはきっと 見つけたいと思います。」


こんなに いろんな事を考えたのは、久しぶりだったと思う。
考える事自体は、嫌いじゃなかった。


この冬は、寒かった。
少なくとも私には、寒かった。

朝、痛む足を なんとか靴に入れて 玄関を出ると、
そこには 枯れた花が あった。
玄関前の植え込みの 一番日の当たる場所は、
いつも 華やかな色の 花を植えている。
秋から冬の花に 植え替えをするのを サボった。
サボる理由ができた、というところか。
そうして、暗い気持ちで出かける私を、
枯れたベゴニア・センパフローレンスが 見送り、
また 疲れて帰る私を 迎えてくれるのだ。
首は 痛いほど下を向き、
枯れた花がそのままになっているのが 嫌でも目に入る。

冷たいハンドルを握って 駅へ向かう。
駅は 風の通り道。
電車を待つ5分や10分は、
田舎育ちの私には 待つうちには入らないはずなのだが、
そのわずかな時間を ホームで じっとたたずんでいるのは、
この上なく辛い。
じっと。
ただ、じっと。 
耐える。


そして週末、風邪で熱を出してダウンした。
放射線治療に通うのに、飽き飽きしていた。

防災の日

2004-09-04 | 考えたこと
今月の ゾラデックス注射は、ちょうど防災の日でした。
がんセンターの 最寄の駅につくと、
訓練が終わった所のようでした。
いくつもの挨拶に、拍手がありました。

訓練がムダになるといいですね、何も起こらずに。
訓練が生かされるといいですね、いざという時には。

この防災の日は 関東大震災のあった日、ということですが、
わたし、地震は、だいっきらいです。怖いもの。

超(!!!)年代モノの 建物に住んでいたので、
よくゆれたんです。
基礎は大きな丸い石で、家の柱が 直接乗っかってました。
柱という柱は みいんな 傾いでいて、
屋根は、茅葺。
時は、高度成長時代、
国道を ダンプカーが 鹿島へ、成田へと 走り回っている頃。
小さい頃は まだ国道が 舗装されていなくて、
ダンプが 疾走すると、奥に建っている我が家が、
ガタガタと 音を立ててゆれてました。
舗装されると、幾分ゆれは マシになりました。
交通戦争、勃発の時代。

小学校の高学年の時に、
確か十勝沖地震というのがあって、
高学年の教室が入っている鉄筋二階建ての新校舎が 
凄くゆれて、長~くゆれて、乗り物酔いしそうだったことが
忘れられません。
(低学年は、木造の校舎、二階で雑巾バケツを ひっくり返すと
 一階に漏れてくる、あの あ懐かしいタイプの 校舎でした。)
私は、「我が家は、潰れていないか」と、
半分本気で心配してました。
さすが、関東大震災にも負けなかった建物、
なんともありませんでした。
いつものように、少し 南東にかしいだまま、がっしりと建っていました。
茨城は、地震が多いんです。

倒れたブロック塀の犠牲者が 多かったのは、
新潟地震だったでしょうか。
盲点だったので、びっくりしましたが、
今でも、もしかしたら いざ、と言う時には、
塀に近寄ろうとするかも知れません。

忘れた人も多いと思うけれど、
千葉・茨城で 大きな被害が出た地震があります。
あの時に、石灯籠の下敷きになった 寺庭婦人がいました。
どこの町だったかは 忘れましたが、
まだまだ お若い方で、
子供があったら、まだ小さいだろうに、と哀れに思いました。
きっと、石灯籠のそばに、
思わず近寄ってしまったのだと思います。
実家は建物が新しくなった後だったので、
被害は 少なくて済みました

阪神・淡路大震災のときの ニュースの影像は、
誰しも ショックを受けた事と思います。
ショックであるとともに、
私は 脱力感、無力感に とらわれました。
自然の脅威に対し、
無力な人間、何もできない自分。
あんな思いは、もうしたくありません。

なのに、何度も 同じ思いに とらわれます。
湾岸戦争。
天安門広場。
9.11。
イラク戦争。
チェチェン紛争から、今回の 北オセチヤ共和国事件。
戦争・紛争の歴史を見ると、
人は 歴史からは 何物をも 学べずにいるようです。

それでもきっと、自然災害からは 少しずつ知恵を
つけさせてもらっている、と思いたいのです。
今年の台風の爪あとも、被害や犠牲が 予想外に多かったけれど、
もう少し小出しに被害を出してくれれば、対策をたてられるのに。

そして、びっくりしたのは、
浅間山の噴火です。
防災の日に 噴火するなんて。
きっと、今のうちに対策を立てるようにという、
自然の啓示だと思います。
人間は、もっと謙虚にならねば・・・。

・・・防災グッズ、私はまだ、揃っていません。